2013年1月21日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 第4回目の質問(4章)


 
「ヨハネによる福音書」4
  
 
4回目の質問
  
 
1)「サマリア人」とはどのような人々ですか。
イエス様がサマリアの女と対話された、
というのはどういう意味をもっていますか。
  
2)サマリアの女がひとりで真昼間に井戸に来ていたのは、なぜでしょうか。
  
3)イエス様は「活きた水」について話されます。
この話を女はどう理解しますか(411節)。
この話はどのように理解するべきなのでしょうか。
女はイエス様の話をどの程度理解しているように見えますか。
  
4)イエス様が女の男性関係について話を向けると、
女は急いで話題を変えます(420節)。
対話は女の実生活をどのようなものとして明らかにしていますか。
また、イエス様はそれについてどのような態度を取られますか。
私たちはそこから何かを学ぶことができますか。
  
5)イエス様は、御自分がキリストであることを告げられます。
しかし、ちょうどその時に弟子たちがイエス様のところに戻ってきて、
女はその場を離れます。
女が町のほかの住人たちにイエス様について語るようにさせたものは、
いったい何だったのでしょう。
なぜ女の話を聞いた人々は、イエス様に会いに出かけたのでしょうか。
  
6)この対話で実りと収穫について話されるとき、
イエス様は何を意味しておられるのでしょうか。
  
7)サマリアの女は、
イエス様の話の内容をまちがって理解してばかりいます。
イエス様のところへ戻ってきた弟子たちも、また誤解します。
このことによって福音は、何を私たちに教えようとしているのでしょうか。
神様の御国について自分が期待したほど理解できていないことを
認めて正直に告白するのは、
あなたがたにとって簡単なことですか、
それとも、とても難しいことでしょうか。
   
8)44654節では、イエス様が役人の息子を癒す奇跡について語られます。
男が信じたことについては、450節および53節で述べられています。
なぜ二度繰り返されているのでしょうか。
「しるし」(不思議なわざ)が人の信仰に与える影響について、
この話は全体としてどのようなことを語っているのでしょう。
 

2013年1月18日金曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 4章43~54節 役人の信仰 


 
役人の信仰 44354
  
 
ガリラヤに戻られたイエス様は、皆の注目の的でした。
ガリラヤで受け入れられなかった時期
(「マルコによる福音書」616節を参照してください)は、
もはや過ぎ去りました。
「ヨハネによる福音書」によれば、
ガリラヤで人知れず始められたイエス様の活動は、
エルサレム訪問の後で一躍脚光を浴びたわけです。
「ヨハネによる福音書」44654節の
カペルナウム在住の役人についての話が、
「マタイによる福音書」8513節および
「ルカによる福音書」7110節に記述されている出来事と
何らかの関連があるかどうか、少し考えて見ましょう。
「マタイ」や「ルカ」では、
この役人は異邦人(ユダヤ人ではない人)ですが、
「ヨハネ」ではそれについて何も語られていません。
この出来事の核心は、
役人がどのようにして信じるようになったか、
ということです。
必死で助けを求めるこの男へのイエス様の答えは、
冷淡ともとれるものでした。
奇跡やしるしなどにはよらず、ただ御言葉に基づいて、
人はイエス様を信じなければならない、というのです。
イエス様が言われたある言葉に、男はしがみつきます。
「信仰」とは、ここでは
「息子は元気になる」という信頼を意味しています。
カナからカペルナウムへの帰途、役人はうれしい知らせを耳にしました。
イエス様が貴い御言葉を言われたちょうどその時刻に男の子は癒された、
というのです。
これを聞いて、その子の父親である役人も、彼と一緒にいた他の者も、
「信じた」のでした。
今や「信仰」という言葉は、前とはまったく別の意味をもつに至りました。
「ヨハネによる福音書」はこれ以上詳説してはいませんが、
役人の信仰が、今やイエス様のペルソナ[1]に向けられていることを、
私たちは知ります。
イエス様のペルソナと使命とに関わることがらを、
私たちはここで復習することができます。
イエス様は天の父の御子であり、
暗闇から光へ、虚偽から真理へ、死から命へと導いてくださるのです。
 


