2014年1月13日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 20章11~18節 二つの言葉


二つの言葉 201118



マグダラのマリアが天使を見たのは、
復活の主との出会いの序章に過ぎませんでした。
この出来事の描写は非常に美しく感動的です。
その中心には、二つの言葉があります。
空っぽの墓や天使を見ても、マリアは主の死をただ泣くばかりでした。
イエス様が目の前にあらわれても、彼女の悲しみは晴れませんでした。
「マリアよ」、というイエス様のたった一言によって、
彼女は相手が主だとわかり、以前と同じように「先生」、と呼びかけました。
この言葉は、ヘブライ語(より正確に言えばアラム語)で
聖書のこの箇所に収録されています。
そのためもあって、この光景からは、
多くの人々にとってイエス様がかけがえのない存在になったその理由、
すなわち、「イエス様の暖かさ」が伝わってきます。

多くの聖書釈義者がやっているように、
「私はまだ御父様の御許に上ってはいない」(2017節)
という言葉の意味を詮索するのは、実はあまり意味がありません。
たとえば、「イエス様はこの出来事の後でようやく天に上られた」
などという解釈もありますが、
それはとりあえず置いて、
イエス様の言葉の中の一番大切なことに関心を集中するべきです。
すなわち、
イエス様が、今やその使命を果たされたおかげで、
イエス様の御父は私たちの御父に、
イエス様の御神は私たちの御神になられた、
ということがそれです。
世が滅びないようにするために、神様の独り子が犠牲となられました。
御子は命を失い、そして、再び受けられたのです。