2023年11月2日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック パウロの第四次伝道旅行

パウロの第四次伝道旅行

 

教会教父エウセビオスはその主著「教会史」で

パウロがローマで釈放された後にイスパニヤを訪れたと記しています。

この記述と「ローマの信徒への手紙」15章24〜28節を

比較してみてください。

 

牧会書簡はパウロが再度東方を訪れたことを前提として書かれていますが、

聖書の他の箇所にはこのことについての言及がありません。

 

結局のところ、最初期の教会の出来事については

ごくわずかのことしかわかっていないのです。


パウロがクレタ島(口語訳では「クレテ」)を訪れたことについて

ルカは「使徒言行録」で何も言及していません。

パウロがクレタ島を短期間訪れたのは、

第二次伝道旅行の時にコリントからであったか、

あるいは第三次伝道旅行の時にエフェソからであったという可能性があります。


たとえかりに「テトスへの手紙」が

パウロの弟子の書いたものであったとしても、

この手紙はクレタ島にパウロの教えを受けた教会がすでに存在していたことを

前提としています。


私たちは聖書の時代の出来事のすべてを把握しているわけではありません。

それゆえ、例えばパウロのクレタ島訪問のように、

ある出来事について聖書の一箇所にしか記述がないからといって

その出来事が事実ではなかったかのように主張することはできないのです。

 

パウロがギリシアと小アジアを四度目に訪れた時の様子について

牧会書簡はどのように記述しているでしょうか。

 

1)パウロはローマでの投獄状態から約62年頃に釈放された。


2)パウロはイスパニヤに行った

(「ローマの信徒への手紙」15章24〜28節)。


3)そこからおそらくローマを通ってクレタ島へ行き

(「テトスへの手紙」1章5節)、テトスはそこに残った。


4)クレタ島からミレトス(口語訳では「ミレト」)へ向かった

(「テモテへの第二の手紙」4章20節)。


5)ミレトスからコロサイへ(「フィレモンへの手紙」22節)行った。


6)コロサイからエフェソへ(「テモテへの第一の手紙」1章3節)行き、

テモテはそこに残った。


7)エフェソからフィリピへ(「テモテへの第一の手紙」1章3節)行った。


8)フィリピからニコポリス(口語訳では「ニコポリ」)へ

(「テトスへの手紙」3章12節)行った。


9)最後にローマへ行った。

そこで67年か68年にパウロは剣で惨殺され殉教する。

パウロが捕まったのがすでに東方においてであったのか

それともローマに来てからであったのかについては

推測の域を出ない。

 

パウロが伝道旅行で立ち寄った場所の訪問順については

別の可能性も考えられます。

エフェソ、マケドニヤ、クレタ島、エフェソ、

ミレトス、トロアス、ニコポリスという順です。

 

「テモテへの第一の手紙」と「テトスへの手紙」は

60年代の中頃(63年〜66年頃)に書かれ、

「テモテへの第二の手紙」は

パウロがふたたびローマで投獄された時期(67年〜68年)に書かれました。

 

パウロは「テモテへの第一の手紙」を

おそらくマケドニヤで書いたものと思われます。

「テトスへの手紙」はエフェソかあるいはコリントで書かれました。

「テモテへの第二の手紙」はローマで執筆されました。