罪深い都市、コリント
コリントには古く輝かしい歴史がありました。
ギリシア人が海洋術を学ぶとまもなく、両側に海浜をもつ狭い峡部に位置するこの都市は、絶好の港町となりました。
ギリシアが勢威を振るった時代(紀元前480~330年)に、コリントは海洋業が盛んな活気あふれる町でした。
その後、ギリシアの覇権を握ったのは、フィリッポスとその息子アレクサンダー大王の率いるマケドニア人であり、さらに100年後、彼らに続いて支配の座に着いたのは、ローマ人でした。
こうした変遷の中で、ギリシア人の都市国家の重要性は薄れていったのです。
コリント主導の下に結集した都市国家は、ついにローマに反旗を翻しました。
紀元前146年、ローマ人は、ほかのすべてのギリシア人に対するみせしめとして、コリントを破壊しました。100年後、紀元前46年に、ガイウス・ユリウス・カエサルはこの都市をローマ人の植民都市として再建しました。
地の利を生かして、コリントはまもなく新たな隆盛を迎えました。
すでに紀元前29年には、コリントはアカヤ州の首都、総督府の都市となっています。
パウロの時代には、コリントは現代の大きな港湾都市と同じような賑わいを見せていました。
そこには、ありとあらゆる堕落と不道徳がありました。
都市には大金持ちも貧乏人も大勢いました。
それに加えて、港町にはさまざまな新しい宗教がなだれこんできていました。
これらすべてのことが、コリントの教会および「コリントの信徒への手紙」の中にくっきりと刻印を残しています。
フィンランド・ルーテル福音協会は1900年以来日本にルター派の宣教師を派遣し続けてきました。このブログでは、この宣教師団体の聖書や信仰生活に関する教えをフィンランド語から日本語に翻訳して紹介します。(夏は不定期更新になります)。
2010年9月7日火曜日
2010年9月1日水曜日
「コリントの信徒への第一の手紙」 はじめに
これからは、「コリントの信徒への第一の手紙」を主に信徒同士の聖書研究会で読むために書かれたガイドブックを翻訳掲載していく予定です。
コリントの信徒への第一の手紙を読むためのガイドブック
著者 エルッキ・コスケンニエミ (牧師、神学博士)
フィンランド語から翻訳編集 高木賢 (神学修士)
争いの最中で
はじめに
パウロのヨーロッパ伝道は、さまざまな困難の中ではじまりました。
使徒の働き16章はパウロとシラスが投獄されたことを記しています。
テサロニケとべレアから、パウロは危うく死にそうな目にあいながら逃げ出さなければなりませんでした(使徒の働き17章)。
ヨーロッパ文明のゆりかご、アテネでは、福音は嘲笑の的になりました。
これらのことを体験したばかりのパウロは、アテネから、悪名高い港町コリントへと向かいました。
パウロがコリントの信徒たちに、「私はひどく弱り、恐れ、震えながらあなたがたのところに行きました」(コリントの信徒への第一の手紙2章3節)と書いたのは無理もありません。
ところが、おびえる心でコリントに着いたパウロは、主の器として一年半の間、誰にも邪魔されずに働くことができました。
この時期の出来事については、使徒の働き18章で語られています。
人間的に計算する場合にはまったくありえないことだが、実はコリントには「神様のもの」となる人々がたくさんいる、と神様はパウロにお告げになりました。
主は約束されたことを実行なさり、多くの人の心を異教から引き離してキリストの方へと向けさせました。
まもなくユダヤ人たちはパウロが会堂(シナゴーグ)に入れないように邪魔しましたが、会堂の隣に住んでいた神様を畏れる異教徒のテテオ・ユストの家で、パウロは迷うことなく説教を続けました(コリントの信徒への第一の手紙18章6~7節)。
ユダヤ人と他の民族(「異邦人」)との間の溝は、現代の私たちの想像をはるかに超える深いものでした。
福音がこの溝の上に橋をかけました。
