2012年9月17日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第12回目の終わりのメッセージ



終わりのメッセージ

目を覚ましていましょう
  
 
眠るのは気持ちがよいものです。
よく眠れた夜の後には仕事がはかどります。
逆に、よく眠れないと生活が大変になります。
  
しかし、目を覚ましていなければならない時というのもあります。
疲れて夜遅く車を運転するのは危険です。
ハンドルを枕にして居眠りしたりしないように
あらゆる手段を講じなければなりません。
私のある同僚は運転中に眠ってしまい、衝突事故で死にました。

霊的な眠気は影のように私たち皆に寄り添っています。
まさにこの点で、
私たちは自分自身に「恵みの時の短さ」について
思い起こさせる必要があります。
眠っているときには、時間の感覚がなくなります。
それと同じように、
霊的に眠り込んでいるときには、
「恵みの時」の感覚がなくなってしまうのです。
そして、「夜明け前」には一番眠くなるものです。
  
自分にとって大切で、かけがいのない方を待っている場合には、
眠くはなりません。
鞭打つことによっては、霊的に目を覚ましているようにはできません。
そのためには、あの方が必要になります。
私は「この方のもの」だからです。
そして、私はこの方のことを、何度も、繰り返し、必要としています。
  
救い主は私たちを「御自分のもの」として買い取ってくださいました。
ですから、私たちも目を覚ましていようではありませんか。
  
  
(ラウリ コスケンニエミ 「今日私と共にいてください」)

2012年9月14日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第12回目の質問(20章)


 
12回目の集まりのために

「ヨハネの黙示録」20
  
 
ヨハネは千年王国についての幻を見ます。
おそらくこの幻は、
「神様のもの」である人々が死んだ後にどのような場所に入るか、
について語っています。
ヨハネには悪魔の最後の攻撃とその結末がもう一度示されます。
この章は最後の裁きの描写で閉じられます。
全員が裁きを受け、
イエス様に反対していた者たちは皆、
悪魔が落ちる場所に落ちて行くことになります。
  
  
質問

1)「千年王国」とはどういう意味ですか。
2016節の説明を参照してください。
千年王国について、どのような説明をあなたは聞いたことがありますか。
「第一の復活」(2045節)とはどのようなことを意味していますか。
この幻の私たちへのメッセージは何でしょうか。
  
2)悪魔は最後にどうなるでしょうか。
悪魔の手下たちはどうなりますか。
地獄には終わりがあるのでしょうか。
誰がそこに落ちることになりますか。
  
3)最後の裁きとは何ですか。
人はそれぞれ「自分の行いに応じて」裁かれる、
というのはどういう意味でしょうか。
最後の裁きで救われるのは誰でしょうか。
  
4)最後の裁きという考えは、あなたにとって恐ろしいものですか。
どのようなことが、こうした恐れを取り除いてくれるでしょうか。

2012年9月12日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 20章11~15節 最後の裁き(その2)


 
最後の裁き 201115節(その2)
  

  
「人は各々、自分自身の行いに応じて裁かれる」、
とヨハネは言います。
これはしかし、
「イエス様を信じる者は救われる」、
と私たちが言うことと矛盾しているのでしょうか。
矛盾はありません。
最後の裁きにおいて、
世界中の人間全員が自分自身の行いに応じて裁きを受けます。
罪のない人は一人もいないので、
人は皆、自分の悪い行いを神様に見せなければならなくなります。
救い主をもたない人々は、
自分自身の罪と共に神様の御前に出なければならず、
彼らはそれら罪のゆえに裁きを受けるのです。
罪を帳消しにしてくださったお方が避け所になっている人々に対しては、
神様の御前では「罪がない」のです。
すべての罪はイエス様のゆえに赦されており、
神様が赦してくださったことは、神様の目にはもう入らないからです。
信仰を通してイエス様を「自分の主」として迎え入れ、
イエス様を通して神様の恵みをいただいている人だけが、
最後の日に神様の御顔の前で耐えることができるのです。
「行いに応じて裁きは下される」
(「ローマの信徒への手紙」26節)とパウロも書いていますが、
彼は、
「イエス様に避け所を求める人だけが救われる」
(「ローマの信徒への手紙」32326節)とも教えています。
   