[1] 三位一体の神性にかかわる極めて重要な神学用語。
ここでは簡単に、「本質」と置き換えてよいでしょう。(訳者註)

2013年1月16日水曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 4章1~42節 イエス様とサマリアの女の対話(その3)


 
イエス様とサマリアの女の対話 4142節(その3)

 
 
この対話は、
イエス様が女に御自分がメシア(キリスト)であることを
明かされるところで終わります。
その瞬間から、女には
この光のメッセージをまわりの人々に伝える使命が与えられました。
女が町に出かけて他のサマリア人たちと戻ってくるまでの間に、
もうひとつの話し合いがもたれました。
そのテーマは派遣についてでした。
イエス様は、食べ物がいらないとおっしゃいます。
弟子たちは、またしてもその意味を誤解します。
イエス様の食べ物は、神様の御心を行うことなのです。
御父は御子をこの世に遣わされました。
御子は、派遣された方の望まれることしか行いません。
御父が御子をこの世に遣わされたのとまったく同様に、
御子は弟子たちを派遣されます。
伝道の仕事はいくらでもあり、待っている必要はありません。
当時の人々にとって、
種蒔きと収穫の間の期間を過ごすのは、非常に忍耐の要ることでした。
貧しい農民たちは、毎年のように食べ物の不足におびやかされていました。
しかし、伝道に関しては状況が異なります。
弟子たちは待つ必要がありません。
イエス様がすでに種を蒔いてくださったので、
弟子たちの仕事はその実を収穫することでした。
この御言葉は、
サマリアの女との対話の実の収穫だけではなく、
後の時代にもあてはまるものです。
イエス様の死と復活が宣教される場合には、
そのメッセージのもたらす結果(伝道の実)を、
気をもみながら最後の裁きの時まで待ちつづける必要はありません。
御言葉が心に触れた人は、御子を知るようになり、
瞬く間に死から命へと移ります。
まさにこのことが、
罪人として蔑まれていたサマリアの人々の上に起こったのです。

2013年1月14日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 4章1~42節 イエス様とサマリアの女の対話(その2)


 
イエス様とサマリアの女の対話 4142節(その2)



町の外から真昼間に女が井戸に水を汲みにくることに、
多くの聖書釈義者は注目しました。
おそらくこの記述は、
イエス様が女の人生についてごらんになったことと関係しています。
この女は罪人であり、周囲から蔑まれていました。
多くの男と関係を持ったこの女が
他の女たちの一団が水を汲みに来る時間帯を避けるのは当然です。
彼らと同じく、イエス様にもこの女を避ける理由が十分あったにもかかわらず、
女自身が驚いたことに、イエス様のほうから女に話しかけられたのです。
中東の乾燥した地域では、水は貴重な自然の恵みです。
ヤコブが非常に労苦して掘った深い井戸の傍らでこの対話はなされました。
  
「活きた水」についてのイエス様の話は驚くべきものでした。
女はそれをすぐに誤解して、
イエス様は隠された泉について話しているのだと勘違いします。
イエス様の言われる「水」は、それとはまったく別のものでした。
イエス様はここで具体的な言葉で説明なさっているわけではありませんが、
「ヨハネによる福音書」の読者はその答えをちゃんと知っています。
主が意味されているのは光、真理、神様から賜った命のことです。
イエス様に出会う者は人生の真の目的を見出し、
もはやほかのことは願わなくなります。
  
旧約聖書の預言者と同じく、イエス様は人の心を直接ごらんになります。
女のその場しのぎの言い逃れも見透かされました。
それで女は自分の人生のことから
さしさわりのないことへと急いで話題を変えます。
そして、
「どこで神様を礼拝するべきか、ゲリジム山か、それともエルサレムか」、
という昔からある難問をもちだします。
イエス様の答えは「ヨハネによる福音書」でおなじみのものでした。
「そのどちらの場所でもなく、御霊と真理においてである」、というのです。
この御言葉は、とくにエルサレムの滅亡の後に大切な意味を帯びました。
その時には神様の唯一の神殿は破壊されていたので、
場所はどこであれ神様に祈るようになりました。
「御霊と真理」というのは、
礼拝所をある一定の場所に固定するあり方と正反対のものです。
「ヨハネによる福音書」の読者として、私たちはこの意味を知っています。
私たちは御子に結びつくことで御父を正しく礼拝することができます。
どこで御父に祈りの叫びをあげたとしても、それは変わらないのです。

