2012年3月19日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 11章1~2節 神殿を測るヨハネ(その1)


ヨハネの黙示録11

神殿を測るヨハネ 1112節(その1)
  
 
ヨハネは杖を手に与えられ、神殿を測るように命じられました。
この命令は普通の意味での計測だけではなかったはずです。
それにはメッセージが含まれていました。
「ゼカリヤ書」には、都市エルサレムを測る幻が語られています
(「ゼカリヤ書」259節)。
「私はそれ(エルサレム)を取り囲む火の城壁となる」、
と幻の中で神様は約束されています。
神様は都市を守ると約束なさっているのです。
これと同じ考えが「ヨハネの黙示録」にもあるように見受けられます。
「神殿が測られる」というのは、言い換えれば、
神様は神殿を破壊から守る約束を与えておられる、
ということです。
神殿を測ることによって、
神殿は保護を受けための目印を付けられるのです。
「ヨハネの黙示録」の7章でも、
「神様は印を受けている者たちを、
世界を揺り動かす嵐の中で守ってくださる」、
と語られています。
  
それでは、神様が守られるこの「神殿」とはいったい何でしょうか。
それはエルサレムの神殿ではありえません。
ヘロデ大王の建てさせたこの壮麗な神殿は
「ヨハネの黙示録」が書かれた頃にはすでに破壊されていたからです。
イエス様が予言された通りに、
ローマ軍は西暦70年に神殿を粉砕し、地面にばら撒きました
(「マタイによる福音書」2412節など)。
あとに残されたのは「嘆きの壁」だけでした。
「神様の神殿、祭壇、およびそこでひざまずいている者たち」とは、
キリストの教会、この世における神様の民を意味しているのでしょう。
新約聖書の他の箇所でも神様の教会は「神様の神殿」と呼ばれています
(「コリントの信徒への第一の手紙」316節、
「エフェソの信徒への手紙」221節)。
1節に込められたメッセージは次のようなものでしょう、
「たとえ悪魔が力の限りを尽くして攻撃してきても、
キリストの教会は滅びません。
神様は教会が活き続けるようにしてくださいます」。
イエス様も同じ約束をしてくださっています、
「この岩の上に私は自分の教会を建てます。
ハデスの門もそれに打ち勝つことがありません」
(「マタイによる福音書」1618節)。
これはしかし、
に存在する各地の教会は死ぬことがないとか、
クリスチャンは決して信仰を捨てない、
という意味ではありません。
これについては、「ヨハネの黙示録」の最初の数章に、
そういうことが本当に起こりうる、
というさまざまな実例が記載されていることからもわかります。
しかし、
世界に広がるキリストの教会は全体としては死ぬことがありません。
イエス様が栄光に包まれて地上に再臨される時にも、
少なくともどこか世界の片隅には、
生き生きとしたキリスト教会が存在していることになります。
悪魔が教会全体を破壊することがないように、
神様は御自分に属する人々を守っておられるのです。
 
 

2012年3月16日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 10章5~11節 巻物を食べるヨハネ

  
巻物を食べるヨハネ 10511
  
 
天使は手を天に向けて上げ、
時が終わろうとしている、と確言します。
それは、
第六のラッパの後、もはや神様は裁きの始まる時を延期なさらない、
という意味です。
第七のラッパが鳴る時、
イエス様は再臨され、この世の時は終わり、
神様は裁きを実行なさいます。
その時、
聖書の言っていたことが本当だったことを、皆が目の当たりにします。
今聖書を嘲笑している人々は、その時にはもう笑えなくなります。
神様の御使いたちは天地の主から人々にメッセージを伝えていたことを、
全員がはっきり理解します。
  
再び天から声が響き、ヨハネは特別な指令を受けます。
天使の手にしている巻物を食べなければならない、というのです。
旧約聖書には、似たようなケースが二つ記されています。
エレミヤは神様の御言葉をむしゃむしゃ食べました
(「エレミヤ書」1516節)。
エゼキエルもまたヨハネと同じ指令を受けました
(「エゼキエル書」289節、313節)。
ヨハネが実際に巻物を食べたとしても、別におかしくはありません。
パピルスを食べるのは前例のないことではなかったからです。
巻物を食べる行為には、より深い意味があったにちがいありません。
神様の御言葉が書かれた巻物をヨハネが食べるのは、
神様のメッセージが彼の内に取り込まれ、
彼自身の一部となったことを示しています。
  
