2024年6月13日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」3章1〜7節 教会の牧師の有するべき特徴(その3)

 牧師の職務とそれを遂行するために必要とされる諸条件

「テモテへの第一の手紙」3章

 

教会の牧師の有するべき特徴

「テモテへの第一の手紙」3章1〜7節(その3)

 

パウロが今まで列挙してきた要求項目をみてみると、

実は「よく教えることができること」だけが職業上必要なものとして

牧師に対して特別に要求されている技能であり、

他のすべての項目はキリスト信仰者一人一人にも要求されているものであること

がわかります。

そう考えると、

「これらの要求項目は教会の指導者になる条件としては容易すぎるのではないか」

とか

「せめてパウロがこの箇所で述べている15の特徴程度は

現代の牧師になる人にも要求するべきではないか」

といった意見が出てきても不思議ではないほどです。

 

今まで述べられてきたすべての事柄は

「私たちが教会の信仰的な指導者たちのためにとりなしの祈りをするように」

という奨励として受け取ることもできます

(「ローマの信徒への手紙」15章30〜31節、

「エフェソの信徒への手紙」6章18〜20節、

「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章25節)。

 

キリスト教会にはそこで奉仕するための特別な職務が最初から存在していました

(「使徒言行録」14章23節、20章28節)。

 

「監督」(ギリシア語で「エピスコポス」)は

本来、監察官や上司といったこの世の社会での職務名でしたが、

後には多くの言語で

教会の指導者(英語のbishopなど)を意味するものとなりました。

パウロの時代では「長老」と「監督」は

等しく教会の指導者のことを意味していました

(「使徒言行録」20章17、28節、

「テトスへの手紙」1章5〜7節、

「ペテロの第一の手紙」5章1〜2節)。

 

「長老」(ギリシア語で「プレスビュテロス」)は

後に多くの言語で牧師のことを意味するようになりました

(例えば英語のpriestなど)。

 

監督に与えられた使命は教会を教導し説教することです

(「テモテへの第一の手紙」3章2節、5章17節)。

監督はあらゆる異端から教会を守らなければなりません

(「使徒言行録」20章28〜31節)。

 

3章2〜3節にある牧師に要求される諸項目を読むと、

初期の頃の諸教会が決して理想的な信徒の集まりではなかったことがわかります。

かつてスウェーデンのルーテル教会の教区長(ビショップ)であったBo Giertzは、

初期の教会の教会員たちが「火の中から取り出した燃えさし」

(「ゼカリヤ書」3章2節)のような存在であり、

多くの者にはまだかなり焦げた臭いが付着していた、

という言い方をしましたが、

当時の教会の実情に即した評価だと思います。


そういうこともあって、教会の指導者たちには、

以前の自分たちの異教徒(非キリスト教徒)としての生き方と

明確に訣別する生き方が要求されたのです。

 

ここでパウロはある意味では自明ともいえる事柄を

牧師になる者からあえて要求していないことに注目しましょう。

例えば牧師が信仰をもっていることや信仰について証する能力があることは

当然のこととみなされています。

ただし牧師がよく教えることができる人物であるべきことは

要求項目に入っています(3章2節、「テモテへの第二の手紙」2章24節)。

 

原則として人は自分が教会の指導者の職につくことを希望することができる

とパウロは考えているようです(3章1節)。

現代では牧師となる人は教会の職に(少なくとも形式的には)招聘されます。

しかし実際には現代でも

「牧師になりたい」と望む人が招聘を受けることになります。

 

「さらにまた、教会外の人々にもよく思われている人でなければならない。

そうでないと、そしりを受け、悪魔のわなにかかるであろう。」

(「テモテへの第一の手紙」3章7節、口語訳)

 

この節の終わりの部分については二通りの解釈ができます。

第一の解釈は「牧師たちの中には悪魔の仕掛けた罠に陥る者が出てくる」

というものです。

第二の解釈は「牧師たちの中には悪魔と同じ裁きを受ける者が出てくる」

というものです。

これらを比べると第一の解釈がより適切であると思われます

(6章9節、「テモテへの第二の手紙」2章26節。

また「コリントの信徒への第一の手紙」10章32節も参考になります)。

2024年6月10日月曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」3章1〜7節 教会の牧師の有するべき特徴(その2)

  

牧師の職務とそれを遂行するために必要とされる諸条件

「テモテへの第一の手紙」3章

 

