2018年9月19日水曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック  1章13〜25節 結論へ!(その3)

 1章13〜25節 結論へ!(その3)

神様は私たちを「新しい命」へと生んでくださったのです。
ですから、
この「新しい命」を生きて行くことが私たちの責務となります。
また、
私たちは自らの生活における多くのことがらを
新たに見つめ直す必要があります。

苦しみを受けているキリスト信仰者たちを慰めるために
ペテロが伝える最初のメッセージは次の通りです。

天の御国は開かれており、
神様は私たちを聖なる者としてくださいました。
しかも、このことは
私たちの業績でも行いによるものでもなく、
ひとえにキリストの十字架の死の犠牲によるものです。
それゆえ、
誰もこのことが本当かどうかを疑う必要はありません。
このことが確実であるのは、
私や私自身の信仰に基づくものではなく、
神様とその御言葉にその根拠を置くものだからです。

私がキリスト信仰者としての生き方をするのは、
私が救われるための「条件」ではなく、
私がすでに救われている「結果」なのです。

私は自分自身の行いによって聖なる者となるのではありません。
「聖さ」とは、神様が罪人たちに与えてくださる全き賜物なのです。
この観点をおろそかにすると、
ペテロの手紙の素晴らしい慰めが見えなくなってしまいます。
残念なことに、
私たちはそれを十分明瞭に見ることはできないし、
それによってお互いを慰めることができない場合も多いです。

2018年9月12日水曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 1章13〜25節 結論へ!(その2)

1章13〜25節 結論へ!(その2)

この章の後半の鍵となるのは
「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」
(16節、口語訳)という御言葉です
(「なるべきである」と訳された箇所は
ギリシア語では動詞の未来形が使用されています。訳者註)。
これがこの手紙の核心ともいえるメッセージです。
それには二つの側面があり、その両方とも検討していく必要があります。

「聖さ」は神様にのみ属する本質です。
人間は自分の力では決して「聖なる者」になることができません。
すなわち、ありのままの人間は
「神様の大広間」に足を踏み入れることなど決してできない存在なのです。
この手紙もそのようなことが人間に可能であるとは主張していないし、
「自分自身の聖さ」を無理やり作り出すように勧めているわけでもありません。
私たちが「聖なる者」である根拠は、
神様が私たちを「きずも、しみもない小羊のようなキリストの尊い血」
(1章19節、口語訳)によって清めてくださったことにあります。
私たちが聖なる者であることは、到達点ではなくて出発点なのです。

この出発点から次のような結論が導かれます。
「神様が私たちを聖なる者としてくださったのだから、
私たちはいただいた賜物に調和するような生き方をするべきである」
という結論です。
これは
「罪との戦い、すなわち聖化こそが
キリスト信仰者の絶え間ない日々の生活態度である」
という意味です。
次の聖句はこのことを素晴らしいイメージによって表現しています。

「あなたがたが新たに生れたのは、
朽ちる種からではなく、朽ちない種から、
すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである」
(1章23節、口語訳)。

2018年9月7日金曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック  1章13〜25節 結論へ!(その1)

 1章13〜25節 結論へ!(その1)

「ペテロの第一の手紙」の典型的な特徴は、
すでにこの最初の章にあらわれています。
この手紙ははじめに、
神様が私たちにしてくださったことについて語り、
すぐその後で、
このことに基づく私たちの生き方について語ります。

パウロの手紙では息の長い文章が続きます。
「ローマの信徒への手紙」はこの最良の例と言えます。
しかし、このペテロの手紙の文章には「ヘブライの信徒への手紙」と同様に、
とても短いものも含まれています。
この特徴のおかげで、
「ペテロの第一の手紙」は読みやすくわかりやすいものになっています。

神様は何をしてくださったのか?
この神様の御業は私の生き方にどのような影響を与えるのか?

このパターンが手紙全体を通じて繰り返し展開されていきます。

エジプトでの隷属状態の中で生活していたイスラエルの民は
「故郷に帰る支度をするように」との命令を神様から受けました。
過越の食事はこの出来事を記念するものでした。
奴隷の状態から解放されるために
エジプトを出発しようとしていることについて、
イスラエルの民はこの段階ではまだ一切知らされていませんでした。
しかしその一方で、彼らは
「旅支度を整えた上でこの食事をとるように」という指示を受けていました。

旧約聖書のこの出来事のイメージを用いて、
今ペテロは手紙の読者にも「旅支度を整える」ように奨励しているのです。
苦しみの時はもうすでにはじまっています。
しかし、それは長く続くものではありません。
主は近くにおられます。
この世における人生は永遠に続くものではありません。

2018年9月3日月曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 1章3〜12節 喜びと苦しみと(その3)

1章3〜12節 喜びと苦しみと(その3)

次に、今述べたことよりも学ぶのがはるかに難しいと思われる
第二のことがらをとりあげることにします。

手紙の受け取り手が苦しみに対してどのような態度をとるべきであるか、
ペテロは教えます。
そして、
神様の偉大さと、言葉では表現できないほどの善き本質とについて語ります。
そうすることで、キリスト信仰者が苦しみに対してとるべき態度を説くのです。
その姿勢は感動的でさえあります。

