終わりのメッセージ
人間の言葉としてではなく、神様の御言葉として
総督フェリクスの前に立ったとき、パウロはこう言いました。「私は閣下に告白します。私は、彼らが異端だとしている道にしたがって、律法にかなっていることと預言者の書に書かれていることをすべて信じつつ、父祖たちの神様に仕えています。」(使徒の働き24章14節)
こうは言えない説教者がたくさんいます。彼らの本音は次のとおりです。
「私は告白する。私は父祖の神に仕えているので、律法と預言者の書に書いてあることをすべて疑っている。天地創造の物語や罪の堕落は作り話にすぎないし、アブラハムやイサクやヤコブもたんに架空の人物にすぎない。」
多くの人にとって聖書はもはや神様の御言葉ではなくなっています。そのような説教が神様の御言葉の説教であると呼ばれたりするのは、聖なるものに対する冒瀆ではないか、と思えてきます。パウロは、聖書に書かれてあることにしたがって説教したとき、自分が神様の御言葉を説教していることを、ちゃんとしっていました。
人が自分の罪のために狼狽したりせず、神様の裁きをおそれもしないのは、いったい何故でしょうか。それは、神様の御言葉が神様の御言葉とはみなされず、御言葉の裁きが神様の裁きとはみなされていないからです。恵みによって救われた人々があまりにも少ないのは、どうしてでしょうか。それは、神様の御言葉が神様の御言葉とはみなされず、キリストをとおした神様との和解について語る説教者が、「キリストのかわりにこの福音を語るために遣わされている」とはみなされていないからです。
「私たちは活きておられる神様の御言葉を聴くことができる」と本当に確信するならば、人は深く動揺して、救いの道を探し求めていくようになるでしょう。「キリストが私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださったあがないのみわざにより私たちは罪から解放されている」ことを神様の御言葉として本当に信じることができるとき、人は深く喜び楽しみ、「自分は救われている」という確信を得ることでしょう。神様の御言葉として福音を聴いて、イエス様の血のなかで罪の赦しをいただけるなんて、私は本当に「生きていてよかった」と思います!
愛する天の父なる神様、私たちが、あなたの御言葉を御言葉として宣べ伝え、また、あなたの御言葉を御言葉として受け取ることができるように、助けてください!
K.V.タンミネン
フィンランド・ルーテル福音協会は1900年以来日本にルター派の宣教師を派遣し続けてきました。このブログでは、この宣教師団体の聖書や信仰生活に関する教えをフィンランド語から日本語に翻訳して紹介します。(夏は不定期更新になります)。
2009年6月25日木曜日
2009年6月5日金曜日
マルコによる福音書 第12回目の質問
第12回目の集まりのために
マルコによる福音書12章
イエス様はエルサレムで民を教えられます。
1)イザヤ書5章1~7節を読んでください。この物語で「ぶどう畑」は何を意味しているでしょうか。このぶどう畑をつくったのは誰でしょうか。「垣を取り去る」(5節)とはどういう意味ですか。
2)イエス様のたとえのなかにでてくる(12章1~12節)「ぶどう園の持ち主」、「ぶどう園を借りた者たち」、「ぶどう園の貸し賃を受け取りに来た召使い」、「ぶどう園の持ち主の息子」、はそれぞれ誰でしょう。
なぜ祭司長、律法学者、長老たちはイエス様の話を聞いて腹を立てたのでしょうか。
3)聖書全体からみるとき、このぶどう園のたとえはイスラエルの民について語っていることがわかります。イスラエルの民は「神様の民」という特別な地位を与えられたにもかかわらず、自分たちの「王様」を拒みました。この結果、イスラエルの民には、はかりしれないほどの苦しみがおそいかかりました。にもかかわらず、イスラエルの大半は今もなお自分たちの主をしらないままでいます。このたとえを日本人や日本の教会に当てはめてみてください。どういうことになりますか。主が最後の裁きに来られる時に、私たち日本人はユダヤ人たちよりもましな立場にあるといえるでしょうか。
4)なぜ「皇帝に税金を払うこと」についてイエス様に質問が飛んできたのでしょうか(12章13~17節)。
5)イエス様は「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と命じられています。現代のクリスチャンである私たちは、このイエス様の御言葉に具体的にはどのようにしたがっていくことができますか。