コリントの教会員の大部分は、以前異教徒でしたが、その中にはユダヤ人も含まれていました。
ほかの都市でも生じた艱難が、ついにはコリントでも起こりました。
西暦50年、アカヤのローマ人の最高指揮官なる総督として着任したルキウス・ユニウス・ガリオに対し、コリントのユダヤ人たちはパウロのことを訴えました。
ところが、総督は宗教に関わることがらを法廷で取り扱うことを認めませんでした。
この決定にもかかわらず、パウロはまもなくどこかほかのところで福音伝道の仕事を続けることに決めました。
こうしてパウロは活発なコリントの教会を後に残しました。
この教会に宛てたパウロの手紙は、全新約聖書の中でも最も大切な書物のひとつです。
コリントの教会はパウロにとって、いろいろな意味でやっかいでした。
まさにそのゆえに、パウロは全力を尽くして手紙を書かなければなりませんでした。
このことは、コリントの信徒への手紙から読み取れます。
そしてそれゆえに、とても読み応えのある手紙になったのです。
2010年8月23日月曜日
「エフェソの信徒への手紙」について 第6回目の終わりのメッセージ
第6回目の集まりのためのおわりのメッセージ
主イエス・キリスト様、あなたは私の魂のもっともかけがえのない友です。
私が心からあなたを愛し、あなたに話しかけることができるように、あなたの恵みをお与えください。最愛なる主イエス様、あなたの愛以外の何ものも私の心を満たさないように、なさってください。
あなたの愛に関係のないことをすべて、私の心から取り去ってください。
私は自分の心の中に、あなたの愛以外のものは欲しくないからです。
あなたの愛はいかに良く素晴らしく好ましいことでしょう!
それがどれほど私の魂を元気付けてくれることでしょうか!
それがどれほど私の心を喜ばせてくれることでしょうか!
私があなたの愛以外のことを考えたり見たり慕ったり知ったりすることがないように、なさってください。
あなたの愛にはすべてがあり、あなたの愛はすべてを内に含み、あなたの愛はすべてに勝つからです。
私はこの貴い宝を永遠に自分のものとしておきたいのです。
この宝を昼も夜も見張り、忠実に保ち、それに気を配り、それについて祈ることができるように、私を助けてください。
この宝は、永遠の命を「味見」させてくれ、楽園へとつづく「前庭」に導いてくれるからです。
あなたは私の愛する方であり、あなたは私への愛ゆえに、傷を受けられたからです。
あなたの愛によって、私の魂を傷つけてください。
私への愛から流してくださったあなたの貴い血は、本当に無垢で力強いので、石のように硬くなった心をもやわらかくしてくれます。
あなたの血が私の心をつらぬいて、あなたの愛がそれと同時に私の心の中に流れ込むように、なさってください。
あなたの愛はあなたの血の中にこそあるからです。
死との戦いの中で地面に滴り落ちた、あなたのすばらしい無垢な血のしずくを、私が心を開いて受け止めて飲むことができれば、どれほどよいことでしょうか。
あなたの血のしずくが、その愛によって、私の目頭を熱くし、涙ぐませてくれたら、また、あなたが私を迎えに来られ、その腕に抱きかかえてくださる時が来るまで、私が子供のようにあなたを慕って泣けたら、そして、あなたがどれほどすばらしいお方か私に味わわせてくだされば、どれほどよいことでしょうか。
私を御許に引寄せてください。私は馳せ参じます。
あなたは、私の慰め、力、命、光、宝、救い、最高の持ち物、です。
私を御自分に結び付けてください。
あなたと関係なく私がもっているものはすべて、心を悲しくさせる悲惨な苦しみや平安のない嘆きを生みだすばかりだからです。
あなたは私の魂の唯一の憩い、平和、喜びです。
それゆえ、あなたの清潔ですばらしい愛によって、私をいつも永遠に照らしつづけてください。
