今回は受難週の意味を考えましょう。その核心はもちろん十字架です。
エルッキ・コスケンニエミ (日本語版翻訳編集 高木賢)
イエス様の十字架刑には周到な精神的かつ肉体的虐待が用意されていました。茨の冠はイエス様の頭を血だらけに引き裂いていました。退屈な一日を紛らすためにローマの軍隊たちは、本来人を打ちたたいて懲らしめるために用いられる棒を「王笏」としてもたせ、赤い道化の王様のマントを身にまとわせて、イエス様を「ユダヤ人の王」に仕立て上げてからかいました。こうして彼らはまた普段から侮蔑してきたユダヤ人たちに嫌がらせをしたのでした。このことはピラトが書かせたイエス様の死刑の理由(「ユダヤ人の王」)からも伺えます。当然のことながら王様は真ん中の十字架に付けられ、王の臣下たち[1]はその両脇にはりつけになりました。
真昼になってのどの渇きに苦しんでいる人に「飲み物」として差し出されたのはすっかりすっぱくなったぶどう酒でした。イエス様は異常なほど厳しく鞭打たれていました。おそらくまさにそのせいですでにたくさんの血を失っていたイエス様は精神的な苦しみとあいまって十字架上で力を失い、驚くほど早く死なれたのでした。(死期を早めるために)イエス様の脛骨を打ち砕く必要はありませんでした。というのは、死んで不自然に捻じ曲がったイエス様の身体は専門家だけではなく普通の人が見てもイエス様がすでに死んでいたことを告げていたからです。何の気なしに兵士がイエス様のわき腹を槍でつついたときに、そこから水と血が流れ出ました。現代の医学によると、死んだばかりの人のわき腹からは水と血が湧き出ることがありうるそうです。ローマの処刑者たちは「イエスは死んだのではなく実は気を失っていただけだ」と主張する者たち(そういう人たちがいるのです)に対してまともに取り合ったりはしないことでしょう。彼らは十字架上で死んだひとりの男を目にしました。この人の死の中に高貴さとか美しさとか素晴らしさなどを見出した者は誰もいませんでした。「ユダヤ人の王」として通報された者が苦しみの最期を遂げたのです。
十字架の血の福音
イエス様が復活された後、人々を罪ののろいから救い出す福音はあらゆるところへと伝えられていきました。多くの者は「十字架で殺された神様の御子」についての話を愚かしく思いました。十字架刑を一度でも見たことがある者なら誰でもそれがどのようなものであるか知っていました。十字架に付けられたキリストについての話はそれについて聞いていた人たちを躓かせました(コリントの信徒への第1の手紙1章23節)。すでに初期のクリスチャンたちの中にもイエス様には本来似つかわしくないようなひどい死に方について沈黙しようとする人たちがいました。「イエスが苦しんだのは外見だけで、実は肉体は苦しまずにすんだのだ」などと言い出す者たちもいました。
こうした考え方とは反対に、イエス様の弟子たちはまさにイエス様の十字架の死の中に信仰の核心を見ました。イエス様は神様の愛の御意志に対して最後まで忠実であられました。イエス様は十字架上で神様に見捨てられのろわれたものとなりました(ガラテアの信徒への手紙3章13節)。イエス様は侮られさげすまれるために「あげられました」(ヨハネによる福音書3章14~15節)。まさにこのようにしてイエス様は御自分の上に私たちの罪の懲罰を身代わりにお受けになったのです。私たちはイエス様と「もちもの」を交換することが許されました。すなわち、イエス様は私たちが報酬として受けるのが当然である神様の怒りをかわりに担ってくださいました。私たちはイエス様が報酬として受けるはずの神様の愛をかわりにいただきました(コリントの信徒への第2の手紙5章21節)。
[1] イエス様と共に十字架につけられた二人の強盗たちをさしています。
フィンランド・ルーテル福音協会は1900年以来日本にルター派の宣教師を派遣し続けてきました。このブログでは、この宣教師団体の聖書や信仰生活に関する教えをフィンランド語から日本語に翻訳して紹介します。(夏は不定期更新になります)。
2008年3月14日金曜日
天国の広場で
今回のテーマは「罪人はどうすれば救われるか」です。
それと関係してこの世の終わりに訪れる「最後の裁き」について学びましょう。
天国の広場で
エルッキ・コスケンニエミ (日本語版編集 高木賢)
1.問題の所在
「広場」とはラテン語でforumといい、「裁きの座」を意味しています。言い換えればこの表題は「大いなる裁きの座」をあらわしています。このテキストで私たちは「神様が人々の前で裁きを行われること」について語っている聖書の箇所を調べることにしましょう。
2.さっさと私を裁きなさい!
