門であり羊飼いであるイエス様 10章1~21節(その1)
イエス様がこの地上に生きておられた時代に、
羊たちは、
昼間は牧場に連れて行かれ、
夜になると塀で囲まれた安全な羊の園に戻されるのが普通でした。
このような羊の園では、
複数の異なる羊飼いたちの羊が一緒になっていました。
当時の羊の園には盗難を防ぐため見張りが立てられていたことをふまえて、
イエス様はこのたとえを話しています。
羊飼いは、朝になると園に来て、自分の羊たちを呼びます。
その羊飼いの羊たちは、この呼び声を聞き分けて、牧場へと出かけます。
イエス様のお話の中では、ふたつのたとえがひとつに結びついています。
イエス様は、羊の園の門であり、また羊飼いでもある、ということです。
そこで、この両面について考えてみることにしましょう。
羊の園は、羊たちの避難場所です。
そこへ塀を越えて潜入しようとする者は、
盗みや何か他の悪さをたくらんでいる、と見てまちがいありません。
用事がある人は、ちゃんと門を通って園の中に入っていくものです。
羊飼い(牧者)についてのイエス様の御言葉は、
イエス様の教会を引き合いに出すことで理解できるようになります。
初期教会の時代に、
「牧者」(牧師)が各個教会の指導者の一般的な名称だったのは、
たんなる偶然ではありません。
キリスト御自身が牧者の職を設定されました。
そして、聖霊様が、歴史を通じて御自分の教会を監督するために、
牧者を召されたのです(「使徒の働き」20章28節を参照してください)。
人は、
キリストとの関係が整えられていなければ、
教会の群れの牧者にはなれません。
門をくぐらずに群れを監督しようとするのは、群れを散らす危険な強盗です。
その者は、
「私の前に来た者は皆盗人であり強盗だったので、
羊たちは彼らの声を聞こうとはしなかった」、
とイエス様が言われている者たちと同類です。
もちろんイエス様がここで意味しておられるのは、
モーセや預言者たちではなく、
偽のキリストたちのことです。