2009年1月30日金曜日

マルコによる福音書について 8章11~21節

しるしなしで 8章11~13節

ファリサイ人たちはイエス様からしるしを要求しました。ここで問題になっているのは、奇跡が惹起したたんなる好奇心ではなく、イエス様の権威を確証するために必要不可欠な「しるしのみわざ」のことです。このようにはっきりと(神様からの)権威を証明するしるしの例として、カルメル山におけるエリヤを挙げることができます(列王記上18章)。預言者イザヤは同じようなしるしをアハズ王に示しますが、この王は自ら選んだ背信の道を歩み続けました(イザヤ書7章11~12節)。イエス様はこれまでもしるしのみわざを行われてきました。しかし、しるしを求める者たちの前ではまだでした。イエス様は見世物になるのを拒まれ、ファリサイ人たちの不信仰に驚かれつつ、彼らから退かれました。


メシアの秘密 8章14~21節

ここでマルコによる福音書は日常の些細な出来事について語っています。ところが、イエス様の一言でこの出来事は思いがけないほど広範な意味を持つようになりました。舟の中で弟子たちは、一緒にいる13人(イエス様と12人の使徒たち)のために一個のパンしかないことに気が付きました。どうしたものかと話し合っていると、イエス様は弟子たちにファリサイ人たちやヘロデのパン種に気をつけるように忠告なさいました。弟子たちはイエス様のこの御言葉を相変わらずふつうの意味でのパンのことに結び付けて考えましたが、それはまったくの誤解でした。「パン種」[1]という言葉でイエス様が意味しておられたのは、「教え」のことだったのです。教えは料理全体の味を決めてしまう微量の調味料のようなものです。もしもパン種がパンに入らないようにしたいのなら、イスラエルの民がモーセの律法に従って過ぎ越しの祭りの時にはいつでもそうしてきたように、パンの生地を入れる器を丁寧に洗ってきれいにし、パン種はごく微量たりとも生地に混ぜないように細心の注意を払わなければなりません。つまり今ここでイエス様は、弟子たちがファリサイ人たちやヘロデの教えから完全に離れ去るように忠告なさっているのです。「ヘロデの教え」というのは、あるグループ内にあった「ヘロデこそが旧約聖書に約束されているキリストである」という考え方をさしていると思われます。この箇所の文脈では、この箇所の出来事の一番大事な意味は、「弟子たちがイエス様の話されていることをまったく理解しなかった」ということでしょう。何千人もの人々に食べ物を分け与えた奇跡が繰り返されたにもかかわらず、依然として弟子たちは手持ちのパンがあまりにもわずかしかないことを心配していました。イエス様の話されたことを彼らは理解していなかったのです。「あなたがたはまだわからないのですか?」というイエス様の御言葉は、たとえの意味がわからないというだけでなく、なによりもまずイエス様の権威についての無理解をさしています。弟子たちは「彼らの只中にいるのがどなたであるか」について告白する用意がいまだにできてはいなかったのです。
[1] 「パン種」については、マタイによる福音書13章33節も参照してください。