フィンランド・ルーテル福音協会は1900年以来日本にルター派の宣教師を派遣し続けてきました。このブログでは、この宣教師団体の聖書や信仰生活に関する教えをフィンランド語から日本語に翻訳して紹介します。(夏は不定期更新になります)。
2011年3月24日木曜日
「コリントの信徒への第一の手紙」11章27~34節
聖なる礼典、聖餐式 11章27~34節
コリントの信徒たちが聖餐式を誤用しているため、主の聖餐の本質を彼らがよく見極めるよう、使徒は勧めています。
彼の言葉は真剣な警告です。
主の聖餐にふさわしくない態度で参加することは、主の死に対して罪を犯すことを意味します。
それゆえ、人は聖餐が聖なる式であることを心に銘じておかなければなりません。
「主のからだをわきまえないで」聖餐を食べ飲む者は、それによって自らに裁きを招くことになります。
この御言葉は、二通りの意味にとることができます。
まず、「主のからだを他の食べ物と明確に区別しなければならない」、という意味です。
もう一つは、「主のからだ、すなわち主の教会をわきまえないで飲み食いする」、という意味です。
後者の解釈は、「主の聖餐には主のからだ、すなわち主の教会が臨在している」、と指摘しているわけです。
この「からだ」(教会)では皆が平等なので、コリントの教会で起きてしまったような差別は誰に対してもあってはならない、というわけです。
確実なことは言えないにせよ、前者の説明のほうが正しいと思われます。
31節で、パウロは自分自身を正しく裁く(吟味する)ことについてこう語ります、
「もしも自分で自分を裁くならば、私たちは裁かれることにはならないでしょう」。
人は、自分で自分を裁く(吟味する)ときに、正しい心構えで主の聖餐に参加することになるのです。
そういう場合には、神様はその人を裁いたりはなさいません。
コリントの信徒たちが病気になったり死んだりしたケースについては、謎めいた部分が残ります。
それは主の裁きですが、特定の個人や教会全体に向けられたものではありません。
この裁きの目的は、コリントの教会を破壊することではなく、それを(霊的に)目覚めさせることでした。
もしもそうでなければ、教会は世と共に同じ裁きを受けることになるでしょうから。
2011年3月22日火曜日
「コリントの信徒への第一の手紙」11章23~26節
主の聖餐の設定 11章23~26節
パウロは、主がどのように聖餐式を設定されたか、コリントの信徒たちに思い起こさせることによって、彼らを正しい道に指導しなければなりません。
それで、エルサレムのとある家の二階の広間で行われた最初の聖餐式に遡る古い伝承のことを持ち出します。
この箇所は、新約聖書の中で聖餐式の設定に関する最古のものです。
それゆえ、その設定辞が今日の教会の礼拝の聖餐式における設定辞に含まれているのは、きわめて適切なことと言わなければなりません。
聖餐式で分けられるパンは、私たちのために与えられたキリストのからだです。
ぶどう酒はキリストの血における新しい契約です。
キリストを覚える聖餐式は、それに与る人々が聖餐にあずかることによって主の死を宣べ伝える、という意味をもっています。
キリストの再臨の時まで、主の聖餐はこのようにずっと続いていきます。
パンを裂いて祝福することは、ユダヤ人の食事の慣習に関連しています。
家の主人が食卓からパンを取り、隣席者全員の目の前で上へと持ち上げることで、食事が始められます。
パンを高く持ち上げたまま、主人は神様を次のように賛美します、
「私たちの主なる神様、世界の王様、地がパンを産するようにしてくださるあなたが、ほめたたえられますように!」。
この言葉に来客は「ア-メン」と唱和します。
この後で、主人は食卓についている人数に合わせてパンを裂き、それを皆に配ります。
それから、食事をします。
主が聖餐式を設定なさるときにも、食事の後にぶどう酒の入った杯とそれに関するイエス様の御言葉が続きました。
2011年3月18日金曜日
「コリントの信徒への第一の手紙」11章17~22節
聖餐式における問題 11章17~22節
パウロにとってより大きな問題だったのは、コリントの信徒たちの聖餐式の行い方にはいろいろと改善するべき点がある、ということでした。
