終わりのメッセージ
信じる者には、すべてが可能です。(マルコによる福音書9章23節)
信仰によって私は、私のものではない「宝物」を自分のものとします。いいかえれば、私はその宝物が見えないし、ふつうに考えれば所有もしていません。しかしながら、信仰には、みることもしることもできないような、信仰ならではの利益があります。信仰は宝物を、あたかもそれが手の中にあるかのように用いることができます。信仰のもつ唯一の慰めは、「神様は決してうそをつかない」という確信だけです。どんな状況であってもこの確信を与えるのは、信仰にほかなりません。
たとえば、死が目前にあらわれて、私が死ななければならないとき、この世から離れていかなければならないとき、これからどこに私は足を踏み入れようとしているのかわからないとき、不信仰はおびえきって、「どこに私は落ちていくのか、目的地について誰か何かをしっているのか」という疑いにとらわれます。このように、不信仰はいつでも「みてしりたい」ものなので、もしもそれができないとなると、絶望してしまいます。ところが、信仰はこう考えます。「どこにいくのか私はしらない。この世から私は離れていくほかない。何もみえないし、何もしらないけれど、「あなたのあらゆる心配事を主の上に投げ出しなさい」(ペテロの第1の手紙5章7節)と言ってくださったお方に自分をゆだねようと思う。こう信頼しつつ、この世から私は離れていく。「神様はうそをおつきにはならない」と、私はしっているからだ。」
このように、信仰には命があります。信仰にある命はみえないし、それとは正反対のものにみえてしまうことさえあるにもかかわらず、そうなのです。このことについて、どこから確証を得るのでしょうか。それは次の主の御言葉からです。「彼らを私の手から奪い去る者はいません。」(ヨハネによる福音書10章28節)
マルティン・ルター (「神様の子供たちにあたえるマナ」)