十字架と苦悩 8章34節~9章1節
ペテロはイエス様に自分の忠告を押し付けようとして失敗しました。イエス様は民衆を御許に集めて、皆に「十字架の道」について話されました。その話のポイントは、「私たちは神様の道に従って歩まなければならない」ということです。この道を歩む者は、この世の心地よい陽だまりから引き離されて、暗い谷へと導かれます。イエス様に従っている者たち自身も、十字架の道を歩み始め、イエス様と福音のために自分の命を失うことになります。このように自分の命を失うことによってのみ、人は自分の命を見出すことができるのです。もしもイエス様が最後の裁きの座でその人を「御自分のもの」として認めてくださらないならば、お金も、人間が手にいれることができるどんなものも、役には立ちません。キリストをこの世で恥じる者を、キリストは最後の裁きの座で恥とみなされます。イエス様がこの箇所の終わりで言われている御言葉(9章1節)は、これに続く箇所(栄光の山での出来事)に文脈的に属している、と後世の教会が判断してきたものです。この節は多くの人々を困惑させてきました。イエス様はここで、「私と共にいる者のうちの何人かは、神様の御国が大いなる力をもって出現するまでは、死ぬことがありません」と約束なさっているからです。この節についてはさまざまな説明がなされてきました。たとえば、「神様の御国は栄光の山でその力を現した」(9章2~10節)という説明があります。確かに栄光の山には何人かの弟子たちがイエス様と共にいました。「一日は主の御前では千年に等しく、また、千年は一日に等しい」(ペテロの第2の手紙3章8節)という御言葉に注目する人たちもいました。しかしこれらの説明では、「9章1節の御言葉はすみやかに実現するかのような印象を与えるものであるにもかかわらず、なぜイエス様はなかなかこの地上に戻ってきてはくださらないのだろうか」という疑問が残ります。「イエスの予想は間違っていた」と考える人たちも大勢います。しかし、使徒パウロはどう言っていますか?マルコによる福音書よりも前に書かれたローマの信徒への手紙9~11章では、おおむね次のように言われています。神様はキリストにおいて、まずはじめに御自分の所有の民であるイスラエルを招かれました。何人かの例外を除けばイスラエルは神様の御言葉に耳を貸さず、自分たちに用意されている救いを拒絶してしまいました。それゆえ、神様は福音が異邦人たちの間で受け入れられ広がっていくようになさったのです。つまり神様は計画を変更されたのです。全宇宙の主として神様はそうする権利をおもちです。救われるべき異邦人の数が神様の御国に満ちたとき、福音はユダヤ人たちにも受け入れられるようになります。このように神様は、異邦人をもユダヤ人をも皆一律に、心がかたくなになって罪の赦しの恵みを求めざるを得ないような状況に閉じ込めたのでした。「神様は、御自分の民をそのかたくなな心にゆえに裁くことはまだなさらず、逆に彼らを憐れむために、わざわざ迂回する道を選ばれたのだ」、とパウロは書いているわけです。私たちも「自分たちがまだこの同じ迂回の路上にいるのだ」と考えることができるでしょう。
フィンランド・ルーテル福音協会は1900年以来日本にルター派の宣教師を派遣し続けてきました。このブログでは、この宣教師団体の聖書や信仰生活に関する教えをフィンランド語から日本語に翻訳して紹介します。(夏は不定期更新になります)。
2009年2月9日月曜日
2009年2月4日水曜日
マルコによる福音書について 8章31~33節
苦しむキリスト? 8章31~33節
「イエス様がキリストです」という弟子たちの告白には、「イエス様がイスラエルの王、真のダヴィデの子となる」という信仰とあきらかに結びついていました。彼らは目に見えるような王国を待ち望んでいたのです。だから、イエス様が御自分の歩まれる受難の道について話し始められたのは、彼らにとって思いもよらぬことでした。イエス様は、どのようにして御自分が捨てられ、殺されるか、しかしまた、どのようにして死者たちの中からよみがえられるかについてお話しになりました。今イエス様はこれから起こることについて、いっさいを包み隠さずに話されました。ペテロにとってはこれは衝撃であり、彼の思いを傷つけるものでした。イエス様は弟子たちのグループのリーダーであるペテロの叱責を激しく拒絶されました。そして、サタンが今ペテロのペルソナ(人格)の中で、神様が王のために用意なさった「受難の道」をキリストが歩まないように誘惑しているのだと、看破されました。イエス様の受けられるべきものは、この世的な幸福ではなく、苦難だったのです。こうして、メシアの秘密のカーテンがこのように開かれてみても、誰もその意味を理解しなかったことがはっきりしました。