このことについて彼は、コリントの教会を実際に訪れた人から聞いていました。
今使徒は、教会を内部抗争のゆえに叱責するつもりはありません。
それに関しては、すでに1~4章で厳しく戒めたからです。
ここでの彼は優しく、「教会がさまざまなグループに分かれるのは至極当然である」、とさえ言っています。
しかしこれらの言葉にもかかわらず、パウロの意見ははっきり読み取れます。
すなわち、自分のグループの殻に閉じこもる教会員たちの内輪的な態度がコリントの教会に問題を引き起こした、ということです。
当時、主の聖餐式を行うときに、それと共に会食をする慣習がありました。
それは多くの人にとってその日の唯一のまともな食事だったのです。
その食事会のなかで、パンとぶどう酒という本来の聖餐も食されました。
空腹を満たすための食事は各自の「もちより」でまかなわれるはずでした。
おそらく、まずはじめにパンを食し、それから食事を取り、その後でぶどう酒の入った杯が祝福されました。
ところが、教会員たちの閉鎖的なグループ根性がここで露呈してしまいました。
裕福な教会員たちが、長時間働いてから食事会に参加する貧しい人たちのことをわざわざ待ってあげたりしなかったのは、あきらかです。
ともかくも、彼らには自分で用意してきたお弁当を自分のグループ以外の人たちにも配るような配慮はありませんでした。
こうして、ある人たちには食べ物がありあまるほどあったのに、他の人たちには食べるものが何もない、という状況が生じました。
聖餐式を行うときに、信徒間の経済的な格差に基づく不平等と、自分のグループに閉じこもる内輪性が、もろに表面化する結果となりました。
それは教会員同士の溝を深め、争いを悪化させました。
「どこかまったく別の場所で十分飲食するように」、とパウロは助言しています。
「教会の集まりではパンとぶどう酒のみを食するべきである」、と。
2011年3月11日金曜日
「コリントの信徒への第一の手紙」11章2~16節
聖餐式の奥義
「コリントの信徒への第一の手紙」11章
11章2~34節 教会の礼拝
偶像に捧げられた肉を食べることと、それに関連する隣人愛とについて懇切丁寧に説明してきた後で、パウロは今まったく別のテーマに移ります。
11章2~14節の箇所は教会の礼拝に関するものです。
被り物の有無 11章2~16節
この箇所でパウロは、コリントの教会で彼が正したいと思っていることを取り上げます。
ちょっと読んだだけでは、正確にはいったい何が問題になっているか、皆目見当がつきません。
使徒は、礼拝でコリントの女たちが頭を被り物で覆わないことについて、苦言を呈します。
この箇所からわかるのは、パウロには、この問題は些細なことではない、ということです。
2節は、古典世界の弁論術に典型的な、聴衆の共感を得ようとする書き出しです。
この箇所でパウロは、ふたたびコリントの信徒たちのご機嫌を取っています。
それにより、彼がこれから言おうとしていることを彼らがすんなりと受け入れてくれるように、努めているわけです。
パウロによれば、礼拝で祈ったり預言したりするときに、男たちは頭を被り物で覆わないこと、また、女たちは頭を被り物で覆うようにすることは、大切なことなのです。
祈ることと預言することは、その両方とも、公的な場に登場することや、祈りの奉仕をすることや、御霊の伝えたメッセージを皆に知らせることを意味しています。
パウロはこの被り物の慣習の根拠を「創造の秩序」に見出します。
女は男から生じたので、彼女は「権威の下にいる者のしるし」を頭に被らなければならないのです。
顔ではなく髪を覆うこの被り物について、私たちは古典時代当時の絵から知っています。
それとは逆に、男は公の場所で祈ったり預言をしたりするときには、何の被り物も頭につけてはなりません。
男は女から生じたわけではないからです。
使徒によれば、長い髪は、男にとっては恥ずべきものだが、女にとっては光栄なものであることを自然も教えています。
かりに誰かがこれに反論するとしても、神様の諸教会の慣習はその人自身に対しても規範となっていることを知るべきなのです。
