2024年6月13日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」3章1〜7節 教会の牧師の有するべき特徴(その3)

 牧師の職務とそれを遂行するために必要とされる諸条件

「テモテへの第一の手紙」3章

 

教会の牧師の有するべき特徴

「テモテへの第一の手紙」3章1〜7節(その3)

 

パウロが今まで列挙してきた要求項目をみてみると、

実は「よく教えることができること」だけが職業上必要なものとして

牧師に対して特別に要求されている技能であり、

他のすべての項目はキリスト信仰者一人一人にも要求されているものであること

がわかります。

そう考えると、

「これらの要求項目は教会の指導者になる条件としては容易すぎるのではないか」

とか

「せめてパウロがこの箇所で述べている15の特徴程度は

現代の牧師になる人にも要求するべきではないか」

といった意見が出てきても不思議ではないほどです。

 

今まで述べられてきたすべての事柄は

「私たちが教会の信仰的な指導者たちのためにとりなしの祈りをするように」

という奨励として受け取ることもできます

(「ローマの信徒への手紙」15章30〜31節、

「エフェソの信徒への手紙」6章18〜20節、

「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章25節)。

 

キリスト教会にはそこで奉仕するための特別な職務が最初から存在していました

(「使徒言行録」14章23節、20章28節)。

 

「監督」(ギリシア語で「エピスコポス」)は

本来、監察官や上司といったこの世の社会での職務名でしたが、

後には多くの言語で

教会の指導者(英語のbishopなど)を意味するものとなりました。

パウロの時代では「長老」と「監督」は

等しく教会の指導者のことを意味していました

(「使徒言行録」20章17、28節、

「テトスへの手紙」1章5〜7節、

「ペテロの第一の手紙」5章1〜2節)。

 

「長老」(ギリシア語で「プレスビュテロス」)は

後に多くの言語で牧師のことを意味するようになりました

(例えば英語のpriestなど)。

 

監督に与えられた使命は教会を教導し説教することです

(「テモテへの第一の手紙」3章2節、5章17節)。

監督はあらゆる異端から教会を守らなければなりません

(「使徒言行録」20章28〜31節)。

 

3章2〜3節にある牧師に要求される諸項目を読むと、

初期の頃の諸教会が決して理想的な信徒の集まりではなかったことがわかります。

かつてスウェーデンのルーテル教会の教区長(ビショップ)であったBo Giertzは、

初期の教会の教会員たちが「火の中から取り出した燃えさし」

(「ゼカリヤ書」3章2節)のような存在であり、

多くの者にはまだかなり焦げた臭いが付着していた、

という言い方をしましたが、

当時の教会の実情に即した評価だと思います。


そういうこともあって、教会の指導者たちには、

以前の自分たちの異教徒(非キリスト教徒)としての生き方と

明確に訣別する生き方が要求されたのです。

 

ここでパウロはある意味では自明ともいえる事柄を

牧師になる者からあえて要求していないことに注目しましょう。

例えば牧師が信仰をもっていることや信仰について証する能力があることは

当然のこととみなされています。

ただし牧師がよく教えることができる人物であるべきことは

要求項目に入っています(3章2節、「テモテへの第二の手紙」2章24節)。

 

原則として人は自分が教会の指導者の職につくことを希望することができる

とパウロは考えているようです(3章1節)。

現代では牧師となる人は教会の職に(少なくとも形式的には)招聘されます。

しかし実際には現代でも

「牧師になりたい」と望む人が招聘を受けることになります。

 

「さらにまた、教会外の人々にもよく思われている人でなければならない。

そうでないと、そしりを受け、悪魔のわなにかかるであろう。」

(「テモテへの第一の手紙」3章7節、口語訳)

 

この節の終わりの部分については二通りの解釈ができます。

第一の解釈は「牧師たちの中には悪魔の仕掛けた罠に陥る者が出てくる」

というものです。

第二の解釈は「牧師たちの中には悪魔と同じ裁きを受ける者が出てくる」

というものです。

これらを比べると第一の解釈がより適切であると思われます

(6章9節、「テモテへの第二の手紙」2章26節。

また「コリントの信徒への第一の手紙」10章32節も参考になります)。