多くの人は神様の裁きを避けようとしています。しかし、少なくとも聖書の中の登場人物の一人は自分自身に関して神様の裁きがなされることを祈り求めています。ヨブは神様が裁きの座に出てくるように要求しました(とりわけヨブ記23章1~12節)。もしも公平な裁判ならば、ヨブは神様が彼に対して行ったわざに関して神様を有罪とし、「ヨブが正しく、神様が間違っている」ということがあきらかにされたことでしょう。ヨブの友人たちは本当のことや正しいことを話しているし、ヨブと共に部分的には調子をそろえています。しかし、ヨブの友人たちはヨブの考え方や態度を変えさせることはできませんでした。最後にようやく主がヨブにあらわれて、ヨブは「よりよい神学」を学びました。つまり、ヨブは神様の裁きの座の前で黙ることを学んだのです。しかし、神様の御言葉がこれと同じ奇跡を今でも私たちの只中で行えるように私たちは御言葉を学んでいるでしょうか。
3.旧約聖書から
ゼカリヤ書3章1~7節は、神様の民が自分たちの罪に対して裁きと懲罰を受けた時期について語っています。エルサレムは破壊され、神殿はもはやなく、民は捕囚となりました。神様が御自分の民を彼らに与えた土地に連れ戻されたとき、主は預言者ゼカリヤが大祭司ヨシュアが神様の御前で民全体の代表として立っているのを「見る」機会をお与えになりました。裁きの座でヨシュアは憐れみを受けて釈放されました。なぜなら、この男は「火の中から取り出された燃えさし」(ゼカリヤ書3章2節)だったからです。こうしてヨシュアは憐れみを受けた者として生きていくことを許されました。「天国の広場」での裁決は悪魔を沈黙させました。
詩篇143篇は「人が自分の罪を悔いる」というテーマを扱っています。敵のゆえに命が危うくなっているダヴィデが地面に伏して全能の主の助けを求めて叫びます。それと同時にダヴィデは自分の罪のせいで助けをいただけないのではないかと恐れます、「主よ、あなたの僕を裁きの座に引き出さないでください。あなたの御前では誰ひとりとして義とされないからです」(2節)。天国の広場では罪人に対して罪の重荷から解放する裁定が待っています。あるいは、「天国の広場では裁判そのものがまったく始まらない」と言ってもよいでしょう。
4.大いなる裁き
新約聖書は世界史全体のしめくくりとして次のような状況を提示しています、「生きている者も死んだ者も、大きい者も小さい者も、大いなる白い裁きの座の前に立ち、書物が開かれます。その「命の書物」の中に名前がある者は命の世界に入ることができ、命の書物に名が記されていない者は死の王国に落ちていくほかないのです」(ヨハネの黙示録20章11~15節)。
天国の広場が人で一杯になる時が来ます。すべての人がそこにいるのです。
罪人に残された唯一の可能性は、パウロがテサロニケやアテナイで教えた基本的なことをきちんと復習することです。神様の怒りが世界を覆う時が来ます。「神様が死人の中からよみがえらせた神様の御子、すなわち、私たちを来るべき怒りから救い出してくださるイエス様が、天から下って来られるのを」私たちは待つようになりました(テサロニケの信徒への第1の手紙1章10節)。同じ教えはパウロのアレオパゴスでのスピーチの中にも見えます(使徒の働き17章)。
「義認」(義と認められること)、すなわち、人が大いなる裁き主の御前で罪を赦され認めていただけることは「人がよりよい存在になる」という意味ではありません。義認とは、「人には心にやましい罪がない」という意味ではありません。義認は、「罪が罪とはみなされない」ということです。パウロは、ふたつの異なる義について語っています。ひとつは人間自身の「行いによる義」で、人はそれを捜し求めますが決して見つからないものです(ローマの信徒への手紙9章30~33節)。もうひとつの義はキリストのゆえに賜物としていただける義です。これに関して最も大切な聖書の箇所はとりわけローマの信徒への手紙4章3節、22~25節、および、ガラテアの信徒への手紙3章6節です。真っ白な裁きの座の御前で私たちの「避けどころ」となるのは、自分自身の義ではなく、私たちの罪を帳消しにしてくれる「キリストの義」です。
5.いくつかの選択肢
いままで述べてきたことは、「どのように人が救われるか」についていくつかのはっきりとした「境界線」を引かなければならないことを私たちに教えます。
神様の怒りと永遠の裁きについての教えをまったく受け入れない人たちがいます。彼らは、「イエスは神が怒ってはおらず今まで怒ったこともないことを教えにきたのだ」と主張します。これは誤りです。
「天国の広場」ではいつか必ず大規模な集会が開かれます。もしもそのときにキリストから賜物としていただいた義が「避けどころ」となってくれなければ、人は永遠の命の中へ入ることができません。
「義認とは人がこの世での人生の間に義なる存在に変化することだ」と主張する人もいます。「神が人の中にその力を注ぎ込み、その結果として人は次第によりよい存在に変わっていく」と言うのです。これも間違いです。
なぜなら、「私がクリスチャンである」ことは私によって決まることではなく。どこか天の岸辺の向こうでいつか将来に実現することでもないからです。キリストはゴルガタの十字架で罪人である人間と聖なる神様の間に平和をもたらしてくださいました。キリストは聖なる洗礼において、私に御自分の義を着せてくださいました。キリストは聖霊様によって、すべての人に贈ってくださっている救いを私が自分のものとして受け取るようにしてくださいました。信仰は確かに人の人生を変えます。
