復活についての問答 12章18~27節
福音書の緊張感はどんどん高まってきています。あまり意味のない出来事については記されていません。つまり、私たちはそれぞれの出来事の記述を十分な注意を払って読み進む必要があるのです。このことは、サドカイ派の人々がイエス様に復活について質問した事件に特にあてはまります。サドカイ派の人々はこれまで福音書には登場しなかった「影の実力者」でした。このユダヤ人の党派は、神殿祭司階級の強固な支持を受けていました。大祭司は彼らの中から選出されましたし、サドカイ派の人々はユダヤ人の最高決議機関である大議会(サンへドリン)の過半数を占めていました。つまり、福音書のこの段階ではじめて「神様の民」の真の指導者たちがイエス様とやりあうことになったわけです。サドカイ派の教えとファリサイ派の教えとは、互いにはっきり異なっています。サドカイ派は神様の啓示として、いわゆる「トーラー」と呼ばれる、旧約聖書の最初の5冊の書物(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)のみを公に認めていました。彼らはこれらの書物から「死者の復活」について明確な根拠を見つけることができなかったため、それを信じることもありませんでした。彼らとは異なり、ファリサイ派の人々は神様の啓示として「預言書」をも認めていました。たとえばダニエル書の12章(1~3節)が死者の復活について語っているため、それを信じていました。このほかの多くの点でも、イエス様はサドカイ派よりもファリサイ派と共通した見解をもっておられました。イエス様がファリサイ派の人々とたくさん論争をなさったり、ファリサイ派の人々の家を訪れなさったりしたことは、イエス様とファリサイ派との間のある種の親近感のあらわれとさえ言えるかもしれません。サドカイ派はイエス様を処刑するように画策しましたが、そのほかの点ではイエス様とは何のかかわりもありませんでした。サドカイ派がイエス様に提示した質問は、些細なことに異様にこだわり、針で刺すような、わざとらしく嫌らしいものでした。特殊な状況に関するモーセの律法の規定(申命記25章5~6節)に基づくようにみえる、ありうる限り奇妙で非実際的なケースをひねりだすことによって、サドカイ派は「死者の復活」は原則的にありえないことを示さざるをえなくなりました。死者の復活についてのイエス様の教えは単純明瞭です。主は御自分のことを「アブラハム、イサク、ヤコブの神」と呼んでおられます(出エジプト記3章6節)。主は死者たちの神様ではなく、生きている者たちの神様です。