この箇所に関しては、聖書の解釈者も教会の信徒も一様にお手上げという状態です。
パウロが描いている教会の慣習の中で実際に生活していた教父テルトゥリアヌスが、私たちの理解を助けてくれます。
彼はパウロの言葉を次のように理解しました、
「コリントの教会の女たちは常に頭の上に(今話題となっている)「被り物」をつけていた。
ところが、預言の霊が彼女たちの中に入って来ると、彼女たちはその被り物を投げ捨てたのだ」、と。
この態度に込められているメッセージはどのようなものでしょうか。
それは、預言の霊を受けて話し始めた女は、もはや女として話しているのではなく、教会の教師として説教しようとしている、ということです。
これをパウロはよくないこととみなしました。
それゆえ、彼は誤解を避けようとしました。
パウロの命令のポイントは、教会の女たちが皆同じような服装で礼拝に参加しなければならない、というようなことではありません。
パウロは、コリントの教会の女たちが教会の教師になろうとするのを止めさせようとしているのです。
彼はこのことを14章で極めて明瞭に禁じています。
この箇所に基づいて、世界各地の教会のなかには、男たちは教会の建物の中に入る時に帽子をはずす、という慣習を千年以上も守りつづけてきたところがあります。
同様に、女たちは教会でスカーフや被り物を頭の上につける、という習慣が残っている教会もあります。
フィンランドのなかにもこうした慣習を今でも守っているキリスト教のグループがあります。
この慣習自体を悪く言う人は誰もいないでしょう。
にもかかわらず、この慣習はあきらかに間違った聖書解釈に基づいている、と言わざるをえません。
こうした聖書の誤解が生じた理由は、単純です。
何百年もの歳月を経て服装にかかわる慣習がすっかり様変わりし、もはやパウロの言わんとすることが正しく理解されなくなってしまった、ということなのです。
2011年3月9日水曜日
「コリントの信徒への第一の手紙」第8回目の終わりのメッセージ
終わりのメッセージ
私が大学生だった頃、私の住んでいた学生寮では、ときおり様々なテーマについて激しい議論が繰り広げられました。
それはもちろん若さのなせるわざでもありました。
ある時こうして夜遅くまで議論していて、私たちのうちの一人が他の人とはちがう意見を支持しました。
ところが、議論が進むうちに彼の意見の根拠が次第にぐらついていきました。
そのとき彼は突然立ち上がり、「要するに私の勝ちだ」と言い放つと、すぐに自分の部屋に引きこもり、ドアに鍵をかけました。
「私の勝ちだ」。
「私が正しい」。
こうした態度は雑誌の読者欄ではしばしば見受けられます。
そのような場合の多くは、もはや議論の対象はテーマ自体ではなくなり、ただ人間同士が言い合っているにすぎません。
「私の方が正しい」。
こうした喧嘩が起きなかった家庭がいったいどこかにあるでしょうか。
誰でも自分の誤りを認めるのは難しいものです。
自分の正しさに固執することが議論の大原則となっているかぎり、霊的なことがらについての話し合いはだめになってしまいます。
確信をもつのは悪いことではありません。
しかし、自分の正しさに固執するという確信は罪です。
聖なる御言葉を「弟子の心」をもって研究しないところでは、こういう確信が幅を利かせます。
御言葉は真理です。
私たちは、御言葉が私たちのことを吟味し指導してくれるように、自分自身を御言葉に明け渡します。
さもないと御言葉は、それを乱用して自分の正しさを証明しようとするための外的な手段あるいは武器にさえなってしまいます。
私たち自身の生活に当てはめてみもしないで、聖書を研究したり活用したりすることはできません。
このようにしてのみ、自分の正しさに固執する誘惑に打ち勝つことができるのです。
自分の正しさに固執するのは悪いことです。
御言葉に基づく確信は命の力です。
(ラウリ コスケンニエミ 「家では帰りを待っている」)
2011年3月7日月曜日
「コリントの信徒への第一の手紙」第8回目の質問
「コリントの信徒への第一の手紙」 第8回目の質問
1)現代では、肉を食べることで傷つく人は殆ど誰もいないでしょう。