この箇所では二種類の「神学」が提示されています。そのうちのひとつは「栄光の神学」と呼ばれるものです。この神学は、神様の力、キリストの栄光、キリスト教信仰の合理性、クリスチャンたちの強さなどを強調します。もうひとつは「十字架の神学」と呼ばれるものです。この神学の核心は、「神様は御自身の力をこの世では隠される」という点にあります。それゆえ、神様の力があらわれるのは、傷つけられたキリストの中、人間的な理性に反しているように見えるキリスト教の信仰の中、また、クリスチャンたちの弱さの中なのです。この段階で、ペテロは栄光の神学しか理解できていません。しかし、イエス様はその歩みを受難と十字架の道へと向けられます。
「イエス様がキリストです」という弟子たちの告白には、「イエス様がイスラエルの王、真のダヴィデの子となる」という信仰とあきらかに結びついていました。彼らは目に見えるような王国を待ち望んでいたのです。だから、イエス様が御自分の歩まれる受難の道について話し始められたのは、彼らにとって思いもよらぬことでした。イエス様は、どのようにして御自分が捨てられ、殺されるか、しかしまた、どのようにして死者たちの中からよみがえられるかについてお話しになりました。今イエス様はこれから起こることについて、いっさいを包み隠さずに話されました。ペテロにとってはこれは衝撃であり、彼の思いを傷つけるものでした。イエス様は弟子たちのグループのリーダーであるペテロの叱責を激しく拒絶されました。そして、サタンが今ペテロのペルソナ(人格)の中で、神様が王のために用意なさった「受難の道」をキリストが歩まないように誘惑しているのだと、看破されました。イエス様の受けられるべきものは、この世的な幸福ではなく、苦難だったのです。こうして、メシアの秘密のカーテンがこのように開かれてみても、誰もその意味を理解しなかったことがはっきりしました。
この箇所では二種類の「神学」が提示されています。そのうちのひとつは「栄光の神学」と呼ばれるものです。この神学は、神様の力、キリストの栄光、キリスト教信仰の合理性、クリスチャンたちの強さなどを強調します。もうひとつは「十字架の神学」と呼ばれるものです。この神学の核心は、「神様は御自身の力をこの世では隠される」という点にあります。それゆえ、神様の力があらわれるのは、傷つけられたキリストの中、人間的な理性に反しているように見えるキリスト教の信仰の中、また、クリスチャンたちの弱さの中なのです。この段階で、ペテロは栄光の神学しか理解できていません。しかし、イエス様はその歩みを受難と十字架の道へと向けられます。
2009年2月2日月曜日
マルコによる福音書について 8章22~30節
目の見えない人の視力の回復 8章22~26節
不信仰で無理解な弟子たちとのやりとりの後で、イエス様は目の見えない男と話し合われます。この男の友人たちが助けをイエス様に求め、そして、イエス様はその人を癒されたのでした。目の見えない人についての出来事がこのタイミングで起きているのは、偶然ではないでしょう。ヨハネによる福音書9章もまた、「目の見えない者は見えるようになり、目の見える者は見えなくなる」ことを語っています(39節)。旧約聖書の大いなる予言が実現していくとき、神様が約束してくださった救いの時が来ているのです。
「あなたはキリストです!」 8章27~30節
フィリポ・カイザリヤの近郊で真実が明かされる時が来ました。イエス様はまず弟子たちに、「人々は私が誰であると言っていますか」とお尋ねになりました。洗礼者ヨハネ、エリヤ、あるいは預言者のひとり、などと答えはまちまちでした。引き続きイエス様は弟子たちにはっきりと「あなたがたは私が誰であると言いますか」と質問されました。弟子たちはどう答えたでしょうか?「イエス様はキリスト、神様の約束された王です」とペテロはためらわず素直に告白しました。こうして、イエス様をキリストと告白する光が世に一瞬輝きました。しかし、その後ふたたび「秘密のカーテン」が神様のお定めになった暗闇の時までこの告白の光を覆い隠すことになります。ともあれ、この段階で弟子たちはイエス様が「どなた」であるかしったのでした。
