門であり羊飼いであるイエス様 10章1~21節(その2)
羊飼いの仕事は、イエス様の時代には、
その牧歌的なイメージとはそぐわない重労働でした。
社会的にみて、羊飼いたちは社会の最下層に属していました。
イエス様が御自分をなぞらえる「羊飼い」は、
ふわふわ浮いている「空中楼閣」などではなく、
当時の日常に密着した地味な職業です。
この牧者の仕事を、いいかげんに行う者もいれば、
きちんと真面目に行う者もいました。
羊の責任を取らない雇われ人は、不真面目な牧者です。
真面目に仕事をするのは、
羊の群れを「自分のもの」として大切にする牧者です。
イエス様が「よい羊飼い」について語られる際、
それと対応する旧約聖書の箇所が念頭にあったのは明らかです。
「だめな羊飼い」は、羊の群れが狼に襲われても何もしません。
戦いに負けた昔のイスラエルの人々の群れが散らされるのを放っておく
「だめな羊飼い」と、イエス様は根本的にちがいます
(「エぜキエル書」34章、「列王記上」22章17節)。
イエス様は羊の群れを愛しておられ、
彼らのために御自分の命さえも犠牲にする覚悟をおもちです。
イエス様は、御父様の御心により、死へと下降していかれます。
一方では、イエス様は、御父様から御霊を再び受けることになります。
このようにして、神様の偉大なご計画が成就されていきます。
旧約聖書を背景としてこの箇所を考えるとき、
「羊の群れ」はイスラエルの民を指している、と捉えるべきです。
しかし、イエス様のお仕事は
旧約の設けた境界さえも越えていくものでした。
「私には、この園の中にはいない他の羊たちもいます。
そして、私は彼らのことも連れて来なければなりません。
彼らは私の声を聴きます。
こうして一つの群れと一人の羊飼いがいるようになります」
(「ヨハネによる福音書」10章16節)。
これらの御言葉は、イスラエルが異邦の諸国民と共に、
いつかキリストの教会を形成することを、すでに告げています。
このキリストの教会では、
イスラエルの民と異邦人という
二つのグループの間をそれまで隔ててきた壁を、
主の救いのみわざが、すっかり取り去ったのです
(「エフェソの信徒への手紙」2章)。