教会の牧師の有するべき特徴

「テモテへの第一の手紙」3章1〜7節(その2)

 

2)慎み深いこと(3章2節)


指導者たちには彼ら自身の行いを吟味し監督してくれる

他の指導者たちが欠けています。

それゆえ彼らは自分で自分を律しなければなりません。

 

3)旅人をもてなすこと(3章2節)


古典古代における「宿屋」の評判はけっしてよいものではありませんでした。

それもあってキリスト諸教会は

方々を旅して回る説教伝道者たちに安全な宿泊所を提供したのです

(「テトスへの手紙」1章8節、

「フィレモンへの手紙」22節、

「ヘブライの信徒への手紙」13章2節、

「ヨハネの第三の手紙」5〜8節)。

 

4)よく教えることができること(3章2節)


これは教会の牧師の有するべき様々な特徴のうちでも

唯一職業的に要求される資質です。

神様は牧師の職務を遂行するために必要な賜物や技能を貸与してくださいます。

その一方で神様はすでにあらかじめ特定の人々を

キリスト教会の僕(しもべ)として用意なさってもいます。

 

5)酒を好まないこと(3章3節)


ここでパウロは絶対的な禁酒を要求しているのではありません

(「テモテへの第一の手紙」3章8節、5章23節、

「ヨハネによる福音書」2章1〜12節の

「カナの婚礼」の出来事も参考になります)。


アルコールは指導者にとって最も重要な資質のひとつである

判断力を鈍らせてしまいます。

「箴言」は酒のもたらす危険について王たちに警告しています

(「箴言」31章4節および20章1節および23章29〜35節、

「イザヤ書」5章22〜23節および28章7〜10節も参考になります)。

 

6)ふさわしい性質(3章3節)


牧師は寛容であるべきで(「フィリピの信徒への手紙」4章5節)、

人と争わず、乱暴でなく(「テトスへの手紙」1章7節)、

争いません(「テトスへの手紙」3章2節)。

 

7)金銭に対して正しい態度を保っていること(「金に淡泊」3章3節)


牧師は貪欲であってはなりません

(「テモテへの第一の手紙」6章5、10節、

「テモテへの第二の手紙」3章2節、

「ペテロの第一の手紙」5章2節。

また「ヨハネによる福音書」12章6節も参考になります)。

 

アメリカ合衆国のテレビ説教者たちの中には

キリスト教関係のテレビ番組が集金手段として優れていることに

気づいた人々もたくさんいました。

すると彼らの説教からは福音が消えてしまったのです。


旧約の預言者サムエル(「サムエル記上」12章1〜5節)と

新約の使徒パウロ(「使徒言行録」20章33〜35節)は

金銭や財産に関して過ちを犯さなかった

と同時代の人々から証言されていました。


ところが旧約の預言者ミカの時代の

この世の指導者たちやユダヤ教の指導者たちはそろって強欲でした

(「ミカ書」3章1〜5節)。

 

8)自分の家をよく治めること(3章4〜5節)


主の祭司エリはこの点で人々が避けるべき反例となっています

(「サムエル記上」3章12〜14節)。

エリは自分の二人の息子たち(祭司ホフニとピネハス)に

主を畏れない悪行をこれ以上続けないようにきちんと訓戒できなかったのです。


キリスト信仰者にとって自分の家族は

「最も難しく最も重要な宣教地」であるとも言われます

(「テトスへの手紙」1章6節を参照してください)。


キリスト教伝道に携わる者にとって家族からの支えは非常に重要になります。

 

9)キリスト信仰者として成熟していること(3章6節)


信者になって間もない者が早々と教会の指導者の地位に上ると

高慢になる可能性が高くなります。


異端と戦うためには

キリスト信仰者として十分に成熟していることと

キリスト教の教義を堅く保持していることが要求されます。

人は信仰の中で成長していきますが、

そのためには相応の時間を必要とします。

 

10)教会の外部の人々からもよい評価を得ていること(3章10節)


教会の指導者は教会全体を代表する存在でもあります。

彼は教会に属さない人々に対して

「どのような教会であるか」という印象を与える立場にあるからです

(「コリントの信徒への第一の手紙」10章32節、

「コロサイの信徒への手紙」4章5節、

「テサロニケの信徒への第一の手紙」4章12節)。

 

2024年6月7日金曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」3章1〜7節 教会の牧師の有するべき特徴(その1)

