2023年12月1日金曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」1章1〜2節 はじめのあいさつ 

 はじめのあいさつ

「テモテへの第一の手紙」1章1〜2節

 

「わたしたちの救主なる神と、

わたしたちの望みであるキリスト・イエスとの任命による

キリスト・イエスの使徒パウロから、」

(「テモテへの第一の手紙」1章1節、口語訳)

 

いつものとおりパウロは自分のことを「神様の使徒」として紹介しています。

パウロがこのような自己紹介をしていないのは次の三通の手紙でだけです

(「フィリピの信徒への手紙」、

「テサロニケの信徒への第一の手紙」、

「テサロニケの信徒への第二の手紙」)。

これらの手紙には二人以上の差出人の名が記されています。


「使徒」とは神様が権能を授けて派遣なさった福音宣教者のことです。

 

すでに「テモテへの第一の手紙」の冒頭で

この手紙がたんなる個人宛の手紙ではなく

教会の職務に関する手紙であることが明らかにされています。

この手紙には

職務としてテモテ自身が遂行すべき事項や、

他の人々が遂行すべき事柄が書かれています。

 

パウロは神様を「救主」(すくいぬし)と呼んでいます。

「救い主」はギリシア語で「ソーテール」といい、

イエス様について用いられている一般的な名称です

(「エフェソの信徒への手紙」5章23節(「からだなる教会の救主」)、

「フィリピの信徒への手紙」3章20節(「救主、主イエス・キリスト」)、

「テモテへの第二の手紙」1章10節、

「テトスへの手紙」1章4節、3章6節)。

 

新約聖書で「望み」という言葉は決して曖昧な期待などではなく、

「神様は御自身が約束なさったことを確実に与えてくださる」

という堅く信頼することを意味しています。

例えば「ヘブライの信徒への手紙」11章1節には

「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、

まだ見ていない事実を確認することである。」とあります。


 

「信仰によるわたしの真実な子テモテへ。

父なる神とわたしたちの主キリスト・イエスから、

恵みとあわれみと平安とが、あなたにあるように。」

(「テモテへの第一の手紙」1章2節、口語訳)

 

テモテはパウロにとって信仰的な意味での「我が子」でした。

テモテはパウロの伝道を通してキリスト信仰者になったからです。


パウロは自分の伝道を通してキリスト信仰者になった者たちを

自分の子と呼んでいます。

例えば次の引用箇所にあるように

「コリントの信徒への第一の手紙」4章15〜17節では

コリントの信徒たちのことをそのように呼んでいます。

 

「たといあなたがたに、

キリストにある養育掛が一万人あったとしても、

父が多くあるのではない。

キリスト・イエスにあって、

福音によりあなたがたを生んだのは、

わたしなのである。

そこで、あなたがたに勧める。

わたしにならう者となりなさい。

このことのために、

わたしは主にあって愛する忠実なわたしの子テモテを、

あなたがたの所につかわした。

彼は、キリスト・イエスにおけるわたしの生活のしかたを、

わたしが至る所の教会で教えているとおりに、

あなたがたに思い起させてくれるであろう。」

(「コリントの信徒への第一の手紙」4章15〜17節、口語訳)

 

この箇所の他にも例えば

「テモテへの第二の手紙」1章2節、2章1節ではテモテのことを、

「テトスへの手紙」1章4節ではテトスのことを、

「フィレモンへの手紙」10節ではオネシモのことをそう呼んでいます。

 

パウロはテモテに「恵みとあわれみと平安」があるように願っており、

「テモテへの第二の手紙」1章2節でも同様の挨拶をテモテに送っています。

パウロは手紙の受け取り手たちのために「恵みと平安」を願うことが多いです

(「ローマの信徒への手紙」1章7節、

「コリントの信徒への第一の手紙」1章3節、

「コリントの信徒への第二の手紙」1章2節、

「ガラテアの信徒への手紙」1章3節、

「エフェソの信徒への手紙」1章2節、

「フィリピの信徒への手紙」1章2節、

「コロサイの信徒への手紙」1章2節、

「テサロニケの信徒への第一の手紙」1章1節、

「テサロニケの信徒への第二の手紙」1章2節)。


またパウロは「あわれみ」という言葉を

この「テモテへの第一の手紙」を含む牧会書簡以外の手紙でも用いています

(例えば「ローマの信徒への手紙」9章23節、

「ガラテアの信徒への手紙」6章16節)。