しかし、それはここで扱っていること(人はどのようにして神様に義と認められ、救われるか)とはまったく別のテーマです。信仰により人の人生が変わるのはキリストの愛の力によってであり、人自身の業績(よいほめられるべき行い)とは関係がありません。
救われるという確信を自分自身の心から探しまわって、種々の精神的な鍛錬によって自分を高めようとする人たちもいます。しかし、どれほど熱心に信仰にかかわることがらに集中してみたところで、土曜日の夜には真実味を帯びていたことも次の月曜日の朝にはそれが本当だとは感じられなくなってしまったりするものです。心がキリストに対して熱く燃え続けることもありません。
それに対して、私の「救われるという確信」は次の二つのことに基づいています。
まず、神様のすばらしい救いのみわざは、私がまだ生れる前にすでに成就していました。次に、私は義とされています。なぜなら、神様はキリストの救いのみわざによる報酬を私にも分け、私の名前を命の書に書き込み、私を裁きにかけるようなことはなさらないからです。
それと関係してこの世の終わりに訪れる「最後の裁き」について学びましょう。
天国の広場で
エルッキ・コスケンニエミ (日本語版編集 高木賢)
1.問題の所在
「広場」とはラテン語でforumといい、「裁きの座」を意味しています。言い換えればこの表題は「大いなる裁きの座」をあらわしています。このテキストで私たちは「神様が人々の前で裁きを行われること」について語っている聖書の箇所を調べることにしましょう。
2.さっさと私を裁きなさい!
多くの人は神様の裁きを避けようとしています。しかし、少なくとも聖書の中の登場人物の一人は自分自身に関して神様の裁きがなされることを祈り求めています。ヨブは神様が裁きの座に出てくるように要求しました(とりわけヨブ記23章1~12節)。もしも公平な裁判ならば、ヨブは神様が彼に対して行ったわざに関して神様を有罪とし、「ヨブが正しく、神様が間違っている」ということがあきらかにされたことでしょう。ヨブの友人たちは本当のことや正しいことを話しているし、ヨブと共に部分的には調子をそろえています。しかし、ヨブの友人たちはヨブの考え方や態度を変えさせることはできませんでした。最後にようやく主がヨブにあらわれて、ヨブは「よりよい神学」を学びました。つまり、ヨブは神様の裁きの座の前で黙ることを学んだのです。しかし、神様の御言葉がこれと同じ奇跡を今でも私たちの只中で行えるように私たちは御言葉を学んでいるでしょうか。
3.旧約聖書から
ゼカリヤ書3章1~7節は、神様の民が自分たちの罪に対して裁きと懲罰を受けた時期について語っています。エルサレムは破壊され、神殿はもはやなく、民は捕囚となりました。神様が御自分の民を彼らに与えた土地に連れ戻されたとき、主は預言者ゼカリヤが大祭司ヨシュアが神様の御前で民全体の代表として立っているのを「見る」機会をお与えになりました。裁きの座でヨシュアは憐れみを受けて釈放されました。なぜなら、この男は「火の中から取り出された燃えさし」(ゼカリヤ書3章2節)だったからです。こうしてヨシュアは憐れみを受けた者として生きていくことを許されました。「天国の広場」での裁決は悪魔を沈黙させました。
詩篇143篇は「人が自分の罪を悔いる」というテーマを扱っています。敵のゆえに命が危うくなっているダヴィデが地面に伏して全能の主の助けを求めて叫びます。それと同時にダヴィデは自分の罪のせいで助けをいただけないのではないかと恐れます、「主よ、あなたの僕を裁きの座に引き出さないでください。あなたの御前では誰ひとりとして義とされないからです」(2節)。天国の広場では罪人に対して罪の重荷から解放する裁定が待っています。あるいは、「天国の広場では裁判そのものがまったく始まらない」と言ってもよいでしょう。
4.大いなる裁き
新約聖書は世界史全体のしめくくりとして次のような状況を提示しています、「生きている者も死んだ者も、大きい者も小さい者も、大いなる白い裁きの座の前に立ち、書物が開かれます。その「命の書物」の中に名前がある者は命の世界に入ることができ、命の書物に名が記されていない者は死の王国に落ちていくほかないのです」(ヨハネの黙示録20章11~15節)。
天国の広場が人で一杯になる時が来ます。すべての人がそこにいるのです。
罪人に残された唯一の可能性は、パウロがテサロニケやアテナイで教えた基本的なことをきちんと復習することです。神様の怒りが世界を覆う時が来ます。「神様が死人の中からよみがえらせた神様の御子、すなわち、私たちを来るべき怒りから救い出してくださるイエス様が、天から下って来られるのを」私たちは待つようになりました(テサロニケの信徒への第1の手紙1章10節)。同じ教えはパウロのアレオパゴスでのスピーチの中にも見えます(使徒の働き17章)。
「義認」(義と認められること)、すなわち、人が大いなる裁き主の御前で罪を赦され認めていただけることは「人がよりよい存在になる」という意味ではありません。義認とは、「人には心にやましい罪がない」という意味ではありません。義認は、「罪が罪とはみなされない」ということです。パウロは、ふたつの異なる義について語っています。ひとつは人間自身の「行いによる義」で、人はそれを捜し求めますが決して見つからないものです(ローマの信徒への手紙9章30~33節)。もうひとつの義はキリストのゆえに賜物としていただける義です。これに関して最も大切な聖書の箇所はとりわけローマの信徒への手紙4章3節、22~25節、および、ガラテアの信徒への手紙3章6節です。真っ白な裁きの座の御前で私たちの「避けどころ」となるのは、自分自身の義ではなく、私たちの罪を帳消しにしてくれる「キリストの義」です。