不信仰で無理解な弟子たちとのやりとりの後で、イエス様は目の見えない男と話し合われます。この男の友人たちが助けをイエス様に求め、そして、イエス様はその人を癒されたのでした。目の見えない人についての出来事がこのタイミングで起きているのは、偶然ではないでしょう。ヨハネによる福音書9章もまた、「目の見えない者は見えるようになり、目の見える者は見えなくなる」ことを語っています(39節)。旧約聖書の大いなる予言が実現していくとき、神様が約束してくださった救いの時が来ているのです。
「あなたはキリストです!」 8章27~30節
フィリポ・カイザリヤの近郊で真実が明かされる時が来ました。イエス様はまず弟子たちに、「人々は私が誰であると言っていますか」とお尋ねになりました。洗礼者ヨハネ、エリヤ、あるいは預言者のひとり、などと答えはまちまちでした。引き続きイエス様は弟子たちにはっきりと「あなたがたは私が誰であると言いますか」と質問されました。弟子たちはどう答えたでしょうか?「イエス様はキリスト、神様の約束された王です」とペテロはためらわず素直に告白しました。こうして、イエス様をキリストと告白する光が世に一瞬輝きました。しかし、その後ふたたび「秘密のカーテン」が神様のお定めになった暗闇の時までこの告白の光を覆い隠すことになります。ともあれ、この段階で弟子たちはイエス様が「どなた」であるかしったのでした。
2009年1月30日金曜日
マルコによる福音書について 8章11~21節
しるしなしで 8章11~13節
ファリサイ人たちはイエス様からしるしを要求しました。ここで問題になっているのは、奇跡が惹起したたんなる好奇心ではなく、イエス様の権威を確証するために必要不可欠な「しるしのみわざ」のことです。このようにはっきりと(神様からの)権威を証明するしるしの例として、カルメル山におけるエリヤを挙げることができます(列王記上18章)。預言者イザヤは同じようなしるしをアハズ王に示しますが、この王は自ら選んだ背信の道を歩み続けました(イザヤ書7章11~12節)。イエス様はこれまでもしるしのみわざを行われてきました。しかし、しるしを求める者たちの前ではまだでした。イエス様は見世物になるのを拒まれ、ファリサイ人たちの不信仰に驚かれつつ、彼らから退かれました。
メシアの秘密 8章14~21節
ここでマルコによる福音書は日常の些細な出来事について語っています。ところが、イエス様の一言でこの出来事は思いがけないほど広範な意味を持つようになりました。舟の中で弟子たちは、一緒にいる13人(イエス様と12人の使徒たち)のために一個のパンしかないことに気が付きました。どうしたものかと話し合っていると、イエス様は弟子たちにファリサイ人たちやヘロデのパン種に気をつけるように忠告なさいました。弟子たちはイエス様のこの御言葉を相変わらずふつうの意味でのパンのことに結び付けて考えましたが、それはまったくの誤解でした。「パン種」[1]という言葉でイエス様が意味しておられたのは、「教え」のことだったのです。教えは料理全体の味を決めてしまう微量の調味料のようなものです。もしもパン種がパンに入らないようにしたいのなら、イスラエルの民がモーセの律法に従って過ぎ越しの祭りの時にはいつでもそうしてきたように、パンの生地を入れる器を丁寧に洗ってきれいにし、パン種はごく微量たりとも生地に混ぜないように細心の注意を払わなければなりません。つまり今ここでイエス様は、弟子たちがファリサイ人たちやヘロデの教えから完全に離れ去るように忠告なさっているのです。「ヘロデの教え」というのは、あるグループ内にあった「ヘロデこそが旧約聖書に約束されているキリストである」という考え方をさしていると思われます。この箇所の文脈では、この箇所の出来事の一番大事な意味は、「弟子たちがイエス様の話されていることをまったく理解しなかった」ということでしょう。何千人もの人々に食べ物を分け与えた奇跡が繰り返されたにもかかわらず、依然として弟子たちは手持ちのパンがあまりにもわずかしかないことを心配していました。イエス様の話されたことを彼らは理解していなかったのです。「あなたがたはまだわからないのですか?」というイエス様の御言葉は、たとえの意味がわからないというだけでなく、なによりもまずイエス様の権威についての無理解をさしています。弟子たちは「彼らの只中にいるのがどなたであるか」について告白する用意がいまだにできてはいなかったのです。
[1] 「パン種」については、マタイによる福音書13章33節も参照してください。