今や神様の御言葉はヨハネの中にあります。
それゆえ、彼はそれについて黙してはおれません。
ヨハネには、
この巻物ははじめ口には甘く、次に腹には苦く感じられました。
これは、神様の御言葉がどのようなものか、よく表しています。
神様の御言葉は蜜のようです。
それはとても美味しく、読むのは愉しいものです。
しかし、神様の御言葉には別の一面があります。
嫌に感じられる面です。
御言葉は、私たちが聴きたくないようなことも語ります。
しかも、
その教えを他の人々に語らなければならないという使命は、
もはや喜びでも何でもありません。
とりわけ神様の裁きについて人々に話すのは難しく、
むしろ、何でもよいから何か他のことをやりたくなるほどです。
ヨハネもまた、彼の話を人々が聞きたがらないことをよく知っていました。
にもかからわず、彼は自分が目にし耳にしたことを公に伝えました。
人々を喜ばせるような内容ではなかったにせよ、
メッセージは神様から受けたものであり、
彼はそれを語るほかなかったのです。

2012年3月14日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 10章1~4節 秘密のメッセージ

  
ヨハネの黙示録10
  
秘密のメッセージ 1014
   
  
ヨハネは強い天使を見ます。
ヨハネがイエス様について以前語った(「ヨハネの黙示録」11216節)
容姿と似通っているこの天使は、
しかし、イエス様御自身ではありません。
この御使いは主に似ているのです。
この天使の片方の足が海の上に、もう片方の足が地の上にある、
ヨハネは語ります。
これは、
天使が波打ち際に立っていた、
という意味ではありません。
天使は、
その左足が地上に右足が水中にあるほど、非常に大きかった、
という意味です。
おそらくこの幻にはまた、より深いメッセージがあります。
聖書では、「海」は「死」をあらわしている場合があります
(「ヨハネの黙示録」211節を参照してください)。
「地」は
私たちが実際目にしている「創造された世界」を
意味しているのでしょう。
もしもそうであれば、
地と海の上に立っている天使の幻は、
「この天使がお仕えしている神様は、
創造された世界を支配しておられ、
死もまた神様の支配下にある」、
というメッセージを伝えていることになります。
  
34節には、「七つの雷」が出てきます。
ここでヨハネには「詩篇」29篇が心に浮かんだのかもしれません。
この詩篇では、「主の御声」という言葉が七回くりかえされます。
すなわち、雷鳴は、ヨハネが聴いた神様の御声だったのでしょう。
ヨハネは全能者が語られることを書きとめようとして、
それを禁じられます。
ヨハネが耳にしたことを他の人々には話すべきではない、
と神様は何らかの理由で判断されたのです。
これと似たようなケースが「コリントの信徒への第二の手紙」にもあります。
パウロはパラダイスに行き、そこで
「人間が口にすることができず、口にしてもいけない言葉」を聴きます
(「コリントの信徒への第二の手紙」124節)。
神様は私たちにすべてを明らかに示されたわけではありません。
それゆえ、私たちは慎重であるべきです。
とりわけ、終わりの時や神様の御計画について話す場合にはなおさらです。
すべてについて語られているわけではないので、
多くの疑問は答えのないままにしておくのが最善なのです。
  
 

2012年3月12日月曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第6回目の終わりのメッセージ

 
終わりのメッセージ
  
お父さんが舵を取っている
  
 
船が嵐の中でひどく揺れているときに、
その船室では子供が安心して遊んでいます。
なぜなら、その子のお父さんが船の舵を取っているからです。
こういう古くからある話をあなたも聞いたことがあるかもしれません。
  
逆境の時、病気の時、さまざまな苦しみにあう時、
それらすべての試練を超えて、
「お父様が今もちゃんと舵を取っているから大丈夫だ」、
と考えるのはなかなか難しいものです。
私は自分で見たり経験したりすることにすっかり気を取られ、
息が詰まるような苦しさを味わいます。
  
しかし、私はいつでもこう信じることができます、
「舵を取っているのはお父様だし、
操縦席からは船室からよりも遠くがよく見える」、と。
   
 
ラウリ コスケンニエミ 「今日、私と共にいてください」
    

2012年3月9日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 第6回目の質問(8~9章)

  
6回目の集まりのために
  
「ヨハネの黙示録」89
  
 
ヨハネはラッパを吹き鳴らす七人の天使を見ます。
ラッパが鳴るとき、
キリストの再臨の前にどのようなことが起こるか、
ヨハネに示されます。
悪魔が手下と共に前代未聞の凶暴さで襲いかかり、
夥しい悪事を働きます。
神様はそれをお許しになります。
このように神様は
厳しい手段をもって人類に語りかけ、
手遅れにならないうちに悔い改めるよう、
招いておられるのです。
 