5.いくつかの選択肢
いままで述べてきたことは、「どのように人が救われるか」についていくつかのはっきりとした「境界線」を引かなければならないことを私たちに教えます。
神様の怒りと永遠の裁きについての教えをまったく受け入れない人たちがいます。彼らは、「イエスは神が怒ってはおらず今まで怒ったこともないことを教えにきたのだ」と主張します。これは誤りです。
「天国の広場」ではいつか必ず大規模な集会が開かれます。もしもそのときにキリストから賜物としていただいた義が「避けどころ」となってくれなければ、人は永遠の命の中へ入ることができません。
「義認とは人がこの世での人生の間に義なる存在に変化することだ」と主張する人もいます。「神が人の中にその力を注ぎ込み、その結果として人は次第によりよい存在に変わっていく」と言うのです。これも間違いです。
なぜなら、「私がクリスチャンである」ことは私によって決まることではなく。どこか天の岸辺の向こうでいつか将来に実現することでもないからです。キリストはゴルガタの十字架で罪人である人間と聖なる神様の間に平和をもたらしてくださいました。キリストは聖なる洗礼において、私に御自分の義を着せてくださいました。キリストは聖霊様によって、すべての人に贈ってくださっている救いを私が自分のものとして受け取るようにしてくださいました。信仰は確かに人の人生を変えます。
しかし、それはここで扱っていること(人はどのようにして神様に義と認められ、救われるか)とはまったく別のテーマです。信仰により人の人生が変わるのはキリストの愛の力によってであり、人自身の業績(よいほめられるべき行い)とは関係がありません。
救われるという確信を自分自身の心から探しまわって、種々の精神的な鍛錬によって自分を高めようとする人たちもいます。しかし、どれほど熱心に信仰にかかわることがらに集中してみたところで、土曜日の夜には真実味を帯びていたことも次の月曜日の朝にはそれが本当だとは感じられなくなってしまったりするものです。心がキリストに対して熱く燃え続けることもありません。
それに対して、私の「救われるという確信」は次の二つのことに基づいています。
まず、神様のすばらしい救いのみわざは、私がまだ生れる前にすでに成就していました。次に、私は義とされています。なぜなら、神様はキリストの救いのみわざによる報酬を私にも分け、私の名前を命の書に書き込み、私を裁きにかけるようなことはなさらないからです。
2008年2月29日金曜日
神様から来るリヴァイヴァル
「人が霊的に目覚める」というのはどういうことか、考えてみましょう。
神様から来るリヴァイヴァル
エルッキ・コスケンニエミ
「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねなさい。近くおられるうちに呼び求めなさい。悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰りなさい。そうすれば、主はその人をあわれんでくださいます。私たちの神様に帰りなさい。主は豊かに赦しを与えてくださいます。私の思いはあなたがたの思いとは異なり、私の道はあなたがたの道とは異なっている、と主は言われています。天が地よりも高いように、私の道はあなたがたの道よりも高く、私の思いはあなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者に糧を与えます。このように、私の口から出る言葉もむなしくは私のもとに帰りません。私の喜ぶところのことをなし、私が命じ送ったことを実現します。あなたがたは喜びをもって出てきて、安らかに導かれて行きます。山と丘とはあなたの前に声を放って喜び歌い、野にある木はみな手を打ちます。いとすぎは、いばらに代って生え、ミルトスの木は、おどろに代って生えます。これは主の記念となり、また、とこしえのしるしとなって、絶えることはありません。」(イザヤ書55章6~13節)
このイザヤの言葉を聞いたのは、バビロン捕囚の下に置かれていた神様の民でした。この民は主の戒めをひどく破り、すべてを失ったのでした。エルサレムは荒れ果て、もはや自分たちの王はいませんでした。主の聖なる神殿は汚され、壊されていました。ところが、それから何十年も経った今になって、この民に神様の御言葉がおとずれ、新しい恵みの契約へと招待したのです。「民は喜びの中に自分たちの土地に帰ることができる」と、主は約束してくださいました。神様は御言葉をむなしく送られたわけではありませんでした。神様のくださった雨が、すべてが実を結び成長するように働きかけるのと同じように、御言葉もまた働きかけます。御言葉は、主がそれに与えた使命を正確に実現します。上に挙げたイザヤ書の御言葉もその通り実現し、神様の民は自分たちの土地へ帰ることができたのでした。
歴史は私たちに、神様の御言葉にはすごい力があることを教えてくれます。この力は今日でもちゃんと御言葉に保存されているのです。それゆえ、私たちはリヴァイヴァル(多くの人がある時に霊的に目覚めること)を祈り、「神様はそれを今でも私たちに与えることがおできになる」と強く信じています。
神様から来ていないリヴァイヴァルもあるのでしょうか?