ルターは、「喜ばしい交換」について語っています。
それは次のようなことです。
イエス様は、
私たちの罪と、それゆえに私たちが当然受けるべき罰とを、
肩代わりしてくださいました。
これらすべてを私たちはイエス様に譲り渡したのです。
イエス様は私たちに
御自分の無垢さ(罪のまったくないこと)と
清さと聖さを与えてくださいました。
私たちは「イエス様のもの」であるときに、
イエス様の本性とみわざとの善さすべてを「自分のもの」としています。
私たち自身の悪さと悪い行いは、イエス様に譲り渡されています。
神様が「キリストのもの」である人をご覧になるとき、
神様は御子の聖さと善きみわざのみに目を留められます。
こういうわけで、
「イエス様のもの」である人には、
裁きを受ける原因となるような「悪い行い」はないことになります。
それら悪い行いは、イエス様の善きみわざに取って代わられるからです。

救い主を受け入れないままで裁きを受ける人々には、
残念な結末が待っています。
彼らは聖なる神様の御前で耐えることができません。
彼らには最悪の裁きが下されます。
彼らは「火の湖」、つまり悪魔がいるのと同じ場所に投げ込まれます。
自覚はなかったのかもしれませんが、
彼らはこの世で「悪魔のもの」であるグループに所属していたのです。
彼らの受ける罰は、彼らの親分が受けるのと同じものです。
 

2012年9月10日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 20章11~15節 最後の裁き(その1)


 
最後の裁き 201115節(その1)
  
 
ヨハネに最後の裁きが示されます。
彼は、神様が御座におられ、
すべての人間が全能者の御前にいるのを見ます。
「命の書」が開かれ、
そこに記されていることにしたがって全員が裁きを受けます。
誰一人この裁きを逃れることはできません。
ヨハネの時代に、また後の時代にも、長い間にわたって、
海で死んだ者は海に埋葬されました。
彼らもまたよみがえって裁きを受ける様子を、ヨハネは見ます。
海の記述についてのもうひとつ可能な解釈は、
海は死をあらわしている、というものです
(「ヨハネの黙示録」211節と、その説明を参照してください)。
死んだ後に天国に入れなかった人々の魂は、
ヨハネが
「死」(ギリシア語でタナトゥス)、
「黄泉」(ギリシア語でハーデース)
と名づけている場所に行きました。
この場所もまた、死者たちを最後の裁きへと引渡します。
全人類が神様の御座の前に立ち、裁きが始まります。
  
私たちが使徒信条で信仰告白する「身体のよみがえり」の瞬間を、
ヨハネはここで描いています。
人は死ぬ時、魂と身体が分離します。
身体は墓に横たえられますが、魂はそこには残りません。
最後の日には身体と魂は再び一体になります。
神様が与えてくださった身体に包まれて、
私たちは神様の裁きへと歩み出ます。
最後の日には、
イースターにイエス様の上に起こったのと同じことが、
人間一人一人の上に起こります。
墓は空になり、イエス様の魂は「復活の身体」をまといました。
パウロは「復活」について、
「コリントの信徒への第一の手紙」15章で、より詳しく語っています。
 

2012年9月7日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 20章7~10節 最後の戦い(その2)


 
最後の戦い 20710節(その2)

 
 
最後の戦いは激しいものになります。
悪魔は多くの者を味方につけ、
戦争に勝つためにありとあらゆる手段を講じます。
ヨハネは戦いを詳細に描いたりはしませんが、
その最終結果については報告しています。
すなわち、
天から火が降ってきて、悪魔一党を打ち砕くのです。
イエス様は勝利者となり、
その日には悪魔が最後の戦いで敗れたことを皆が知ります。
この世の終わりが来て、悪魔は地獄に投げ込まれます。
この地獄は「火の湖」と名付けられています。
そこにはまた悪魔の手下たち、獣、偽預言者がいます。
彼らの苦しみは絶えることがありません。
悪魔は一味もろとも自分自身の悪行の報いを受けます。
その報いとは、永遠の死です。
  