  
質問

1)七つのラッパの幻はどういう意味でしょうか
86節から921節までの説明を参照してください)。
  
2)私たちはこの世界でたくさんの悪いことが起こるのを目にしています。
それを「神様からの語りかけ」とみなすことができますか。
厳しい語りかけによって人々は自分を見つめなおすことがありますか。
たとえば、ある人々が戦争や自然の汚染によって苦しんでいるのは、
他の人よりも彼らのほうが悪いからなのでしょうか。
   
3)「ヨハネの黙示録」の幻は恐ろしいものですか。
恐れを取り除いてくれるものは何でしょうか。
人々をおびえあがらせるために「ヨハネの黙示録」を使用するのは
正しいやり方ではありません。
にもかかわらず、
この書物が恐るべきことがらを語っているのはどうしてなのでしょうか。
  
4)悪魔の活動も神様が許可なさることがらのみに制限されています。
これは具体的にはどういう意味でしょうか。
そして、これは世界の出来事の中からも見て取れるでしょうか。
それはどのように見えますか。
  
5)いなごや騎馬隊は何をあらわしていますか。
どのような説明を聞いたことがありますか。
9719節の説明を参照してください。
  
6)神様が招いておられるのに、
なぜ人々は悔い改めて神様の御許に来ないのでしょうか。
「そうすると捨てたくないものを捨てなければならなくなるから」、
というのがその理由でしょうか。
どのようなことを捨てなければならなくなるのでしょうか。
 

2012年3月7日水曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 9章20~21節 悔い改めない人々

 
悔い改めない人々 92021
  
 
この二節に込められたメッセージは衝撃的です。
神様は艱難を人類に与えることで、
結局は人間たちにとって最善となることがらを実現なさろうとします。
神様は人類を揺さ振られます。
それは、
多くの人が間違った道から方向転換して、
命を持たない偶像のかわりに
活きておられる神様を見出して、
「最後の日」に神様の怒りから救われるようになるためなのです。
ところが、どうでしょう。
人々は神様の厳しい警告に耳を貸さず、
神様をないがしろにした生活を続けています。
人間はこれほどまでに心をかたくなにしてしまうものなのでしょうか。
しかし、今の時代、実際にその通りになっているのを、
私たちは目の当たりにしています。
神様は厳しいやり方で人類を(罪の)まどろみから覚まそうとしています
(たとえば、環境汚染、増大する地球上の艱難、
ひどくなっていくばかりの戦争など)。
にもかかわらず、人々は神様を無視して生活しています。
彼らは神様の御前で悔い改めて生きるどころか、
逆に、さらに深い不義の生活へと落ち込んでいきます。
  

2012年3月2日金曜日

「ヨハネの黙示録」ガイドブック 9章13~19節 第六のラッパ

  
第六のラッパ 91319
   
 
第六の天使がラッパを吹きます。
ヨハネはこの世の終わりでまだ何が起きるかを、目にします。
四人の天使が解き放たれて、人類の三分の一が死にます。
この数字が象徴的なものであるかどうかは、わかりません。
ともかく、イエス様の再臨に先立つ嵐で非常に多くの人間が死ぬのは、
確かであると思われます。
おそらく四人の天使は悪魔の使いでしょう。
天使たちはユーフラテス川の向こう側からやってきます。
昔の人々にとって、この川は恐るべき境界線でした。
その向こう側には、
こちら側のなじみ深い世界を脅かす様々な国民が控えていました。
「ユーフラテス川」というのは象徴的に理解することができます。
すなわち、それは、悪を描いています。
そして、その悪から「滅びをもたらす者たち」がやってくるのです。
ヨハネは騎兵や馬を見ます。
それらはおびただしい数です。
私たちの計算に従えば、二億にあたります。
現代ではこれほど多数の軍隊も実際に存在します。
例えば中国の国民軍には、ほぼこれに相当する数の兵士が所属しています。
それはともかく、その数字を通してヨハネは
世界に争乱と滅びをもたらす巨大な悪の力を描いている、
と理解するのが正しいと思われます。
ここでも、ヨハネが描く騎兵隊の中に
現代の戦争兵器に通じる要素を見出すことができます。
とはいえ、ヨハネが戦車や戦闘機を描写しているとは断言できません。
むしろヨハネは、
滅びをもたらす者たちの様子がどれほど恐ろしげで強大か、
あらわしているのです。
それらは悪魔に仕えて世界を滅ぼす力を有しており、
そのせいで、ヨハネは恐ろしさのあまり気が動転しています。
騎兵隊もまた、前のイナゴの場合と同様、
悪魔の使いだった、ということです。
思想、群集、支配者、あるいは国家などは、
悪魔に仕えるときに、
ヨハネが騎兵隊について語っていることを実行に移すことがありえます。