2013年1月11日金曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 4章1~42節 イエス様とサマリアの女の対話(その1)


 
人と出会われる神様
  
「ヨハネによる福音書」4
   
イエス様とサマリアの女の対話 4142節(その1)
    
  
サマリアの女とイエス様の対話のシーンは、
美しく、心を奪われるものです。
「ヨハネによる福音書」のこの対話の箇所でも、
イエス様の話を女がいろいろと誤解します。
それでもイエス様は女との会話を続け、
しまいにはイエス様の御許に、その女だけではなく、
町の多くの住民が駆けつけるようになります。
イエス様の話をまるで理解できない人々も
イエス様から教えを受けることが許されていたことを、
この福音書は伝えています。
  
このシーンの大切なメッセージは、
出来事がすべてサマリアで起こったという点です。
イエス様はユダヤからガリラヤに戻ろうとしておられました。
ヨルダン川の暑苦しい渓谷に沿って旅をしたくない人は、
サマリアを通過する必要がありました。
サマリア人とユダヤ人は互いに反目し合っていたため、
このルートは多くのユダヤ人にとっては不快なものでした。
  
「サマリア人」というグループの生まれた経緯については諸説あります。
しかし、サマリア人は
紀元前722年のイスラエル王国(首都はサマリア)の滅亡の後に
サマリアに移民してきた諸民族とそこに残ったイスラエル民族との
混成によって形成された民である、
とする伝統的な見方が正しいものと思われます。
サマリア人は自分たちを真のユダヤ人とみなしていましたが、
ユダヤ人は彼らを異邦人と見下していました。
ゲリジム山の彼らの神殿は
エルサレムの神殿とライバル関係にありました。
ユダヤ人はそれを紀元前128年に破壊しましたが、
その聖なる山はその後も重要な祈りの場となっていました。
イエス様がこの世で生きておられた時代には、
ユダヤ人とサマリア人との間の敵意は
しばしば流血事件にまで発展しました。
正統派ユダヤ人はサマリア人に深い憎しみを抱き、
彼らと口を利こうともしませんでした。
ところが、イエス様は、サマリア人に対して
正統派ユダヤ人とはまったくちがう態度を取り、
サマリア人からも受け入れられた、ということを
「ヨハネによる福音書」はここで記述していることになります。

2013年1月9日水曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 第3回目の終わりのメッセージ


 
終わりのメッセージ
  
 
私は堅信キャンプ[1]の牧師をしています。
ある時、「アイスホッケーの世界的な選手になるためには、
私はどうすればよいだろうか」、と若者たちにきいてみました。
青年たちは皆礼儀正しかったので、
「それはとても無理ですよ」、などとは誰も言いませんでした。
その中のある青年は笑ったりせずに、
「先生は少なくとも25歳は若くなければならないでしょう」、
と冷静に答えました。
  
一日に二回練習し、減量し、技術の向上に専念する生活を
自分が送るのを想像することはできます。
しかし、私の人生は後戻りできません。
私はヴィデオテープなどではないのです。
すでに生きてしまった人生を取り戻すことはできません。
  
ニコデモがイエス様の御許を訪れたとき、
「どうすれば私は天国に入れるか」、
というただひとつの問いが彼の心を占めていました。
それに対するイエス様の返答はそっけないものでした。
「あなたは新たに生まれなければならない」、というのです。
しかし、どうすれば私はすでに過ぎてしまった人生を取り戻して、
これまでの歪んだ歩みをはじめから修正していくことができるのでしょうか。
  