「地獄には終わりがないわけではない。
地獄は一定期間続いて、
その後は地獄に落ちた者たちは存在しなくなるのだ」、
と主張する人々がいます。
しかし、聖書はそれとはちがうことを教えています。
天国は永遠であり、地獄もまたそうなのです。
ヨハネは地獄を描くときに、
「昼も夜も、世々限りなく」
という言葉を用いています(2010節)。 
 

2012年9月5日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 20章7~10節 最後の戦い(その1)


 
最後の戦い 20710節(その1)
  
 
ヨハネはこの世のエピローグを目にします。
神様が悪魔を解き放たれると、悪魔は最後の攻撃を開始します。
これはおそらく、
すでに16章で語られているのと同じ攻撃を指しているのでしょう
1616節)。
ヨハネは、イエス様の再臨直前に勃発する大戦争を見ます。
これは、
この世において史上最悪の戦争を悪魔が引き起こすことに成功する、
という意味かもしれません。
あるいは、
人々を惑わし神様の教会を破壊するために悪魔が
その最後の力を使い果たしてまで行うような戦いを
この描写に見ることもできます。
9節の「聖徒たちの陣営」や「愛されてきた都」への言及も、
この解釈を支持します。
「愛されてきた都」は、
神様の御国とそこに属する者たちを意味しているものでしょう。
これは、
「ヨハネの黙示録」において悪魔の帝国を意味すると思われる
「バビロン」という言葉の対義語です。
8節の「ゴグとマゴグ」は、「エゼキエル書」にも出てきます
(「エゼキエル書」3839章)。
誰のことをエゼキエルは意味していたのか、確かなことはわかりません。
イスラエルの民をおびやかしていたスキュタイ人のことを、
あるいは指しているのかもしれません。
ユダヤ教では後に、「ゴグとマゴグ」は
「選ばれた民」をおびやかすあらゆる諸国民を意味する言葉
として理解されました。
おそらくそれと同じ意味で、ヨハネもこの言葉を使用しているのでしょう。
すなわち、「ゴグとマゴグ」は、
イエス様の再臨の直前に
キリスト教会を攻撃する悪魔の部下たちをあらわしている、
ということです。

2012年9月3日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 20章1~6節 千年王国(その4)


  
千年王国 2016節(その4)
  

  
私(このガイドブックの著者ヤリ・ランキネン牧師)の考えでは、
この最後の解釈が千年王国の幻について最も適切なものだと思います。
ヨハネは、遠い未来の至福の時について語っているのではなく、
キリストに属する人が死んだ後にすぐいただけるはずの事柄を描いている、
ということです。
この世では、「神様のもの」である人々は
(つまり、洗礼を受けイエス様を救い主として信じている人々は)
戦場に立たされますが、
この世を去るときにその戦いは終わります。
今悪魔は私たちのいる世界の只中で暴れまわっていますが、
死を通して、
私たちは悪魔が手出しできないところへと移り住むことになります。
死んだ後に神様に属する人々を待っているのは、
永遠に主と共にいられる御国です。
このメッセージは、
迫害の中で生きていた初めの頃のクリスチャンたちにとって、
とても大切な約束でした。
悪魔は彼らを恐るべきやり口で攻撃していました。
彼らは獅子の前に連れ出されました。
彼らは嘲笑の的にされました。
彼らは侮辱されました。
ヨハネに示された幻は、
この世で主を拒絶しなかった人々には、
この世での命の後にどのようなことが起こるか、
語っています。
彼らの魂はイエス様がいらっしゃる御許に行けるのです。
もはやそこには悪魔からの攻撃はなく、
神様に属する人々のグループから離れてしまう危険もありません。
さらに素晴らしいことに、
そこで彼らはイエス様と共にこの世を支配することができるのです。
イエス様に属する人々は、
この世で彼らを支配し彼らに死の宣告を下した人々を
支配する立場に就きます。
天地のすべての権威を有するイエス様は、
この世を終わりに向けて導かれます。
そして、死んだ「神様のものたち」は、
イエス様がこの世を導かれるみわざに参加させていただけます。
パウロの「フィリピの信徒への手紙」の次の言葉は、
これと同じことを意味しているのでしょう、
「私はこの世を去って、キリストの御許に行きたいと願っています。
なぜなら、それが最善だからです」
(「フィリピの信徒への手紙」123節)。