当時の偶像に捧げられた肉の問題に対応するような問題が今の私たちには何かあるでしょうか。
2)「他の人のことを考慮する」ということは、どのような場合に「二枚舌」であり、またどのような場合には「隣人愛」なのでしょうか。
3)「クリスチャンは、一方では自由な主人であって誰の僕でもないが、他方では自発的に皆の僕となる」、とルターは言っています。
現代では、「愛」は「キリストのものである人々」の目印となっているでしょうか。
これはいつの時代でもそうだったのでしょうか、それとも、いまだかつてそんなことはありはしなかったのでしょうか。
4)パウロは10章1~13節を、不信仰者にではなく、継続的に礼拝に参加している教会員に向けて書いています。
この箇所は、私たちの時代では誰に向けられていると思いますか。
教会の中心的なグループに対してでしょうか、それとも、教会に形式的に所属している教会員全員に対してでしょうか。
5)偶像礼拝は、私たちの時代にはどのような形態をとっていますか。
6)多くのクリスチャンはホロスコープ(星占い)を読んでいます。
ホロスコープの背景には、「星は神々であり、それらの運行を調べることで自分や他の人の運命を知ることができる」、という考えがあります。
これについて何というべきでしょうか。
7)今回の箇所に基づくとき、フリーメーソンやその「聖なる食事」について、どのように考えるべきでしょうか。
2011年3月3日木曜日
「コリントの信徒への第一の手紙」10章23節~11章1節
肉屋について 10章23節~11章1節
「すべては許されている」というフレーズは、あきらかに一部のコリントの信徒間で流行っていた言い回しです(6章12節を参照してください)。
今ここでパウロは、「クリスチャンの自由」を非常に深く真剣に教えています。
たとえすべてが許されているとしても、すべてが有益である、というわけではありません。
(クリスチャンは行動する時に)他のクリスチャンたちのことも考慮に入れるべきなのです。
まだひとつ問題が残っています。
もしも犠牲に捧げられた肉を食べるのが本当にそれほど危険なことだとしたら、肉屋ではいったいどうすればよいのでしょうか。
店では偶像に捧げられた肉しか売っていないからです。
クリスチャンはいつでもどこでも肉を食べないようにしなければならないのでしょうか。
「そうではない」、とパウロは言います。
神様は全世界の造り主ですから、何ひとつ犠牲の儀式によって「偶像に属するもの」に変質したりはしません。
犠牲の食卓に参加しないならば、肉屋で売っている肉は良心を汚さずに食べることができます。
そのかわり、肉を食べることに関して他のクリスチャンたちがどのように言っているか、ちゃんと把握しておかなければなりません。
もしも家を訪れたクリスチャンが「おみやげ」として肉を持参した場合には、その肉については何も訊かずに食べてかまいません。
しかし、もしもその場の誰かが、「その肉は偶像に捧げられたものです」と告げた場合には、その人のために肉は口にしないでおくべきです。
クリスチャンの愛は、自分自身の権利や自由を行使しないでおくことを要求するものでもあります。
このようにすることで、ユダヤ人のことも異邦人のことも無益に傷つけなくてすみます。
パウロは大胆にも、自分自身のことをコリントの信徒たちの模範として提示しています。
9章全体を通して彼は、「コリントで自分の有している権利を利用しなかった」、と語ってきたわけですから。
今回の箇所は、私たちに相当な量の「宿題」を与えています。
「日常生活の中でクリスチャンは他の人たちのことをどのように考慮していかなければならないか」、ということが次から次へと出てきました。
クリスチャンは自由であり、誰もクリスチャンを無理やり奴隷にすることはできません。
にもかかわらず、クリスチャンは自分自身を「すべての人の僕」とします。
このメッセージは、表面的あるいは理論的にその意味を思い巡らすために与えられているわけではありません。
パウロの生き方がそれをよく示しています。
その意味で今回の箇所は、私たちがその教えを日常生活の中で実践するように、という挑戦状であるとも言えます。
登録:
コメント (Atom)