 牧師の職務とそれを遂行するために必要とされる諸条件

「テモテへの第一の手紙」3章

 

教会の牧師の有するべき特徴

「テモテへの第一の手紙」3章1〜7節(その1)

 

前章でパウロは誰が教会の指導者、牧者として活動してはいけないか

について語りました。

今度は彼は教会の牧者に要求される15の特徴を列挙しています。

それらは次の10のグループに分けることができます。

 

1)ひとりの妻の夫であること(3章2節)


この特徴に反するケースとしては次のような5通りの例が考えられます。

パウロが反対しているのは次の5つのいずれかのケースになります。

 

A)未婚者を教会の牧者として選ぶこと


ギリシア正教会では司祭は輔祭になる前に

結婚するかしないかを決心しなければなりません。

ローマ・カトリック教会はそれとは異なる、

聖書的ではない極端なやりかたを採用しました。

神父は生涯独身を貫き、未婚のままでいなければならないという制度です。

しかしイエス様(「マタイによる福音書」19章10〜11節)も

パウロ(「コリントの信徒への第一の手紙」7章7節)も

人が結婚している状態をキリスト信仰者にとって最も自然な選択肢である

という立場をとっています。

 

B)一夫多妻制


ローマ法は夫が妾をもつこと(一夫多妻制)を承認していました。

一夫多妻制は初期の教会のキリスト信仰者たちの間にもあったかどうか

知られていませんが、

アフリカの多くの国々における海外伝道の現場では

今でも見うけられるものです。

 

C)再婚者を教会の牧者として選ぶこと


ユダヤ教では

夫がほぼどのような理由であれ妻を離縁して新たな妻を娶ることができる

という一夫多妻的な夫婦関係が見られました

(「マタイによる福音書」19章3〜9節および

「ローマの信徒への手紙」2章22節)。

 

これに対してパウロは、

離婚した者は前の結婚相手が生きている間は再婚してはならない

という立場を取りました

(「ローマの信徒への手紙」7章2〜3節、

「コリントの信徒への第一の手紙」7章39節)。

 

D)やもめの再婚


一般的にレビ族の祭司は寡婦と結婚することが許されていませんでした

(「レビ記」21章14節、「エゼキエル書」44章22節)。

教会教父テルトゥリアヌスはこの聖書の箇所が、

キリスト信仰者の牧師もまた寡婦と結婚してはならないことを教えている

と解釈しました。

しかしこの解釈は奇妙です。

パウロは結婚そのものを禁じるグノーシス主義者たちの考え方と

戦っていたからです。

もしもパウロの考えがテルトゥリアヌスの解釈通りのものだとしたら

「パウロがそれについてもっと明確に述べなかったのはなぜなのか」

という疑問が生じます。

 

なお現代の翻訳では「一度だけ結婚したことがある者」という具合に

「夫」という言葉を使用しないものさえ見受けられるようになってきました。

 

E)不実


この箇所を「結婚において忠実であること」と解釈する案もあります。

しかしこの解釈には反論できます。

結婚における忠実さは教会の指導者だけにではなく

キリスト信仰者全員にも当然要求されるものだからです。

2024年5月23日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」2章8〜15節 教会における男性と女性(その5)

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック「テモテへの第一の手紙」2章8〜15節

教会における男性と女性(その5)

「女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。」

(「テモテへの第一の手紙」2章11節、口語訳)

 

女性が教える権利についてパウロが否定的になったのはユダヤ教の影響である、

という主張がなされることがあります。

しかしユダヤ教は女性に対してパウロよりもはるかに厳しい態度を取っています。

エルサレム・タルムードでは、

女にトーラーを教えるくらいならトーラーを燃やしてしまったほうがよい

とさえ言われています

(「トーラー」とは律法のことであり旧約聖書の最初の五つの文書を指します)。


それとは対照的に、イエス様やパウロは女性たちにも聖書を教えました。

また女性がキリスト教について他の人に個人的に教えることについて

パウロは反対していません

(「使徒言行録」18章26節、

「テモテへの第一の手紙」5章10節、

「テモテへの第二の手紙」1章5節、3章15節、

「テトスへの手紙」2章3〜5節、

「ペテロの第一の手紙」3章1節)。

これは教える相手が男性である場合も含まれていました。


しかしパウロは女性が教会の教師(牧師)として教えることについては

容認しませんでした。

 