ニコデモは他の人々を教える立場にあったにもかかわらず、返答に窮しました。
どうすれば人が再び生まれて神様の子どもとなるか、キリストは語られます。
罪の堕落が起こった後のこの世界は、
光がまったく差し込まない罪と死の袋小路です。
そこには命のかけらさえ見出せません。
神様は、この墓場の静寂を破り、全世界の罪を取り除くために、
キリストをこの世に遣わされました。
キリストの十字架において、死の只中で命が輝きました。
キリストを見る者は、命と救いの幸いを見出します。
  
人は自分自身を新たに生むことができません。
神様は死の只中で命を覚まさせることができます。
人が洗礼を受けて神様の御国の民となり
「キリストのもの」となるところでは、
命が死に勝利しています。
御霊が人に
神様への信頼と神様の家(天国)への憧れをくださるところでは、
霊的に目覚めた人が自分の場所を見出しています。
  
激しい感情の嵐、強い確信、堅い信仰がいつも絶対に必要だ、
というわけではありません。
人が神様を慕うところには、
聖霊様が働きかけて、その人を新しく生んでくださっているのですから。
  
(エルッキ コスケンニエミ)
 


[1]堅信キャンプの目的は、
赤ちゃんの時に洗礼を受けて「キリストに属する者」になった人が、
15歳頃に通うこのキャンプで信仰生活に関わる基礎を系統的に学び、
キリスト信仰者として自立することを助けることにあります。
また、堅信キャンプを通して、
若者は同世代の他の信仰者と友達になることができます。(訳者註)

2013年1月7日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 第3回目の質問(3章)


 
「ヨハネによる福音書」3
 
  
3回目の質問
  
  
1)「ヨハネによる福音書」には
聖餐や洗礼の設定についての言及がありません。
そればかりか、洗礼や聖餐について、
比喩的にはしばしば触れられているにもかかわらず、
直接には何も語られていません。
それはなぜでしょうか。
  
2)イエス様は、「新たに、上から生まれること」について話されます
(この言葉の原語にはこのようにふたつの意味があるのです)。
ニコデモはこれをどのように理解したのでしょうか。
本来どのように理解するべきでしょうか。
  
3)「新生」とは、体験なのでしょうか。
それはたんなる体験なのでしょうか、
あるいは、体験をその一部に含むより大きな何かなのでしょうか。
何も具体的に体験していない人間は、
「新しく生まれている」と言えるのでしょうか。
あなたは新しく生まれていますか。
  
洗礼において新しく生まれること(「テトスの手紙」335節)や
御言葉を通して新しく生まれること(「ペテロの第一の手紙」123節)
について、新約聖書が何と言っているか、調べてください。
また、新約聖書が幅広く死と命について何と言っているか、考えてみてください。
  
4)蛇とそれを高く上げることについて話されるとき、
イエス様は何を意味しておられるのでしょうか。
「民数記」2149節を読んでください。
  
5)どのようにしてイエス様は「挙げられ」ましたか(314節)。
  
6)32224節は、
イエス様の弟子たちが洗礼を授けていたことについて語っています
42節を参照してください)。
この洗礼とヨハネの洗礼との関係はどのようなものでしたか。
それはすでに、父と御子と聖霊の御名による洗礼だったのでしょうか、
それとも罪を悔いて告白することを示すだけのものだったのでしょうか。
  
7)洗礼者ヨハネは、
人々が自分のもとを離れイエス様に従うようになったとき、
嫉妬の念をいだいてもおかしくはなかったはずです。
ところが、ヨハネは自分を花婿の幸福を喜ぶ花婿の友人とみなしました。
このイメージにおいては、誰が花婿で、誰が花嫁でしょうか。
  
8)336節は、「ヨハネによる福音書」が
後ほど再び触れることがらを提示しています(146節!)。
神様の愛はイエス様の中に、その中だけにあります。
このようにキリスト教は、
ほかのすべての宗教をその外部に閉め出して、
それらが滅びへの道であることを宣言します。
一方では、キリスト教は、
この世のすべての人々を内に包み込みます。
天の御父様の御許へのドアは、イエス様を通して、
すべての人に開かれているからです。
  
このふたつのことを一緒にして理解するのは簡単なことですか。