あなたの好ましい愛の聖なる火、窒息させるような苦しみも悲しみも含んでいない、あのあなたの聖さの火、喜びの火、優しく好ましい火が、私をまるごと点火してくれれば、どれほどよいでしょうか。
あなたの愛の貴い香りが私を元気付けてくれますように。
私が貴い天のクリームの香りをいつでも自由に楽しんで、それが私の心の痛みを和らげ癒してくれますように。
あなたは愛することを知っている存在のうちで最もすばらしいお方です。
あなたの愛の中で私が持っていないものが何かあるというのでしょうか。
あなたの愛は、私の緑の牧場、私を完全に満ち足らせてくれるもの、私の食事、飲み物、天のパン、甘いぶどう酒、喜び、好ましい平和、命、光、救い、豊かさ、歓喜、栄光、美しい装飾、輝きです。
もしも私があなたの愛を失えば、私には何が残ると言うのでしょうか。
そのときには私は、着るものが何もない裸で、貧しく惨めな存在ではありませんか。
私が、マグダラのマリアのように、あなたを見出すまで止むことなくあなたを慕って泣き、涙ながらにあなたを探しつづけることができるようになさってください。
永遠の愛によって、あなたは私を愛してくださいました。
それゆえ、あなたはまったくの恵みにより、私を御自分へと引き寄せてくださいました。
あなたの愛がいつも私を導いてくださるように。
そうして、あなたの愛が私のもとに留まって、もしも私が迷子になる場合には、私を正しい道に戻してくださるように。
また、私が途方にくれたとき、私に助言を与えてくださるように。
私の愚かさの中で、私の賢さになってくださるように。
私があなたの御心に反したことを行ったときに、私を悔い改めへと導いてくださるように。
私が揺らぐときに、私を支えてくださるように。
私が転んだとき、私を立ち上がらせてくださるように。
私が悲しんでいるときに、私を慰めてくださるように。
私が弱っているときに、私を強めてくださるように。
私の心の炭火が消えかかっているときに、それに空気を送り込んでくださるように。
私がこの世から離れるときには、私を御許に受け入れて、永遠にお傍においてくださいますように。
アーメン。
2010年8月20日金曜日
「エフェソの信徒への手紙」 第6回目の質問
第6回目の集まりのために エフェソの信徒への手紙 第6章
「エフェソの信徒への手紙」は、人が重圧と運命に翻弄されるままにはしません。
すべては神様の御手の中にあるのです。
キリストの教会は「避難場所」を提供します。
そこでは、愛と喜びは消えることがありません。
しかし一方で、私たちは、罪や「魂の敵」に対抗して絶えず戦いつづける必要があるのです。
1)「エフェソの信徒への手紙」は「この世」の現実を描き出しています。
つまり、教会やクリスチャン一人一人の直面しているさまざまな困難の只中に、悪の力が影響を及ぼしていることを見て取ることができるのです。
私たちは悪魔の存在を信じているでしょうか。
それは私たちにとって、具体的にはどのような意味を持っていますか。
2)私たちはよい天使たちの存在を信じていますか。
それとも、(あなた方の家では、)「天使たちの翼」は、(まだ子供が小さいうちに)すでに子供部屋で、折られてしまっているのでしょうか。
3)あなたがたは説教者たちのために祈ってきましたか。
福音を説教する仕事が、国内国外を問わず、どれほど困難なことであるか、私たちは理解しているでしょうか。
4)神様の御言葉が「エフェソの信徒への手紙」が挙げている唯一の「武器」であるのは、どうしてでしょうか。
それは、私たちや教会の活動に、具体的にはどのような意味を持っているのでしょうか。
5)朽ちることのない世界で、またすでにこの世で始まっている永遠の命の中で、私たちは主イエス・キリスト様を愛しています。
人生の意味を問うときに、「天国」は答えとして十分なものでしょうか。
6)「エフェソの信徒への手紙」全体について、話し合ってください!