6)ファリサイ派の人々とはどのような人たちでしたか。
7)死者の復活への信仰をぬきにして、キリスト教がなりたつでしょうか。自分の意見とその根拠を述べてください。
8)旧約聖書に約束された「キリスト」は、「ダヴィデの子」ですか、それとも「ダヴィデの主」ですか。イエス様の質問(37節)への答えは何でしょうか。
9)イエス様は旧約聖書のある箇所について、「ダヴィデ自身が聖霊様に感触されて言いました(・・・)」(36節)と言われています。
聖書に対する私たちの態度を考えるとき、このことはどのような意味をもっていますか。
10)イエス様は律法学者たちのみせかけだけの偽善を厳しく裁かれます。信仰生活にかかわる霊的な偽善について十分に説教がなされているでしょうか。一般に「偽善」と呼ばれることはすべて偽善なのでしょうか。また、「真の善行」と呼ばれることはすべて真の善行なのでしょうか。
11)「お金持ち」と呼ばれるためには、人はどれほどの財産が必要なのでしょうか。一緒に考えてみてください。あなたがたは「お金持ち」ですか。
12)「これがなくては生きていくことができない」、と言えるような、あなたにとって必要不可欠なものを全部あげてみてください。
マルコによる福音書12章
イエス様はエルサレムで民を教えられます。
1)イザヤ書5章1~7節を読んでください。この物語で「ぶどう畑」は何を意味しているでしょうか。このぶどう畑をつくったのは誰でしょうか。「垣を取り去る」(5節)とはどういう意味ですか。
2)イエス様のたとえのなかにでてくる(12章1~12節)「ぶどう園の持ち主」、「ぶどう園を借りた者たち」、「ぶどう園の貸し賃を受け取りに来た召使い」、「ぶどう園の持ち主の息子」、はそれぞれ誰でしょう。
なぜ祭司長、律法学者、長老たちはイエス様の話を聞いて腹を立てたのでしょうか。
3)聖書全体からみるとき、このぶどう園のたとえはイスラエルの民について語っていることがわかります。イスラエルの民は「神様の民」という特別な地位を与えられたにもかかわらず、自分たちの「王様」を拒みました。この結果、イスラエルの民には、はかりしれないほどの苦しみがおそいかかりました。にもかかわらず、イスラエルの大半は今もなお自分たちの主をしらないままでいます。このたとえを日本人や日本の教会に当てはめてみてください。どういうことになりますか。主が最後の裁きに来られる時に、私たち日本人はユダヤ人たちよりもましな立場にあるといえるでしょうか。
4)なぜ「皇帝に税金を払うこと」についてイエス様に質問が飛んできたのでしょうか(12章13~17節)。
5)イエス様は「皇帝のものは皇帝に返しなさい」と命じられています。現代のクリスチャンである私たちは、このイエス様の御言葉に具体的にはどのようにしたがっていくことができますか。
6)ファリサイ派の人々とはどのような人たちでしたか。
7)死者の復活への信仰をぬきにして、キリスト教がなりたつでしょうか。自分の意見とその根拠を述べてください。
8)旧約聖書に約束された「キリスト」は、「ダヴィデの子」ですか、それとも「ダヴィデの主」ですか。イエス様の質問(37節)への答えは何でしょうか。
9)イエス様は旧約聖書のある箇所について、「ダヴィデ自身が聖霊様に感触されて言いました(・・・)」(36節)と言われています。
聖書に対する私たちの態度を考えるとき、このことはどのような意味をもっていますか。
10)イエス様は律法学者たちのみせかけだけの偽善を厳しく裁かれます。信仰生活にかかわる霊的な偽善について十分に説教がなされているでしょうか。一般に「偽善」と呼ばれることはすべて偽善なのでしょうか。また、「真の善行」と呼ばれることはすべて真の善行なのでしょうか。
11)「お金持ち」と呼ばれるためには、人はどれほどの財産が必要なのでしょうか。一緒に考えてみてください。あなたがたは「お金持ち」ですか。
12)「これがなくては生きていくことができない」、と言えるような、あなたにとって必要不可欠なものを全部あげてみてください。
2009年6月3日水曜日
マルコによる福音書について 12章41~44節
二枚のレプタ銅貨 12章41~44節