確かに、神様から来ているとは言えない「リヴァイヴァル」もあります。私たちはすべての霊的なことがらを神様の御言葉によって評価しなければなりません。真のリヴァイヴァルは神様の御言葉の中に留まります。人々が自分の罪を告白して、自分の力ではなくイエス・キリストのゆえに、「自分が聖である」ことを信じて、神様の御言葉に従って活きて行くように人々を導く者は、神様の御心に適うことを行っているのです。本物のリヴァイヴァルの伝道者は、自分の心の不幸なほどののろさや冷たさを嘆いている人に対しても、何かよいメッセージがあるはずです。神様の恵みは、はるか彼方から降ってきて、ひどく冷え込んでしまった心の持ち主に新しい愛と力を与えるものでなければなりません。
一方では、私たちは、自分たちの用心深さのせいで、リヴァイヴァルの火を消してしまうことがないように注意しなければなりません。リヴァイヴァルでは、常識では考えられないようなことが起こるので、それに付随して、本来のリヴァイヴァルではないようなことが起きるのもさけがたいのです。たとえば、信仰の核心がちっともわかっていないままで、周りから注目を浴びようとする人たちも混ざってきます。霊的な力を経験した人が、他の人も皆自分と同じ経験をするように激しく要求する場合もあります。自分の教えの内容が、実は聖書とは違う何か他のものに基づいていることに、気が付かない人もいます。
このような状況の中で、私たちはどこか安全な場所に逃げ込んで、そこから決定的なパンチを繰り出す、というやり方もありうるでしょう。
もうひとつの方法は、パウロのように、今起きているリヴァイヴァルについて認めることができる点はちゃんと認めて、相手の使い慣れた言葉を用いて、相手の弱い点を忍耐しつつ、しかし同時に、神様の真理をはっきりと前面に打ち出す、というやり方です。
私たちも、リヴァイヴァル運動に参加してきた信仰の兄弟姉妹の中にリヴァイヴァルとは相容れない面や間違っていることがあった場合にどのようにして彼らと出会い付き合っていくべきか、あらかじめ心の準備をしておくべきでしょう。
神様の御言葉は、私たちがそれにしっかりつながっている限り、リヴァイヴァルを整え導きます。神様も私たちに対して忍耐され、私たちに真理を学ぶ時間を与えてくださっているのです。私たちも隣人に対して同じようにしない理由があるでしょうか?
リヴァイヴァルの核心とは何でしょうか?
ローマの信徒への手紙3章
どんなリヴァイヴァルでも神様から来ているというわけではありません。この世には、神様の真理から何光年も離れているような熱狂的な運動がたくさんあります。「宗教的」であることが、キリスト教にとって最悪の敵となるさえあります。どうすれば私たちは、真のリヴァイヴァルを見分けることができるのでしょうか。
神様の与えてくださった本物のリヴァイヴァルは、聖書にしっかりと基づいています。そこでは人は、自分の本当の状態に気が付きます。今の世の中では、神様をまったく必要としていないかのように思い込んでいる人たちが大勢います。彼らは、信仰のことがらを考えることがあったとしても、それはせいぜいロウソクを点して聖なる雰囲気を味わったり、美しく飾られたクリスマス礼拝に参加したりする程度のものでしょう。彼らにとって教会は雰囲気を提供する場にすぎません。罪と恵みについての話は彼らにとってちんぷんかんぷんです。「私は銀行強盗をしたこともないし、誰も殺したことがないのだから、何も怖がる必要はないだろう?」確かに人々の前では何も恐れる必要はないかもしれませんが、神様の御前ではそうではありません。
ローマの信徒への手紙3章は、人は各々神様の御前で罪深い存在である、と教えています。人にはいつも悪い考えや悪い言葉や悪い行いが伴っている、ということは、「人は、神様の栄光を受けられなくなっている」ということを意味しています(23節)。つまり、人は神様の栄光へと入っていくことができないのです。人の本来行くべき場所は、永遠の滅びです。
このことについて多くの人たちは、家に火がついて煙が立ち昇り始めているのにぐっすり眠り込んでいる人と同じくらい、無頓着なままです。そういうときには本当なら目を覚まして危険を察知するべきなのです。私たちを罪のまどろみの中から起こしてくれるのは、神様の御言葉です。これによって私たちは、自分たちが神様の怒りと裁きを受けるのが当然であることを、知ります。そしてこうしたことがわかるようになるのは、人が理性的に自分の頭で考えたからではなく、神様が与えてくださった大きなプレゼント、聖霊様の働きのおかげなのです。
私たちが絶望のうちに死ぬことがないように、神様は働きかけてくださいます。聖書にこう書いてあります。
「すべての人は罪を犯して、神様の栄光にあずかれなくなっています。彼らは、価なしに(ただで)、神様の恵みにより、キリスト・イエスにおけるあがないを通して、義とされているのです。」(ローマの信徒への手紙3章23~24節)
私たちの罪は神の小羊イエス様の血によって赦されています。これが私たちにとって唯一の「避難所」です。信じ始めたばかりの人にとっても、また、ヴェテランの信仰者にとっても。この守りの城砦は決して揺るがず、私たちを裏切ることもありません。
このように真のリヴァイヴァルとは、「罪と恵みを知ること」です。それは、はじめからおわりまで聖霊様のみわざです。「聖書は聖霊様の働きかけによって生れた」ことを、私たちは信じます。それゆえまた、「今もなお、聖書は聖霊様に反対して語ることは決してない」と私たちは信じます。真のリヴァイヴァルは、「偉大な神様と御言葉を前にして畏れる心をもって歩むこと」を人々に伝えていくものです。
リヴァイヴァルを体験する必要があるのでしょうか?
