2024年5月8日水曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」2章8〜15節 教会における男性と女性(その2)

 「女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。

女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。

むしろ、静かにしているべきである。

なぜなら、アダムがさきに造られ、それからエバが造られたからである。

またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。

しかし、女が慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、

子を産むことによって救われるであろう。」

(「テモテへの第一の手紙」2章11〜15節、口語訳)

 

ある聖書研究者たちは

牧会書簡を書いたのがパウロではないことを示す十分な根拠として

上掲の箇所を挙げています。

パウロが女性に対してこれほどまで否定的な態度をとることは

ありえないはずであると彼らは考えるのです。

 

その一方で、別の聖書研究者たちは

上掲の箇所を引き合いに出してパウロを女性蔑視者と決めつけて断罪し、

それを口実にしてキリスト教の信仰と教えそのものを捨ててしまいました。

 

上掲の箇所は新約聖書の中でも

適切に理解するのが最も困難な箇所のうちのひとつです。

例えばパウロは女性が「子を産むことによって救われる」と

本当に考えていたのでしょうか。

 

1945年にエジプトで発見されたグノーシス主義の文書

(ナグ・ハマディ文書)は当時の思想史的な文脈に基づいて

この箇所を理解するのに役立つ貴重な情報を提供してくれます。

 

スウェーデンの神学者Bo Giertzは牧会書簡の解説書で

この文書について次のように説明しています。

 

「これらの文書に基づいて以前よりもはるかに詳細なことが

グノーシス主義についてわかってきた。

グノーシス主義は他の諸宗教からの様々な要素を

ためらうことなく積極的にキリスト教に導入した

当時の「世界教会主義」であった。

グノーシス主義はユダヤ教からは

聖書の人名や人間の創造と堕罪の物語を取り入れつつも、

旧約聖書の神信仰の内容については

ユダヤ教とはまったく異質なものへと改変を施した。

グノーシス主義によれば、

真の神は名を持たない知られざる存在であり、

人間には及びもつかない遠方に潜んでいる。

この真の神から、より低次元の神的な存在が発出している。

この存在は両性的な「母 父」あるいは女神として理解されている。

この女神にはピスティス、ソフィア、エピノイア、バルベロといった

多くの名が付与されている。

万象の始原とされる「母」にまつわる創造神話には多くの異説がある。

たいていの場合、

この母は新しい神である創造神デミウルゴス

(「ヤルダバオート」などと呼ばれる)を誤って産んでしまった存在と

位置づけられている

(グノーシス主義者たちは天界の諸力に仰々しい名を付けることを好んだ)。

いま最後に挙げた旧約聖書の神、デミウルゴスは

不完全で、しばしば悪の力として働く存在ととらえられている。

悪の天使たちの助けによってこの神は人間の肉体を造ったが、

それに命を与えることには失敗した。

そこで女神が自らの光の力を人間の肉体に吹き込むことによって

ようやく人間に命が生じた。

こうして最初の人間が生まれるが、

それは「アンドロギューニ」すなわち

同時に男でもあり女でもある両性的な存在である。

ヤルダバオートとその悪の手下たちは

女神の光の力を手に入れようとしてアダムの一部を切り取って女を造った。

エバは天界の光の力から、より大きなかけらを手に入れるが、

デミウルゴスは彼女を誘惑することに成功する。

デミウルゴスは性的な欲望を惹き起こしエバと婚姻関係を結ぶことになる。

その後、死が入り込み、人間たちは死の隷属下におかれる。

女神が人間たちの目を開いた結果、

彼らは男と女に分たれ、いかなる不幸が起きたのかに気づく。

実はここに救いがある。

聖書が罪への堕落と呼んでいるその瞬間にすでに解放は始まっている。

解放する女神は知識の木の中に隠れ、蛇の口を借りて語りかけ、

禁じられた実をエバに食べさせた。

その結果、エバは理解力を得たのである。

同じ神の力は人間たちの目を開くために働きかける。

その結果、

彼らは男と女の間の違いにはどのような不幸が内包されているかを見て、

それを否定するようになる。

それとともに彼らは結婚も性交も出産も否定するようになる。

この時、彼らは男も女も存在しない原初の状態への旅をしているのだ。

グノーシス主義者たちはマグダラのマリアを特に高く評価した。

イエスは彼女を使徒の誰よりも愛した。

彼女はイエスといつも一緒にいることを許されていた。

使徒たちはそのことで機嫌を損ねたが、

イエスは「私は彼女を男にするために彼女を導かなければならないのだ。

自分自身を男へと変える女は皆、天の御国に入れるからである」と言った。

ナグハマディ文書の中に含まれる「マリアの福音書」では

マグダラのマリアが使徒たちに主から得た啓示を教えている。

アンデレはキリストが本当にそれらすべてのことを言ったのかどうか疑う。

救い主は使徒たちにそれについて語らなかったため、

ペテロは救い主が本当に彼女にそのようなことを個人的に話したのかどうか

マリアを詰問し始める。

しかしレビはペテロをたしなめてこう言う。

「もしも救い主がマリアをそのように評価したのだとしたら、

彼女を否定しようとするお前は何様のつもりだ」。

こうしてマリアが正しいことが示される。」(つづく)