2009年6月25日木曜日

マルコによる福音書 第12回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ

人間の言葉としてではなく、神様の御言葉として

総督フェリクスの前に立ったとき、パウロはこう言いました。「私は閣下に告白します。私は、彼らが異端だとしている道にしたがって、律法にかなっていることと預言者の書に書かれていることをすべて信じつつ、父祖たちの神様に仕えています。」(使徒の働き24章14節)

こうは言えない説教者がたくさんいます。彼らの本音は次のとおりです。
「私は告白する。私は父祖の神に仕えているので、律法と預言者の書に書いてあることをすべて疑っている。天地創造の物語や罪の堕落は作り話にすぎないし、アブラハムやイサクやヤコブもたんに架空の人物にすぎない。」
多くの人にとって聖書はもはや神様の御言葉ではなくなっています。そのような説教が神様の御言葉の説教であると呼ばれたりするのは、聖なるものに対する冒瀆ではないか、と思えてきます。パウロは、聖書に書かれてあることにしたがって説教したとき、自分が神様の御言葉を説教していることを、ちゃんとしっていました。

人が自分の罪のために狼狽したりせず、神様の裁きをおそれもしないのは、いったい何故でしょうか。それは、神様の御言葉が神様の御言葉とはみなされず、御言葉の裁きが神様の裁きとはみなされていないからです。恵みによって救われた人々があまりにも少ないのは、どうしてでしょうか。それは、神様の御言葉が神様の御言葉とはみなされず、キリストをとおした神様との和解について語る説教者が、「キリストのかわりにこの福音を語るために遣わされている」とはみなされていないからです。

「私たちは活きておられる神様の御言葉を聴くことができる」と本当に確信するならば、人は深く動揺して、救いの道を探し求めていくようになるでしょう。「キリストが私たちの身代わりとなって十字架で死んでくださったあがないのみわざにより私たちは罪から解放されている」ことを神様の御言葉として本当に信じることができるとき、人は深く喜び楽しみ、「自分は救われている」という確信を得ることでしょう。神様の御言葉として福音を聴いて、イエス様の血のなかで罪の赦しをいただけるなんて、私は本当に「生きていてよかった」と思います!

愛する天の父なる神様、私たちが、あなたの御言葉を御言葉として宣べ伝え、また、あなたの御言葉を御言葉として受け取ることができるように、助けてください!

K.V.タンミネン