2013年4月29日月曜日

「ヨハネによる福音書」ガイドブック 10章22~42節 迫り来る危険


 
迫り来る危険 102242
  
 
この箇所は、12月に行われるエルサレムの宮清めの祭りから始まります。
「ヨハネによる福音書」の描写は緊迫感を伝えます。
他の三つの福音書では、
イエス様は「神を侮辱する者」として糾弾されています。
この箇所の記述はそれと対応するテーマを扱っている、
と考える研究者たちもいます。
ユダヤ人たちは、いったい何度イエス様を殺そうとしてきたことでしょうか。
こうして、イエス様の受難は次第に明確な形を取るようになっていきます。
「マルコによる福音書」では、最初から一貫して、
イエス様の十字架の影がかかっています。
この点で、「ヨハネによる福音書」は
「マルコによる福音書」と深く対応していると言えます。
  
ここでの話し合いは、
ニコデモとの対話でのように真理の探究をめざしたものではありません。
今イエス様に近づいてきたのは、
イエス様から明確な質問の答えを要求し、
その返答如何では、イエス様を殺害するのも辞さないユダヤ人たちでした。
  
イエス様もまた、
御自分に属する者たちと、今話し合っている相手側との間に、
明確な区別をなさいます。
後者はイエス様を信じません。
彼らはイエス様の羊ではないからです。
御自分の羊たちには、イエス様は永遠の命を授けてくださいます。
イエス様に敵対する人々は、それを拒絶します。
彼らは目が見えず、
イエス様が天の御父様と一体なる方であることが見えていないからです。
それで、彼らは唯一の救い主なるイエス様を
「全能なる神を侮辱する者」として、石打の刑に処そうとします。
ここで再び、「ヨハネによる福音書」の冒頭の
「ロゴス賛歌」を思い起こすことにしましょう、
「この方は御自分のところに来られたのに、
その民はこの方を受け入れませんでした」
(「ヨハネによる福音書」111節)。
  
ここで「ヨハネによる福音書」は、
イエス殺害計画があったことをほのめかす一方で、
しかしそれが未遂に終わった、とも記しています。
まだ「イエス様の時」は来ていなかったからです。
むしろこの段階では、
誰かしらがイエス様の御許に来て、
イエス様を信じることさえ起こりうる状態でした。
光は今もなお輝き続けており、
暗闇はそれを支配下におくことができませんでした
(「ヨハネによる福音書」15節を参照してください)。