上掲の節にある「従順」も現代ではあまり評判がよくない考え方ですが、

社会の中の様々な組織(例えば会社、軍隊、政府など)は

今でも上司と部下の上下関係に基づいて構成されています

(「コリントの信徒への第一の手紙」14章40節)。

 

キリスト信仰者はまず自分自身がキリストの下に立たなければなりません

(「エフェソの信徒への手紙」5章21〜25節)。

そうなった後でようやく男性は女性が自分の下に立つことを期待できるのです。

とはいえ、男性は女性に対して暴君や独裁者であってはなりません。

男性は自身がキリストの下に立つ覚悟をどの程度もっているかに応じて

女性が自分の下に立つことを期待できるとも言えるでしょう

(「「テトスへの手紙」2章4〜5節も参考になります)。

 

エフェソはディアナあるいはアルテミス崇拝の中心地でした

(「使徒言行録」19章34節)。

そしてグノーシス主義はギリシア人の異邦の諸宗教からも影響を受けていました。

 

グノーシス主義では蛇とエバは真理の教師とされ、

女たちが教会の指導者となりました。

また子どもを産むことは罪とみなされました

(これらの主張と次の聖書の箇所を比較してください。

「テモテへの第一の手紙」2章15節、4章3節、5章14節)

 

「またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。」

(「テモテへの第一の手紙」2章14節、口語訳)

 

エバがサタンの悪巧みに誘惑されたことをパウロはこの節で強調しています

(「コリントの信徒への第二の手紙」11章3節も参照してください)。

エバではなくアダムが長子であり最初の人間でした。

神様御自身がこの世界に特定の秩序を設定なさったのであり、

人間の側で勝手にそれを変更することは許されることではありません。

 

「しかし、女が慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、

子を産むことによって救われるであろう。」

(「テモテへの第一の手紙」2章15節、口語訳)

 

この節の「子」をイエス様に当てはめている翻訳もあります。

しかしこの解釈には相当無理があります。

「人は信仰を通して義とされるという信仰義認の教えを

なぜパウロがこのようにヴェールに包むようなやりかたで述べているのか」

という疑問が出てくるからです。

パウロがここでグノーシス主義の「秘密の知識」を喧伝している者たちを相手に

戦っていることを踏まえるとき、

それと同様な秘密めいたやり方でパウロが真理を語っていると考えるこの解釈は

一層不自然に思われます。

2024年5月16日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」2章8〜15節 教会における男性と女性(その4)

「テモテへの第一の手紙」2章8〜15節 教会における男性と女性(その4)


「テモテへの第一の手紙」2章11〜15節に書いてあることはすべて、

エフェソのグノーシス主義者たちに対するパウロの「原始的な反応」にすぎず、

現代のキリスト信仰者たちには何の重みも持たないと考えるべきなのでしょうか。


ここで第一に想起すべきことは、

新約聖書と旧約聖書に含まれるすべての文書は

それぞれ特定の歴史的な状況の中で生まれたということです。

文書に歴史的な背景があるからといって、

その文書の教えそのものを捨ててもかまわないということにはなりません。

 

第二に、パウロのすべての手紙が私たちの生きる現代まで

保存されてきたわけではないということを思い起こす必要があります。

例えばコリントの教会に宛てた複数の手紙のうちの二通は

今でも見つかっていないことがわかっています

(「コリントの信徒への第一の手紙」5章9節、

「コリントの信徒への第二の手紙」2章4節)。

またラオデキヤの教会に送られた手紙も残っていません

(「コロサイの信徒への手紙」4章16節)。


パウロの多くの手紙のうちの一部分だけが

私たちの時代にまで保存されてきたのは

聖霊様の働きかけによるものです。

まさにこれら保存されてきた一群の手紙を通して

神様は私たちに語りかけることを望んでおられるということなのです。

 

「神は無秩序の神ではなく、平和の神である。

聖徒たちのすべての教会で行われているように、

婦人たちは教会では黙っていなければならない。

彼らは語ることが許されていない。

だから、律法も命じているように、服従すべきである。

もし何か学びたいことがあれば、家で自分の夫に尋ねるがよい。

教会で語るのは、婦人にとっては恥ずべきことである。

それとも、神の言はあなたがたのところから出たのか。

あるいは、あなたがただけにきたのか。

もしある人が、自分は預言者か霊の人であると思っているなら、

わたしがあなたがたに書いていることは、主の命令だと認めるべきである。

もしそれを無視する者があれば、その人もまた無視される。

わたしの兄弟たちよ。

このようなわけだから、預言することを熱心に求めなさい。

また、異言を語ることを妨げてはならない。

しかし、すべてのことを適宜に、かつ秩序を正して行うがよい。」

(「コリントの信徒への第一の手紙」14章33〜40節、口語訳)