人はその人生の中で「リヴァイヴァル」(あるいは「新しく生まれる」とか、「信仰に入る」とか、いろいろな言葉がありますが)を体験することが絶対に必要である、と考えるクリスチャンがいます。「人は心の底から自分を主にお渡しし、霊によって満たされることが必要だ。もしもそうでなければ、誰も神様のものではありえない」というのです。
私たち人間は、自分で決めた要求を自分に課すのに慣れています。そして、「他の人も皆、自分と同じように体験するべきである」と要求しがちです。しかし、とりわけこうした問題については、人は神様の御言葉を超えて何か勝手なことをやってはいけません。もしも人がキリストを受け入れるのならば、すべてはそれで大丈夫なのです。自分の考えに頼って神様のみもとに行ける人はひとりもいません(たとえば、コリントの信徒への第1の手紙2章14節)。それはいつも聖霊様のみわざです。私たちは皆それぞれ異なっています。敏感な人もいれば、そうではない人もいます。敏捷な人がいれば、のろい人もいます。天の父なる神様は御自分の子供たちをよく御存知です。お父様は私たちをどのような道に沿って導いていかれるか、よく御存知です。自分の罪や心の冷たさを悲しんでいる人は、それが実は聖霊様が与えてくださった賜物であることを知りなさい。自分の希望をキリストに託す人は、救いの道を歩んでいます。私たちには、私たちのあがない主なるキリストがおられる、ということで十分なのです。イエス様は、私たちを聖なる洗礼において「御自分のもの」としてくださいました。イエス様は、私たちに御自分の恵みを主の聖餐で分け与えてくださいます。イエス様は、神様の御言葉の中で、あなたを愛しておられることを誓っておられます。
私たちは自分の人生の中で、ある特殊な体験や決まったパターンを必要とはしていません。私たちが必要なのは、イエス・キリストです。もしも私たちにイエス様がおられるならば、実は私たちにはすべてがあるのです。もしも私たちにイエス様がおられないならば、私たちには何もないのです。たとえ私たちがどれほど「宗教的」であったとしてもです。
リヴァイヴァルを経験した人は、いつも目を覚ましているのでしょうか?
一度リヴァイヴァルを体験した人が、おわりまで「目を覚まし続けている」とは限りません。キリストは御自分の民が目を覚まし続けているようにと、忠告なさっています。私たちが出会う危険は大きいのです。神様の子供は、神様からいただいたものを、いともたやすく失ってしまいます。 滅びの道を歩んでいる者にとって、一度若いときに経験したリヴァイヴァルは、たいした役に立ちません。自分の力に頼る限り、私たちは、ゲッセマネにいた弟子たちと同じようなありさまです(マタイによる福音書26章)。キリストは弟子たちを何度も起こさなければなりませんでした。にもかかわらず、弟子たちはいつも深い眠りにとらわれました。それゆえ、私たちは、リヴァイヴァルを神様に絶えずお願いして、こう祈ります。「主よ、あなたの教会を眠りから起こしてください。そして、それを私からはじめてください!」
神様から来るリヴァイヴァル
エルッキ・コスケンニエミ
「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねなさい。近くおられるうちに呼び求めなさい。悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰りなさい。そうすれば、主はその人をあわれんでくださいます。私たちの神様に帰りなさい。主は豊かに赦しを与えてくださいます。私の思いはあなたがたの思いとは異なり、私の道はあなたがたの道とは異なっている、と主は言われています。天が地よりも高いように、私の道はあなたがたの道よりも高く、私の思いはあなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者に糧を与えます。このように、私の口から出る言葉もむなしくは私のもとに帰りません。私の喜ぶところのことをなし、私が命じ送ったことを実現します。あなたがたは喜びをもって出てきて、安らかに導かれて行きます。山と丘とはあなたの前に声を放って喜び歌い、野にある木はみな手を打ちます。いとすぎは、いばらに代って生え、ミルトスの木は、おどろに代って生えます。これは主の記念となり、また、とこしえのしるしとなって、絶えることはありません。」(イザヤ書55章6~13節)
このイザヤの言葉を聞いたのは、バビロン捕囚の下に置かれていた神様の民でした。この民は主の戒めをひどく破り、すべてを失ったのでした。エルサレムは荒れ果て、もはや自分たちの王はいませんでした。主の聖なる神殿は汚され、壊されていました。ところが、それから何十年も経った今になって、この民に神様の御言葉がおとずれ、新しい恵みの契約へと招待したのです。「民は喜びの中に自分たちの土地に帰ることができる」と、主は約束してくださいました。神様は御言葉をむなしく送られたわけではありませんでした。神様のくださった雨が、すべてが実を結び成長するように働きかけるのと同じように、御言葉もまた働きかけます。御言葉は、主がそれに与えた使命を正確に実現します。上に挙げたイザヤ書の御言葉もその通り実現し、神様の民は自分たちの土地へ帰ることができたのでした。
歴史は私たちに、神様の御言葉にはすごい力があることを教えてくれます。この力は今日でもちゃんと御言葉に保存されているのです。それゆえ、私たちはリヴァイヴァル(多くの人がある時に霊的に目覚めること)を祈り、「神様はそれを今でも私たちに与えることがおできになる」と強く信じています。
神様から来ていないリヴァイヴァルもあるのでしょうか?