この聖書の学びの会を通じて、あなたがたはこの手紙に親しみと愛着をもつようになったでしょうか。
2010年8月13日金曜日
「エフェソの信徒への手紙」について 6章21~24節
6章21~24節 手紙の結語
現在「エフェソの信徒への手紙」として知られているこの手紙がどのようにして教会(あるいは諸教会)のもとに届けられたのかについて、ここでヒントが与えられています。
手紙を届けたのは、テキコという人(「幸福な子」という意味の名前)です。
彼は、新約聖書の他の箇所でも登場する、パウロの近しい同僚でした(「使徒の働き」20章4節、「コロサイの信徒への手紙」4章7節)。
パウロの仕事はチームワークによって行われました。
そこでは、同僚たちの協力が、今の私たちが想像を超えるほど、非常に大切な意味を持っていたのです。
「エフェソの信徒への手紙」は、最初の部分からずっと「恵みの手紙」であったのにふさわしく、短く美しい恵みの挨拶で閉じられます。
2010年8月9日月曜日
「エフェソの信徒への手紙」について 6章10~20節
6章10~20節 真の戦い
先の箇所で「家訓」は終わります。
クリスチャンが受けた指示は、結びの勧めにまとめられています。
第1章によれば「諸力」はすでに打ち砕かれていますが、この箇所はふたたびこれらの「諸力」について語っていることは興味を引きます。
実は、ようやくこの段階になって、クリスチャンはそれらの諸力と戦うことができるようになったのです。
人はキリストと離れている限り、神様とも関係がない状態にあり、死の支配下にいます。
そのような人の内にあるのは、「墓場の中の平安」です。
ところが、神様が人を命へとよみがえらせたときに、戦いが始まります。
死者は横たわったままですが、生者は戦い、祈ります。
感動的なのは、牢獄にありながらも、心に苦い怒りを抱かず、ただ無我夢中に、言葉にはできないほど大きな神様の愛と奥義を描き出した男パウロが、へりくだり、適切な言葉によって主について自分が正しく証できるようにと、皆にとりなしの祈りを頼んでいることです。
「神様の武具」の各部分が、旧約聖書からの引用の数々からなっているのは、感動をさそいます。それらは、ひとつの例外を除き、神様が人間に与えてくださった武具であるにとどまらず、旧約聖書で神様御自身が身につけられた武具でもあります。
この武具を、今クリスチャンは装着するのです。
「御霊の剣」なる神様の御言葉について語っている「ヘブライの信徒への手紙」4章12節のほかにも、少なくとも次の旧約聖書の箇所は特に注目するべきものです。
「正義はその腰の帯となり、真理はその身の帯となる。」(イザヤ書11章5節)
「主は義を胸当てとしてまとい、救いのかぶとをその頭にかぶり、報復の衣をまとって着物とし、熱情を外套として身を包まれました。」(イザヤ書59章17節)
「福音を伝える者の足、平和を告げる者の足、よき福音を伝える者の足、救いを告げる者の足、シオンに向かって「あなたの神様は王となられた」と言う者の足は、山々の上にあって、なんと麗しいことでしょう。」(イザヤ書52章7節)
「私の盾は神様です。神様は心のまっすぐな者を救われます。」(詩篇7篇11節)
「エフェソの信徒への手紙」のこの箇所は、誕生して間もない教会のクリスチャンたちにとっても旧約聖書が信仰の基本書であったことを、私たちに教えてくれます。
旧約聖書を軽んじるのは、クリスチャンにふさわしい態度ではありません。
ともすると聖書の3分の2が読まれずに放置されているという現状を、私たちは恥じるべきでしょう。
とりわけ、私たちに提供されている武具は、神様の御言葉の光の下で、自分自身の生き方全体を見つめなおすように、何度も繰り返し促してくれます。
私たちの生活の中に、聖書とは相容れないことが何かあるでしょうか。
「神様が私を憐れんで、御自分の子供としてくださった」ということに基づいて、よりよい生き方を送ることができるように、私たちは、どのような結論を下すことができるでしょうか。
先の箇所で「家訓」は終わります。
クリスチャンが受けた指示は、結びの勧めにまとめられています。