ユダヤ人たちは貧しい人たちに施しをすることを神様に喜ばれるよい行いであるとみなしていました。神殿にはこのための箱が置いてあり、そこに集まったお金は貧しい人たちに分けられました。過ぎ越しのお祝いのときに多くの金持ちたちは多額の寄付をしました。イエス様は寄付金の量などには惑わされません。イエス様は人の立場と本当の状態を見ておられます。人が生きるためにはほんのわずかなもので足りるのです。余分なお金はすべてほかの人たちにあげるべきだし、また、あげても自分が貧しくなったりはしないものです。ところが、そういうケースとは異なり、貧しいやもめは毎日の生活になくてはならないお金をもささげたのでした。そして、それこそが真に「ささげる」ということでした。
ユダヤ人たちは貧しい人たちに施しをすることを神様に喜ばれるよい行いであるとみなしていました。神殿にはこのための箱が置いてあり、そこに集まったお金は貧しい人たちに分けられました。過ぎ越しのお祝いのときに多くの金持ちたちは多額の寄付をしました。イエス様は寄付金の量などには惑わされません。イエス様は人の立場と本当の状態を見ておられます。人が生きるためにはほんのわずかなもので足りるのです。余分なお金はすべてほかの人たちにあげるべきだし、また、あげても自分が貧しくなったりはしないものです。ところが、そういうケースとは異なり、貧しいやもめは毎日の生活になくてはならないお金をもささげたのでした。そして、それこそが真に「ささげる」ということでした。
2009年6月1日月曜日
マルコによる福音書について 12章37(後半)~40節
蜂の巣をつつくような行為 12章37(後半)~40節
イエス様はエルサレムで「外交術」などは一切用いられませんでした。死者の復活に関する質問への答えによってサドカイ派を徹底的に恥じ入らせると、イエス様は今度はすぐさま律法学者たち(その主だった人たちはファリサイ派に属していました)に対して激しい批判を浴びせました。批判の対象となったのは、彼らの見てくれだけの「偽善」でした。立派な信仰者という外見や周囲の人からの賞賛によっては、人は神様の御前では「自由」とはされません。ほかの人よりも抜きんでて模範的な信仰者だとされる人の内側で、罪はもっとも醜いかたちをとるものです。民からの尊敬を受けていた律法学者たちは結局は貪欲な偽善者にすぎませんでした。神様は人間によってだまされるようなお方ではありません。それゆえ、偽善者はほかの人たちよりも厳しい裁きを受けることになります。
イエス様はエルサレムで「外交術」などは一切用いられませんでした。死者の復活に関する質問への答えによってサドカイ派を徹底的に恥じ入らせると、イエス様は今度はすぐさま律法学者たち(その主だった人たちはファリサイ派に属していました)に対して激しい批判を浴びせました。批判の対象となったのは、彼らの見てくれだけの「偽善」でした。立派な信仰者という外見や周囲の人からの賞賛によっては、人は神様の御前では「自由」とはされません。ほかの人よりも抜きんでて模範的な信仰者だとされる人の内側で、罪はもっとも醜いかたちをとるものです。民からの尊敬を受けていた律法学者たちは結局は貪欲な偽善者にすぎませんでした。神様は人間によってだまされるようなお方ではありません。それゆえ、偽善者はほかの人たちよりも厳しい裁きを受けることになります。
2009年5月29日金曜日
マルコによる福音書について 12章35~37節前半
キリストとは誰でしょうか? 12章35~37節前半
イエス様がキリストであるかどうか、確信できない神様の民が驚嘆したり困惑したりしているときに、イエス様は直接御自分からあらゆる問題の中でも当時もっとも注目を集めていた問題を取り上げました。それは、到来することが約束されていたキリスト(メシア)の本質にかかわる問題でした。旧約の約束によれば、キリストはダヴィデの子、すなわちダヴィデの子孫である支配者です。ところが一方では、ダヴィデ自身がキリストを主と呼んでいます(詩篇118篇1節)。つまり、キリストはダヴィデの子でもダヴィデの主でもあるわけです。これをどのように説明するべきでしょうか?約束されたキリストはたんにこの世における支配者ではありません。キリストは人以上の存在であり、それゆえ彼は、ダヴィデの子孫であると同時に、ダヴィデの主でもあるのです。この予言はイエス様において実現しました。イエス様は義理の父親ヨセフをとおしてダヴィデの系図につながっておられます。しかし、イエス様は神様の御子としてはダヴィデの主でもあられるのです。
