ピラトの尋問 18章28~38a節(その1)
ローマ人は
ユダヤ人に自律した支配権を広範囲に認めていましたが、
きわめて重要な決定事項に関しては
依然として裁決権を保有していました。
こうした決定事項の中には、死刑の宣告も含まれていました。
そうした理由から、
イエス様はローマ人の総督の手で裁かれることになったのでした。
ポンテオ・ピラト(Pontius Piratus)は
ユダヤ属州総督を西暦26~36年の間に務めました。
彼がこの職に任命されたのは、
皇帝ティベリウスの信任厚い親衛隊長官(Praefectus praetorio)
ルキウス・アエリウス・セイヤヌス(Lucius Aelius Seianus)の
あからさまな反ユダヤ主義的な政策の一環であったと思われます。
当時のユダヤ人たちが残した資料によると、
ピラトは残虐で、
しばしばユダヤ人を故意に侮辱する行動を取る支配者でした。
ついには過酷さの度が過ぎて、
彼の直接の上官であるシリア総督ウィテッリウス(Vitellius)によって罷免され、
引責のためローマに召還されました。
おそらくそこで彼は39年に自殺したものと思われます。
イエス様の受難史に描かれている出来事の頃、
ピラトの立場は度重なる失策のために危うくなっており、
さらには彼の擁護者だったセイアヌスも
反乱の罪ですでに処刑されていた可能性があります
(セイアヌスの処刑は31年)。
ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人たちは、
そうして生じたごくわずかの政治的な自由を行使して、
このような不安定な状況の中で小利を稼ぐ達人でした。
上述のことを念頭に置くと、
なぜローマの地方総督ともあろう者が
優柔不断な態度をとる存在として福音書に描かれているのか
が納得できます。
ピラトにはもはや政治的な過失を重ねる余裕がなかったのです。