確かに、神様から来ているとは言えない「リヴァイヴァル」もあります。私たちはすべての霊的なことがらを神様の御言葉によって評価しなければなりません。真のリヴァイヴァルは神様の御言葉の中に留まります。人々が自分の罪を告白して、自分の力ではなくイエス・キリストのゆえに、「自分が聖である」ことを信じて、神様の御言葉に従って活きて行くように人々を導く者は、神様の御心に適うことを行っているのです。本物のリヴァイヴァルの伝道者は、自分の心の不幸なほどののろさや冷たさを嘆いている人に対しても、何かよいメッセージがあるはずです。神様の恵みは、はるか彼方から降ってきて、ひどく冷え込んでしまった心の持ち主に新しい愛と力を与えるものでなければなりません。
一方では、私たちは、自分たちの用心深さのせいで、リヴァイヴァルの火を消してしまうことがないように注意しなければなりません。リヴァイヴァルでは、常識では考えられないようなことが起こるので、それに付随して、本来のリヴァイヴァルではないようなことが起きるのもさけがたいのです。たとえば、信仰の核心がちっともわかっていないままで、周りから注目を浴びようとする人たちも混ざってきます。霊的な力を経験した人が、他の人も皆自分と同じ経験をするように激しく要求する場合もあります。自分の教えの内容が、実は聖書とは違う何か他のものに基づいていることに、気が付かない人もいます。
このような状況の中で、私たちはどこか安全な場所に逃げ込んで、そこから決定的なパンチを繰り出す、というやり方もありうるでしょう。
もうひとつの方法は、パウロのように、今起きているリヴァイヴァルについて認めることができる点はちゃんと認めて、相手の使い慣れた言葉を用いて、相手の弱い点を忍耐しつつ、しかし同時に、神様の真理をはっきりと前面に打ち出す、というやり方です。
私たちも、リヴァイヴァル運動に参加してきた信仰の兄弟姉妹の中にリヴァイヴァルとは相容れない面や間違っていることがあった場合にどのようにして彼らと出会い付き合っていくべきか、あらかじめ心の準備をしておくべきでしょう。
神様の御言葉は、私たちがそれにしっかりつながっている限り、リヴァイヴァルを整え導きます。神様も私たちに対して忍耐され、私たちに真理を学ぶ時間を与えてくださっているのです。私たちも隣人に対して同じようにしない理由があるでしょうか?
リヴァイヴァルの核心とは何でしょうか?