 

神様から授けられた権能に基づいてパウロは

上掲の箇所で女性が教会の集まり(礼拝)で教えることを禁じています。

パウロのこの見解は意味が曖昧なものではなく、

エフェソ教会特有の状況や問題に限定されるものではないと言うことができます。

しかしこれが今日のキリスト信仰者たちにとっても規範となるものであることを

認めようとしない人々が現代には大勢います。

 

例えば女性牧師制をめぐる諸問題は

聖書とその教えの規範性に関わる問題にほかならないことに注目してください。

もしも聖書の教えをある箇所について捨ててもよいと考えるのならば、

他の箇所についても聖書の教えを捨てることが平然とできるようになります。

2024年5月13日月曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」2章8〜15節 教会における男性と女性(その3)

教会における男性と女性「テモテへの第一の手紙」2章8〜15節(その3)


すでにべてきたようなグノーシス主義の世界観にはくの異説があるが、

互いに共通している部分もある。


天界のエピノイア = ピスティス = ソフィア

あるいはらかのばれる存在が、

この悪の世界に新しい人間たちが

これ以上生まれてこなくてもよいようにするために、

りの創造神結婚どもの出産から解放されるように

人間たちを教育することを主な目的として活動しているというである。


このような啓蒙を受けた女たちは「母 = 父」の種子である。

彼らは男に対しても女に対しても権威ある者として登場し、

彼らに真理を教えることができる。


このような世界観に基づいて形成される思想的な背景に照らし合わせると、

パウロの意図することが浮き彫りになってくる。


グノーシス主義者たちは

創造の秩序を破壊して男性を支配下におく権能をイエスが女性に授けた

と主張した。

それに対してパウロはキリストの使徒として

この主張を容認できないと返答しているのである。


「男の上に立ったりすること」という時、

パウロはごくまれな単語(ギリシア語で「テンテオー」)を用いているが、

実はこれはグノーシス主義者たちが使用していた専門用語である。

この単語は無条件の権威を手中に収めることと、

反論を一切許さない権威によって法を制定することを意味している。

キリスト信仰者たちはそのような権威が実際に存在することを知っている。

しかしそのような権威は神様しか有しておられないものである。


神様からいただいた使命に基づいて御言葉を教会に宣べ伝える時、

福音宣教者はこの権威を付与されている。

最初期の教会では使徒たち、預言者たち、正しい御言葉の僕たちは

この権威に基づいて宣教できることが認知されていた。


しかしグノーシス主義者たちは

女たちも同じことができると主張しているのである。

それに対してパウロはそれが神様の御意思ではないことを示す。


女は教師として皆の前に現れて

「男の上に立ったりすること」をするべきではない。

これは妻が夫の上に立ってはいけないという意味ではなく、

礼拝における秩序にかかわる問題である。


前掲の「テモテへの第一の手紙」2章11〜15節の内容は、

神様のお遣わしになった教師また指導者として

礼拝で皆の前に立つことを示唆していると理解されるべきである。

「静かにしている」(ギリシア語では「エン・ヘーシュキアー」)とは

「静かに聴く」ということであり、

ここでは礼拝で教えを聴くことを意味している。

「ヘーシュキアー」は沈黙、静けさ、聴くことを意味する。」


Bo Giertzの本からの引用はここまでです。訳者注)

2024年5月8日水曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」2章8〜15節 教会における男性と女性(その2)

 「女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。

女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。

むしろ、静かにしているべきである。

なぜなら、アダムがさきに造られ、それからエバが造られたからである。

またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。

しかし、女が慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、

子を産むことによって救われるであろう。」

(「テモテへの第一の手紙」2章11〜15節、口語訳)

 

ある聖書研究者たちは

牧会書簡を書いたのがパウロではないことを示す十分な根拠として

上掲の箇所を挙げています。

パウロが女性に対してこれほどまで否定的な態度をとることは

ありえないはずであると彼らは考えるのです。

 

その一方で、別の聖書研究者たちは

上掲の箇所を引き合いに出してパウロを女性蔑視者と決めつけて断罪し、

それを口実にしてキリスト教の信仰と教えそのものを捨ててしまいました。

 