ペテロは、
キリスト信仰者の受けている苦しみに対して
無理やり理屈を付けて説明しようとはしません。
神様の行いをむやみに正当化しようともしません。
神様に対してあまりにも賢しげな態度をとることもありません。

ペテロの手紙の文章は
新約聖書の「エフェソの信徒への手紙」の3章を思い起こさせます。
それは理由なく投獄された使徒パウロが自らに与えられた
「特権的な地位」について深い喜びをもって語っている章です。
言葉にできないほどの神様の善き本質について
宣べ伝えることができたことをパウロは喜んでいます。
「ペテロの第一の手紙」の教えは
これとまったく同質のものであると言えます。

苦しみの問題に対する最初の、
そしておそらくは唯一の答えは、
キリストにおいて具現化した、
言葉に表現できないほどの神様の善なる本質でしょう。

2018年8月27日月曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 1章3〜12節 喜びと苦しみと(その2)

1章3〜12節 喜びと苦しみと(その2)

神様の御業に対する喜び、および、それに基づく慰め、
という二つの要素が
この手紙の始めから終わりまでの基本的なテーマになっています。
神様の御国に属する者たちは、
この世においては
容易ならざる苦しみを甘受するほかない状態に置かれています。
しかし、これらの苦しみはわずか短い間だけ続くものです。
それは金細工職人が金属を取り扱う様子に比較できます。
金属は高熱の炉の中ですっかり溶解します。
精錬され形を整えられて、最終的には美しく素敵な玉飾りになるのです。
これと同じように
「信仰」という金が安物の金属の場合よりも
さらに過酷な条件の下で精錬されたとしても、
キリスト信仰者は驚いたり怪しんだりするべきではありません。
精錬によって作り上げられる最終的な形態、
すなわち神様の御許における「永遠の命」は、
どのような玉飾りよりもはるかに高価な宝物だからです。

この箇所ではまず、
旧約聖書と新約聖書が一体になっていることを私たちは確認します。
現代において、旧約聖書は
内容的に軽視されたり違和感を持たれたりすることが多い書物です。
しかし、旧約聖書に対するこのような現代人の態度は
キリスト教会には本来まったくそぐわない考え方です。
なぜなら、
新約聖書は旧約聖書なしには存在し得ない書物だからです。
旧約の預言者たちとキリストとは、
ひとまとめにして理解されるべきなのです。

2018年8月22日水曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 1章3〜12節 喜びと苦しみと(その1)

 1章3〜12節 喜びと苦しみと(その1)

新約聖書のパウロの多くの手紙では、
はじめの挨拶の後に神様への感謝が続いています。
「ペテロの第一の手紙」もまったく同じようにしてはじまります。

この手紙の受け取り手たちは困難な状況の只中に置かれています。
しかし、手紙はそのことについてではなく、
神様とその偉大さについてまず語り始めます。
すべての出来事の始点には大いなる神様の働きかけがあるからです。
その大いなる御計画について、
神様はかつて旧約の預言者たちに啓示なさいました。
その御計画を預言者たちが神様の民に伝えていったのです。
今や、イエス様を通して永遠の救いの御業は成し遂げられ、
御計画はすっかり用意が整えられました。
これは死の只中における「新しい命」のことを指しています。
神様は十字架で死んだ御子イエス・キリストを
死者たちの中から復活させてくださいました。
またそれを通して、
イエス・キリストを救い主として信じるこの手紙の受け取り手たちにも
「新しい命」を授けてくださったのです。
あらゆる危害から守られて清く理想的な状態に保たれている
「天の御国」という遺産を受け継ぐために、
キリスト信仰者たちは今もなお「真の故郷への旅」を続けているのです。

2018年8月8日水曜日

「ペテロの第一の手紙」ガイドブック 1章1〜2節 手紙の差出人と受け取り手

「ペテロの第一の手紙」第1章

1章1〜2節 手紙の差出人と受け取り手

古典古代における慣習に則って、
書き手の名前がこの手紙の冒頭に記されています。
書き手の名は使徒ペテロです。
すでに冒頭の数節において、
この手紙全体に通底するテーマが登場しています。
すなわち、
苦しみを受けている寄留者であり
神様の選ばれた民でもある人々に向けて
この手紙は書かれた、ということです。

「寄留者」としての生き方は信仰の教えに基づくものであり、
手紙の受け取り手たちの日々の生活と深い関わりがありました。
手紙の受け取り手たちは小アジアに偏在していました。
彼らはユダヤ人であるかどうかには関わりなく、
今や少数派として生きることを余儀なくされていました。
彼らの置かれた状態は旧約の民のそれと似ていました。
主の民は荒野を横断して約束の地への帰還の旅を続けました。
そして、そこに到着するまでは、
他所の土地に慣れ親しんでしまうことは許されないことでした。
この生き方は、当時も今もキリスト信仰者にとっての模範となるものです。

その一方で、手紙の受け取り手たちは、
たんに苦境に立たされている寄留者だっただけではなく、
全能なる神様が選び分かち愛してくださる民でもありました。
神様がこの世のはじまる前に用意なさった救いの計画を自ら実現され、
彼らをイエス様の血によって聖別なさったのです。
「イエス・キリストの血の注ぎを受けるために」(1章2節)という表現は、
この手紙においてこれから展開されていくことになる
最も重要なテーマを予告しています。
すなわち、私たちはキリストの血によって清められている、ということです。