第1章によれば「諸力」はすでに打ち砕かれていますが、この箇所はふたたびこれらの「諸力」について語っていることは興味を引きます。
実は、ようやくこの段階になって、クリスチャンはそれらの諸力と戦うことができるようになったのです。
人はキリストと離れている限り、神様とも関係がない状態にあり、死の支配下にいます。
そのような人の内にあるのは、「墓場の中の平安」です。
ところが、神様が人を命へとよみがえらせたときに、戦いが始まります。
死者は横たわったままですが、生者は戦い、祈ります。
感動的なのは、牢獄にありながらも、心に苦い怒りを抱かず、ただ無我夢中に、言葉にはできないほど大きな神様の愛と奥義を描き出した男パウロが、へりくだり、適切な言葉によって主について自分が正しく証できるようにと、皆にとりなしの祈りを頼んでいることです。
「神様の武具」の各部分が、旧約聖書からの引用の数々からなっているのは、感動をさそいます。それらは、ひとつの例外を除き、神様が人間に与えてくださった武具であるにとどまらず、旧約聖書で神様御自身が身につけられた武具でもあります。
この武具を、今クリスチャンは装着するのです。
「御霊の剣」なる神様の御言葉について語っている「ヘブライの信徒への手紙」4章12節のほかにも、少なくとも次の旧約聖書の箇所は特に注目するべきものです。
「正義はその腰の帯となり、真理はその身の帯となる。」(イザヤ書11章5節)
「主は義を胸当てとしてまとい、救いのかぶとをその頭にかぶり、報復の衣をまとって着物とし、熱情を外套として身を包まれました。」(イザヤ書59章17節)
「福音を伝える者の足、平和を告げる者の足、よき福音を伝える者の足、救いを告げる者の足、シオンに向かって「あなたの神様は王となられた」と言う者の足は、山々の上にあって、なんと麗しいことでしょう。」(イザヤ書52章7節)
「私の盾は神様です。神様は心のまっすぐな者を救われます。」(詩篇7篇11節)
「エフェソの信徒への手紙」のこの箇所は、誕生して間もない教会のクリスチャンたちにとっても旧約聖書が信仰の基本書であったことを、私たちに教えてくれます。
旧約聖書を軽んじるのは、クリスチャンにふさわしい態度ではありません。
ともすると聖書の3分の2が読まれずに放置されているという現状を、私たちは恥じるべきでしょう。
とりわけ、私たちに提供されている武具は、神様の御言葉の光の下で、自分自身の生き方全体を見つめなおすように、何度も繰り返し促してくれます。
私たちの生活の中に、聖書とは相容れないことが何かあるでしょうか。
「神様が私を憐れんで、御自分の子供としてくださった」ということに基づいて、よりよい生き方を送ることができるように、私たちは、どのような結論を下すことができるでしょうか。
2010年8月5日木曜日
「エフェソの信徒への手紙」について 6章5~9節 その2
6章5~9節 本当に「奴隷」だったのでしょうか。その2
いつもと同じようにして、今回も、「主人に対して下に立ち、できるだけよく仕事をするように」、という指示が奴隷に与えられています。
日常の仕事をする者は神様に仕えているのです。
同じように、主人たちにも指示が与えられています。
神様は主人たちの主であられ、彼らは皆それぞれ、「人と人との間に差別を設けない」神様に対して申し開きをすることになります。
このように、奴隷と自由人は同じ基準に従って裁かれることになります。
幸いなことに「奴隷制」の時代は過ぎ去りました。
にもかかわらず、このテキストには、私たちの生活にも直接適用できることがらがあります。
この箇所の指示は、労働者と雇用者との生き方にもあてはめることができるのはもちろんですが、さらに、私たちに大切なことを教えています。
それは、日常の仕事は神様にお仕えすることだ、ということです。
ここに、宗教改革の大発見のひとつがあります。
しかし残念なことに、それはあまりにもしばしば忘れ去られています。
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