ファリサイ人たちはイエス様からしるしを要求しました。ここで問題になっているのは、奇跡が惹起したたんなる好奇心ではなく、イエス様の権威を確証するために必要不可欠な「しるしのみわざ」のことです。このようにはっきりと(神様からの)権威を証明するしるしの例として、カルメル山におけるエリヤを挙げることができます(列王記上18章)。預言者イザヤは同じようなしるしをアハズ王に示しますが、この王は自ら選んだ背信の道を歩み続けました(イザヤ書7章11~12節)。イエス様はこれまでもしるしのみわざを行われてきました。しかし、しるしを求める者たちの前ではまだでした。イエス様は見世物になるのを拒まれ、ファリサイ人たちの不信仰に驚かれつつ、彼らから退かれました。
メシアの秘密 8章14~21節
ここでマルコによる福音書は日常の些細な出来事について語っています。ところが、イエス様の一言でこの出来事は思いがけないほど広範な意味を持つようになりました。舟の中で弟子たちは、一緒にいる13人(イエス様と12人の使徒たち)のために一個のパンしかないことに気が付きました。どうしたものかと話し合っていると、イエス様は弟子たちにファリサイ人たちやヘロデのパン種に気をつけるように忠告なさいました。弟子たちはイエス様のこの御言葉を相変わらずふつうの意味でのパンのことに結び付けて考えましたが、それはまったくの誤解でした。「パン種」[1]という言葉でイエス様が意味しておられたのは、「教え」のことだったのです。教えは料理全体の味を決めてしまう微量の調味料のようなものです。もしもパン種がパンに入らないようにしたいのなら、イスラエルの民がモーセの律法に従って過ぎ越しの祭りの時にはいつでもそうしてきたように、パンの生地を入れる器を丁寧に洗ってきれいにし、パン種はごく微量たりとも生地に混ぜないように細心の注意を払わなければなりません。つまり今ここでイエス様は、弟子たちがファリサイ人たちやヘロデの教えから完全に離れ去るように忠告なさっているのです。「ヘロデの教え」というのは、あるグループ内にあった「ヘロデこそが旧約聖書に約束されているキリストである」という考え方をさしていると思われます。この箇所の文脈では、この箇所の出来事の一番大事な意味は、「弟子たちがイエス様の話されていることをまったく理解しなかった」ということでしょう。何千人もの人々に食べ物を分け与えた奇跡が繰り返されたにもかかわらず、依然として弟子たちは手持ちのパンがあまりにもわずかしかないことを心配していました。イエス様の話されたことを彼らは理解していなかったのです。「あなたがたはまだわからないのですか?」というイエス様の御言葉は、たとえの意味がわからないというだけでなく、なによりもまずイエス様の権威についての無理解をさしています。弟子たちは「彼らの只中にいるのがどなたであるか」について告白する用意がいまだにできてはいなかったのです。
[1] 「パン種」については、マタイによる福音書13章33節も参照してください。
2009年1月26日月曜日
マルコによる福音書について 8章1~10節
「あなたはキリストです!」
マルコによる福音書8章1節~9章1節
マルコによる福音書が全体として明確に二部に区分されることについては、すでに序で触れました。今回取り扱う8章において、福音書は第一部から第二部へと移ります。この章ではペテロがまずイエス様をキリストと告白します。そしてその後で主は、これから十字架と苦しみの道へと出発することを告げられます。これはマルコによる福音書の中で最も大切な箇所のひとつです。
群集に食べ物を与える二度目の奇跡 8章1~10節
マルコによる福音書6章は5千人の男に食べ物を与える奇跡について語っています。8章でも福音書は、前回とほぼ同様の奇跡について語っています。つまり旧約聖書が記している「食べ物を与える奇跡」がイエス様の活動の中で再度繰り返されたのでした。この出来事のすぐ後には3つの出来事が続き、それから福音書は第一部から第二部に移動します。この奇跡が福音書でこの位置にあることは、この奇跡にある種の意味をもたせています。すなわち、イエス様は大いなる奇跡を行われたにもかかわらず、神の民の指導者たちはイエス様を認めず、イエス様の弟子たちもイエス様のことを理解しなかった、ということです。
マルコによる福音書8章1節~9章1節
マルコによる福音書が全体として明確に二部に区分されることについては、すでに序で触れました。今回取り扱う8章において、福音書は第一部から第二部へと移ります。この章ではペテロがまずイエス様をキリストと告白します。そしてその後で主は、これから十字架と苦しみの道へと出発することを告げられます。これはマルコによる福音書の中で最も大切な箇所のひとつです。
群集に食べ物を与える二度目の奇跡 8章1~10節