イエス様がキリストであるかどうか、確信できない神様の民が驚嘆したり困惑したりしているときに、イエス様は直接御自分からあらゆる問題の中でも当時もっとも注目を集めていた問題を取り上げました。それは、到来することが約束されていたキリスト(メシア)の本質にかかわる問題でした。旧約の約束によれば、キリストはダヴィデの子、すなわちダヴィデの子孫である支配者です。ところが一方では、ダヴィデ自身がキリストを主と呼んでいます(詩篇118篇1節)。つまり、キリストはダヴィデの子でもダヴィデの主でもあるわけです。これをどのように説明するべきでしょうか?約束されたキリストはたんにこの世における支配者ではありません。キリストは人以上の存在であり、それゆえ彼は、ダヴィデの子孫であると同時に、ダヴィデの主でもあるのです。この予言はイエス様において実現しました。イエス様は義理の父親ヨセフをとおしてダヴィデの系図につながっておられます。しかし、イエス様は神様の御子としてはダヴィデの主でもあられるのです。
2009年5月27日水曜日
マルコによる福音書について 12章28~34節
一番大切な戒めは何ですか? 12章28~34節
イエス様はサドカイ派とファリサイ派の間の古くからある論争のテーマに答えることを余儀なくされました。さきほどの話し合いを傍らで聞いていた律法学者がイエス様の鋭い答えに感心したのはよくわかります。それで彼は、イエス様を陥れるためではなく真剣に、イエス様に別の質問をします。モーセの律法には何百もの戒めや禁止があると理解した律法学者たちは、それらをなんらかの方法で整理序列化したいと望んでいました。彼らは第1戒がもっとも大切な戒めであるとふつうは理解していましたし、イエス様もそう教えておられます。「神様を何にもまして愛しなさい」がまずはじめに守られるべき戒めです。これに関連して今もうひとつの第1戒と同じように大切な戒めとして、「隣人を自分と同じように愛しなさい」という戒めが与えられました。これらふたつの戒めを心に留めてそれにしたがって生きていくとき、旧約の神殿祭司による犠牲のささげものによっては決して到達し得ない「(信仰の)核心」に私たちはいるのです。律法学者がイエス様のこの教えに賛同すると、イエス様は彼に「あなたは神様の御国から遠くはない」と言われました。
イエス様はサドカイ派とファリサイ派の間の古くからある論争のテーマに答えることを余儀なくされました。さきほどの話し合いを傍らで聞いていた律法学者がイエス様の鋭い答えに感心したのはよくわかります。それで彼は、イエス様を陥れるためではなく真剣に、イエス様に別の質問をします。モーセの律法には何百もの戒めや禁止があると理解した律法学者たちは、それらをなんらかの方法で整理序列化したいと望んでいました。彼らは第1戒がもっとも大切な戒めであるとふつうは理解していましたし、イエス様もそう教えておられます。「神様を何にもまして愛しなさい」がまずはじめに守られるべき戒めです。これに関連して今もうひとつの第1戒と同じように大切な戒めとして、「隣人を自分と同じように愛しなさい」という戒めが与えられました。これらふたつの戒めを心に留めてそれにしたがって生きていくとき、旧約の神殿祭司による犠牲のささげものによっては決して到達し得ない「(信仰の)核心」に私たちはいるのです。律法学者がイエス様のこの教えに賛同すると、イエス様は彼に「あなたは神様の御国から遠くはない」と言われました。
2009年5月25日月曜日
マルコによる福音書について 12章18~27節
復活についての問答 12章18~27節
福音書の緊張感はどんどん高まってきています。あまり意味のない出来事については記されていません。つまり、私たちはそれぞれの出来事の記述を十分な注意を払って読み進む必要があるのです。このことは、サドカイ派の人々がイエス様に復活について質問した事件に特にあてはまります。サドカイ派の人々はこれまで福音書には登場しなかった「影の実力者」でした。このユダヤ人の党派は、神殿祭司階級の強固な支持を受けていました。大祭司は彼らの中から選出されましたし、サドカイ派の人々はユダヤ人の最高決議機関である大議会(サンへドリン)の過半数を占めていました。つまり、福音書のこの段階ではじめて「神様の民」の真の指導者たちがイエス様とやりあうことになったわけです。サドカイ派の教えとファリサイ派の教えとは、互いにはっきり異なっています。