ほふられた小羊 5章5~14節(その2)
イエス様が、
一方では「偉大な王」として、他方では「ほふられた小羊」として
描き出されていることには、深いメッセージが込められています。
キリストはあらゆる権能をお持ちで、
この方を前にしては、
最も偉大な人間でさえも取るに足らない存在にすぎません。
ところが、
イエス様はその偉大さを隠され、
普通の人として生まれて、
十字架への道を従容として歩まれました。
そして、
まったく無力な小羊がほふられるようにして、身をほふられました。
「王の中の王」はこの受難を受け入れてくださいました。
なぜなら、私たちを限りなく愛しておられたからです。
もしもイエス様が栄光に包まれてこの世に来られたのだとしたら、
この方の聖さは人類を滅ぼしてしまったことでしょう。
この方は、私たちを救うためにその偉大さを隠され、
「イザヤ書」の預言の通りに、小羊の立場にその身を置かれたのです。
「主は私たち皆の罪の負債をこの方の上に置かれました。
この方は虐げられ苦しめられましたが、口を開きませんでした。
ほふり場にひかれて行く小羊のように、
また、毛を切る者の前で黙っている羊のように、
口を開きませんでした」
(「イザヤ書」53章6~7節より)。
イエス様は巻物を御座にいます方の御手から受け取られました。
ちょうどその時、天国ではふたたび礼拝が始まりました。
天国にいる者たちは、小羊の御前にひれ伏し、歌い、この方を敬い賛美しました。
旧約聖書で神様は次のように命じられました、
「私は主、あなたの神です。(中略)
あなたには他の神々があってはなりません。(中略)
それらにひれ伏したり、仕えたりしてはなりません」
(「出エジプト記」20章2~5節)。
このように、
神様以外の何者に対してもひれ伏してはならないという戒めにもかかわらず、
天国にいる者たちはイエス様に対してひれ伏しました。
これは、イエス様が神様だからです。
聖書は、「三位一体」という術語は用いませんが、
神様の本質が御父と御子と御霊からなる三位一体であること
(「三位一体論」)を明瞭に意識していますし、そのように教えてもいます。
そして、この「ヨハネの黙示録」の箇所も神様の三位一体性をよく示しています。