上掲の箇所は新約聖書の中でも

適切に理解するのが最も困難な箇所のうちのひとつです。

例えばパウロは女性が「子を産むことによって救われる」と

本当に考えていたのでしょうか。

 

1945年にエジプトで発見されたグノーシス主義の文書

(ナグ・ハマディ文書)は当時の思想史的な文脈に基づいて

この箇所を理解するのに役立つ貴重な情報を提供してくれます。

 

スウェーデンの神学者Bo Giertzは牧会書簡の解説書で

この文書について次のように説明しています。

 

「これらの文書に基づいて以前よりもはるかに詳細なことが

グノーシス主義についてわかってきた。

グノーシス主義は他の諸宗教からの様々な要素を

ためらうことなく積極的にキリスト教に導入した

当時の「世界教会主義」であった。

グノーシス主義はユダヤ教からは

聖書の人名や人間の創造と堕罪の物語を取り入れつつも、

旧約聖書の神信仰の内容については

ユダヤ教とはまったく異質なものへと改変を施した。

グノーシス主義によれば、

真の神は名を持たない知られざる存在であり、

人間には及びもつかない遠方に潜んでいる。

この真の神から、より低次元の神的な存在が発出している。

この存在は両性的な「母 父」あるいは女神として理解されている。

この女神にはピスティス、ソフィア、エピノイア、バルベロといった

多くの名が付与されている。

万象の始原とされる「母」にまつわる創造神話には多くの異説がある。

たいていの場合、

この母は新しい神である創造神デミウルゴス

(「ヤルダバオート」などと呼ばれる)を誤って産んでしまった存在と

位置づけられている

(グノーシス主義者たちは天界の諸力に仰々しい名を付けることを好んだ)。

いま最後に挙げた旧約聖書の神、デミウルゴスは

不完全で、しばしば悪の力として働く存在ととらえられている。

悪の天使たちの助けによってこの神は人間の肉体を造ったが、

それに命を与えることには失敗した。

そこで女神が自らの光の力を人間の肉体に吹き込むことによって

ようやく人間に命が生じた。

こうして最初の人間が生まれるが、

それは「アンドロギューニ」すなわち

同時に男でもあり女でもある両性的な存在である。

ヤルダバオートとその悪の手下たちは

女神の光の力を手に入れようとしてアダムの一部を切り取って女を造った。

エバは天界の光の力から、より大きなかけらを手に入れるが、

デミウルゴスは彼女を誘惑することに成功する。

デミウルゴスは性的な欲望を惹き起こしエバと婚姻関係を結ぶことになる。

その後、死が入り込み、人間たちは死の隷属下におかれる。

女神が人間たちの目を開いた結果、

彼らは男と女に分たれ、いかなる不幸が起きたのかに気づく。

実はここに救いがある。

聖書が罪への堕落と呼んでいるその瞬間にすでに解放は始まっている。

解放する女神は知識の木の中に隠れ、蛇の口を借りて語りかけ、

禁じられた実をエバに食べさせた。

その結果、エバは理解力を得たのである。

同じ神の力は人間たちの目を開くために働きかける。

その結果、

彼らは男と女の間の違いにはどのような不幸が内包されているかを見て、

それを否定するようになる。

それとともに彼らは結婚も性交も出産も否定するようになる。

この時、彼らは男も女も存在しない原初の状態への旅をしているのだ。

グノーシス主義者たちはマグダラのマリアを特に高く評価した。

イエスは彼女を使徒の誰よりも愛した。

彼女はイエスといつも一緒にいることを許されていた。

使徒たちはそのことで機嫌を損ねたが、

イエスは「私は彼女を男にするために彼女を導かなければならないのだ。

自分自身を男へと変える女は皆、天の御国に入れるからである」と言った。

ナグハマディ文書の中に含まれる「マリアの福音書」では

マグダラのマリアが使徒たちに主から得た啓示を教えている。

アンデレはキリストが本当にそれらすべてのことを言ったのかどうか疑う。

救い主は使徒たちにそれについて語らなかったため、

ペテロは救い主が本当に彼女にそのようなことを個人的に話したのかどうか

マリアを詰問し始める。

しかしレビはペテロをたしなめてこう言う。

「もしも救い主がマリアをそのように評価したのだとしたら、

彼女を否定しようとするお前は何様のつもりだ」。

こうしてマリアが正しいことが示される。」(つづく)