サドカイ派は神様の啓示として、いわゆる「トーラー」と呼ばれる、旧約聖書の最初の5冊の書物(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)のみを公に認めていました。彼らはこれらの書物から「死者の復活」について明確な根拠を見つけることができなかったため、それを信じることもありませんでした。彼らとは異なり、ファリサイ派の人々は神様の啓示として「預言書」をも認めていました。たとえばダニエル書の12章(1~3節)が死者の復活について語っているため、それを信じていました。このほかの多くの点でも、イエス様はサドカイ派よりもファリサイ派と共通した見解をもっておられました。イエス様がファリサイ派の人々とたくさん論争をなさったり、ファリサイ派の人々の家を訪れなさったりしたことは、イエス様とファリサイ派との間のある種の親近感のあらわれとさえ言えるかもしれません。サドカイ派はイエス様を処刑するように画策しましたが、そのほかの点ではイエス様とは何のかかわりもありませんでした。サドカイ派がイエス様に提示した質問は、些細なことに異様にこだわり、針で刺すような、わざとらしく嫌らしいものでした。特殊な状況に関するモーセの律法の規定(申命記25章5~6節)に基づくようにみえる、ありうる限り奇妙で非実際的なケースをひねりだすことによって、サドカイ派は「死者の復活」は原則的にありえないことを示さざるをえなくなりました。死者の復活についてのイエス様の教えは単純明瞭です。主は御自分のことを「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と呼んでおられます(出エジプト記3章6節)。主は死者たちの神様ではなく、生きている者たちの神様です。
福音書の緊張感はどんどん高まってきています。あまり意味のない出来事については記されていません。つまり、私たちはそれぞれの出来事の記述を十分な注意を払って読み進む必要があるのです。このことは、サドカイ派の人々がイエス様に復活について質問した事件に特にあてはまります。サドカイ派の人々はこれまで福音書には登場しなかった「影の実力者」でした。このユダヤ人の党派は、神殿祭司階級の強固な支持を受けていました。大祭司は彼らの中から選出されましたし、サドカイ派の人々はユダヤ人の最高決議機関である大議会(サンへドリン)の過半数を占めていました。つまり、福音書のこの段階ではじめて「神様の民」の真の指導者たちがイエス様とやりあうことになったわけです。サドカイ派の教えとファリサイ派の教えとは、互いにはっきり異なっています。サドカイ派は神様の啓示として、いわゆる「トーラー」と呼ばれる、旧約聖書の最初の5冊の書物(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)のみを公に認めていました。彼らはこれらの書物から「死者の復活」について明確な根拠を見つけることができなかったため、それを信じることもありませんでした。彼らとは異なり、ファリサイ派の人々は神様の啓示として「預言書」をも認めていました。たとえばダニエル書の12章(1~3節)が死者の復活について語っているため、それを信じていました。このほかの多くの点でも、イエス様はサドカイ派よりもファリサイ派と共通した見解をもっておられました。イエス様がファリサイ派の人々とたくさん論争をなさったり、ファリサイ派の人々の家を訪れなさったりしたことは、イエス様とファリサイ派との間のある種の親近感のあらわれとさえ言えるかもしれません。サドカイ派はイエス様を処刑するように画策しましたが、そのほかの点ではイエス様とは何のかかわりもありませんでした。サドカイ派がイエス様に提示した質問は、些細なことに異様にこだわり、針で刺すような、わざとらしく嫌らしいものでした。特殊な状況に関するモーセの律法の規定(申命記25章5~6節)に基づくようにみえる、ありうる限り奇妙で非実際的なケースをひねりだすことによって、サドカイ派は「死者の復活」は原則的にありえないことを示さざるをえなくなりました。死者の復活についてのイエス様の教えは単純明瞭です。主は御自分のことを「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と呼んでおられます(出エジプト記3章6節)。主は死者たちの神様ではなく、生きている者たちの神様です。
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