マルコによる福音書6章は5千人の男に食べ物を与える奇跡について語っています。8章でも福音書は、前回とほぼ同様の奇跡について語っています。つまり旧約聖書が記している「食べ物を与える奇跡」がイエス様の活動の中で再度繰り返されたのでした。この出来事のすぐ後には3つの出来事が続き、それから福音書は第一部から第二部に移動します。この奇跡が福音書でこの位置にあることは、この奇跡にある種の意味をもたせています。すなわち、イエス様は大いなる奇跡を行われたにもかかわらず、神の民の指導者たちはイエス様を認めず、イエス様の弟子たちもイエス様のことを理解しなかった、ということです。
2009年1月21日水曜日
マルコによる福音書 第7回目の終わりのメッセージ
終わりのメッセージ
信じる者には、すべてが可能です。(マルコによる福音書9章23節)
信仰によって私は、私のものではない「宝物」を自分のものとします。いいかえれば、私はその宝物が見えないし、ふつうに考えれば所有もしていません。しかしながら、信仰には、みることもしることもできないような、信仰ならではの利益があります。信仰は宝物を、あたかもそれが手の中にあるかのように用いることができます。信仰のもつ唯一の慰めは、「神様は決してうそをつかない」という確信だけです。どんな状況であってもこの確信を与えるのは、信仰にほかなりません。
たとえば、死が目前にあらわれて、私が死ななければならないとき、この世から離れていかなければならないとき、これからどこに私は足を踏み入れようとしているのかわからないとき、不信仰はおびえきって、「どこに私は落ちていくのか、目的地について誰か何かをしっているのか」という疑いにとらわれます。このように、不信仰はいつでも「みてしりたい」ものなので、もしもそれができないとなると、絶望してしまいます。ところが、信仰はこう考えます。「どこにいくのか私はしらない。この世から私は離れていくほかない。何もみえないし、何もしらないけれど、「あなたのあらゆる心配事を主の上に投げ出しなさい」(ペテロの第1の手紙5章7節)と言ってくださったお方に自分をゆだねようと思う。こう信頼しつつ、この世から私は離れていく。「神様はうそをおつきにはならない」と、私はしっているからだ。」
このように、信仰には命があります。信仰にある命はみえないし、それとは正反対のものにみえてしまうことさえあるにもかかわらず、そうなのです。このことについて、どこから確証を得るのでしょうか。それは次の主の御言葉からです。「彼らを私の手から奪い去る者はいません。」(ヨハネによる福音書10章28節)
マルティン・ルター (「神様の子供たちにあたえるマナ」)
信じる者には、すべてが可能です。(マルコによる福音書9章23節)
信仰によって私は、私のものではない「宝物」を自分のものとします。いいかえれば、私はその宝物が見えないし、ふつうに考えれば所有もしていません。しかしながら、信仰には、みることもしることもできないような、信仰ならではの利益があります。信仰は宝物を、あたかもそれが手の中にあるかのように用いることができます。信仰のもつ唯一の慰めは、「神様は決してうそをつかない」という確信だけです。どんな状況であってもこの確信を与えるのは、信仰にほかなりません。
たとえば、死が目前にあらわれて、私が死ななければならないとき、この世から離れていかなければならないとき、これからどこに私は足を踏み入れようとしているのかわからないとき、不信仰はおびえきって、「どこに私は落ちていくのか、目的地について誰か何かをしっているのか」という疑いにとらわれます。このように、不信仰はいつでも「みてしりたい」ものなので、もしもそれができないとなると、絶望してしまいます。ところが、信仰はこう考えます。「どこにいくのか私はしらない。この世から私は離れていくほかない。何もみえないし、何もしらないけれど、「あなたのあらゆる心配事を主の上に投げ出しなさい」(ペテロの第1の手紙5章7節)と言ってくださったお方に自分をゆだねようと思う。こう信頼しつつ、この世から私は離れていく。「神様はうそをおつきにはならない」と、私はしっているからだ。」
このように、信仰には命があります。信仰にある命はみえないし、それとは正反対のものにみえてしまうことさえあるにもかかわらず、そうなのです。このことについて、どこから確証を得るのでしょうか。それは次の主の御言葉からです。「彼らを私の手から奪い去る者はいません。」(ヨハネによる福音書10章28節)
マルティン・ルター (「神様の子供たちにあたえるマナ」)
2009年1月19日月曜日
マルコによる福音書について 第7回目の質問
第7回目の集まりのために
