苦しむキリスト? 8章31~33節
「イエス様がキリストです」という弟子たちの告白には、「イエス様がイスラエルの王、真のダヴィデの子となる」という信仰とあきらかに結びついていました。彼らは目に見えるような王国を待ち望んでいたのです。だから、イエス様が御自分の歩まれる受難の道について話し始められたのは、彼らにとって思いもよらぬことでした。イエス様は、どのようにして御自分が捨てられ、殺されるか、しかしまた、どのようにして死者たちの中からよみがえられるかについてお話しになりました。今イエス様はこれから起こることについて、いっさいを包み隠さずに話されました。ペテロにとってはこれは衝撃であり、彼の思いを傷つけるものでした。イエス様は弟子たちのグループのリーダーであるペテロの叱責を激しく拒絶されました。そして、サタンが今ペテロのペルソナ(人格)の中で、神様が王のために用意なさった「受難の道」をキリストが歩まないように誘惑しているのだと、看破されました。イエス様の受けられるべきものは、この世的な幸福ではなく、苦難だったのです。こうして、メシアの秘密のカーテンがこのように開かれてみても、誰もその意味を理解しなかったことがはっきりしました。
この箇所では二種類の「神学」が提示されています。そのうちのひとつは「栄光の神学」と呼ばれるものです。この神学は、神様の力、キリストの栄光、キリスト教信仰の合理性、クリスチャンたちの強さなどを強調します。もうひとつは「十字架の神学」と呼ばれるものです。この神学の核心は、「神様は御自身の力をこの世では隠される」という点にあります。それゆえ、神様の力があらわれるのは、傷つけられたキリストの中、人間的な理性に反しているように見えるキリスト教の信仰の中、また、クリスチャンたちの弱さの中なのです。この段階で、ペテロは栄光の神学しか理解できていません。しかし、イエス様はその歩みを受難と十字架の道へと向けられます。