マルコによる福音書7章
イエス様は律法学者たちの抱いている「聖なる生活への憧れ」を打ち砕かれます。そして、さらに新しい奇跡が起こります。
1)ファリサイ人たちや律法学者たちの宗教的な特徴はどのようなものでしたか。彼らのことを私たちは不適切なほど厳しく批判することに慣れてしまっているのではないでしょうか。彼らと私たちクリスチャンとの考え方は、どの点で相違し、またどの点で共通しているでしょうか。
2)7章1~13節で問題になっているのは、どのような「洗い」についてですか。
3)ファリサイ人たちと律法学者たちとは神様の御言葉を非常に厳格に実行しようとして、律法に基づき詳細な生活規定を設け、「こう行うのは神様の御心に従うことだ」と考えていました。しかしイエス様は、こうしたことはすべて偽善に過ぎないことをあきらかになさいました。
私たちが神様の御言葉に厳密に従おうとするときに、逆にそれによって御言葉の真の意味を理解できなくなってしまうような場合がありますか。そのような場合には、どのような「薬」がよく効くでしょうか。
4)7章14~23節で、イエス様は「食べ物はすべて清い」と宣言されました。これと同じ教えは、たとえばローマの信徒への手紙14章14~15節や、テモテへの第1の手紙4章4~5節に記されています。こういうわけで、モーセの律法が定めている、たとえば「豚の肉を食べない」などという食べ物に関する限定事項は、クリスチャンには関係がありません。そうした規定はユダヤ人たちに対してのみ与えられています。
あなたは、この点で今述べたこととは違う考え方をする宗教的なグループを知っていますか。また、使徒の働き14章14~15節に関わる規定に関してはどうでしょうか。
5)ユダヤ人たちは異邦人たちに対してどのような態度で接していましたか。イエス様はいつ異邦人たちにお会いになりましたか。
6)フェニキア生れの女は神様から何もいただけなかったにもかかわらず、主の御許を立ち去ろうとはしませんでした。彼女はイエス様にすがりつづけ、ついには望んでいたものをいただきました。
この女の粘り強い信仰は私たちに何を教えているでしょうか。あなたは何かのために何年間も神様へと叫びつづけてきたことがあるでしょうか。
マルコによる福音書7章
イエス様は律法学者たちの抱いている「聖なる生活への憧れ」を打ち砕かれます。そして、さらに新しい奇跡が起こります。
1)ファリサイ人たちや律法学者たちの宗教的な特徴はどのようなものでしたか。彼らのことを私たちは不適切なほど厳しく批判することに慣れてしまっているのではないでしょうか。彼らと私たちクリスチャンとの考え方は、どの点で相違し、またどの点で共通しているでしょうか。
2)7章1~13節で問題になっているのは、どのような「洗い」についてですか。
3)ファリサイ人たちと律法学者たちとは神様の御言葉を非常に厳格に実行しようとして、律法に基づき詳細な生活規定を設け、「こう行うのは神様の御心に従うことだ」と考えていました。しかしイエス様は、こうしたことはすべて偽善に過ぎないことをあきらかになさいました。
私たちが神様の御言葉に厳密に従おうとするときに、逆にそれによって御言葉の真の意味を理解できなくなってしまうような場合がありますか。そのような場合には、どのような「薬」がよく効くでしょうか。
4)7章14~23節で、イエス様は「食べ物はすべて清い」と宣言されました。これと同じ教えは、たとえばローマの信徒への手紙14章14~15節や、テモテへの第1の手紙4章4~5節に記されています。こういうわけで、モーセの律法が定めている、たとえば「豚の肉を食べない」などという食べ物に関する限定事項は、クリスチャンには関係がありません。そうした規定はユダヤ人たちに対してのみ与えられています。
あなたは、この点で今述べたこととは違う考え方をする宗教的なグループを知っていますか。また、使徒の働き14章14~15節に関わる規定に関してはどうでしょうか。
5)ユダヤ人たちは異邦人たちに対してどのような態度で接していましたか。イエス様はいつ異邦人たちにお会いになりましたか。
6)フェニキア生れの女は神様から何もいただけなかったにもかかわらず、主の御許を立ち去ろうとはしませんでした。彼女はイエス様にすがりつづけ、ついには望んでいたものをいただきました。
この女の粘り強い信仰は私たちに何を教えているでしょうか。あなたは何かのために何年間も神様へと叫びつづけてきたことがあるでしょうか。
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