ローマの信徒への手紙3章
どんなリヴァイヴァルでも神様から来ているというわけではありません。この世には、神様の真理から何光年も離れているような熱狂的な運動がたくさんあります。「宗教的」であることが、キリスト教にとって最悪の敵となるさえあります。どうすれば私たちは、真のリヴァイヴァルを見分けることができるのでしょうか。
神様の与えてくださった本物のリヴァイヴァルは、聖書にしっかりと基づいています。そこでは人は、自分の本当の状態に気が付きます。今の世の中では、神様をまったく必要としていないかのように思い込んでいる人たちが大勢います。彼らは、信仰のことがらを考えることがあったとしても、それはせいぜいロウソクを点して聖なる雰囲気を味わったり、美しく飾られたクリスマス礼拝に参加したりする程度のものでしょう。彼らにとって教会は雰囲気を提供する場にすぎません。罪と恵みについての話は彼らにとってちんぷんかんぷんです。「私は銀行強盗をしたこともないし、誰も殺したことがないのだから、何も怖がる必要はないだろう?」確かに人々の前では何も恐れる必要はないかもしれませんが、神様の御前ではそうではありません。
ローマの信徒への手紙3章は、人は各々神様の御前で罪深い存在である、と教えています。人にはいつも悪い考えや悪い言葉や悪い行いが伴っている、ということは、「人は、神様の栄光を受けられなくなっている」ということを意味しています(23節)。つまり、人は神様の栄光へと入っていくことができないのです。人の本来行くべき場所は、永遠の滅びです。
このことについて多くの人たちは、家に火がついて煙が立ち昇り始めているのにぐっすり眠り込んでいる人と同じくらい、無頓着なままです。そういうときには本当なら目を覚まして危険を察知するべきなのです。私たちを罪のまどろみの中から起こしてくれるのは、神様の御言葉です。これによって私たちは、自分たちが神様の怒りと裁きを受けるのが当然であることを、知ります。そしてこうしたことがわかるようになるのは、人が理性的に自分の頭で考えたからではなく、神様が与えてくださった大きなプレゼント、聖霊様の働きのおかげなのです。
私たちが絶望のうちに死ぬことがないように、神様は働きかけてくださいます。聖書にこう書いてあります。
「すべての人は罪を犯して、神様の栄光にあずかれなくなっています。彼らは、価なしに(ただで)、神様の恵みにより、キリスト・イエスにおけるあがないを通して、義とされているのです。」(ローマの信徒への手紙3章23~24節)
私たちの罪は神の小羊イエス様の血によって赦されています。これが私たちにとって唯一の「避難所」です。信じ始めたばかりの人にとっても、また、ヴェテランの信仰者にとっても。この守りの城砦は決して揺るがず、私たちを裏切ることもありません。
このように真のリヴァイヴァルとは、「罪と恵みを知ること」です。それは、はじめからおわりまで聖霊様のみわざです。「聖書は聖霊様の働きかけによって生れた」ことを、私たちは信じます。それゆえまた、「今もなお、聖書は聖霊様に反対して語ることは決してない」と私たちは信じます。真のリヴァイヴァルは、「偉大な神様と御言葉を前にして畏れる心をもって歩むこと」を人々に伝えていくものです。
リヴァイヴァルを体験する必要があるのでしょうか?
人はその人生の中で「リヴァイヴァル」(あるいは「新しく生まれる」とか、「信仰に入る」とか、いろいろな言葉がありますが)を体験することが絶対に必要である、と考えるクリスチャンがいます。「人は心の底から自分を主にお渡しし、霊によって満たされることが必要だ。もしもそうでなければ、誰も神様のものではありえない」というのです。
私たち人間は、自分で決めた要求を自分に課すのに慣れています。そして、「他の人も皆、自分と同じように体験するべきである」と要求しがちです。しかし、とりわけこうした問題については、人は神様の御言葉を超えて何か勝手なことをやってはいけません。もしも人がキリストを受け入れるのならば、すべてはそれで大丈夫なのです。自分の考えに頼って神様のみもとに行ける人はひとりもいません(たとえば、コリントの信徒への第1の手紙2章14節)。それはいつも聖霊様のみわざです。私たちは皆それぞれ異なっています。敏感な人もいれば、そうではない人もいます。敏捷な人がいれば、のろい人もいます。天の父なる神様は御自分の子供たちをよく御存知です。お父様は私たちをどのような道に沿って導いていかれるか、よく御存知です。自分の罪や心の冷たさを悲しんでいる人は、それが実は聖霊様が与えてくださった賜物であることを知りなさい。自分の希望をキリストに託す人は、救いの道を歩んでいます。私たちには、私たちのあがない主なるキリストがおられる、ということで十分なのです。イエス様は、私たちを聖なる洗礼において「御自分のもの」としてくださいました。イエス様は、私たちに御自分の恵みを主の聖餐で分け与えてくださいます。イエス様は、神様の御言葉の中で、あなたを愛しておられることを誓っておられます。
私たちは自分の人生の中で、ある特殊な体験や決まったパターンを必要とはしていません。私たちが必要なのは、イエス・キリストです。もしも私たちにイエス様がおられるならば、実は私たちにはすべてがあるのです。もしも私たちにイエス様がおられないならば、私たちには何もないのです。たとえ私たちがどれほど「宗教的」であったとしてもです。
リヴァイヴァルを経験した人は、いつも目を覚ましているのでしょうか?
一度リヴァイヴァルを体験した人が、おわりまで「目を覚まし続けている」とは限りません。キリストは御自分の民が目を覚まし続けているようにと、忠告なさっています。私たちが出会う危険は大きいのです。神様の子供は、神様からいただいたものを、いともたやすく失ってしまいます。 滅びの道を歩んでいる者にとって、一度若いときに経験したリヴァイヴァルは、たいした役に立ちません。自分の力に頼る限り、私たちは、ゲッセマネにいた弟子たちと同じようなありさまです(マタイによる福音書26章)。キリストは弟子たちを何度も起こさなければなりませんでした。にもかかわらず、弟子たちはいつも深い眠りにとらわれました。それゆえ、私たちは、リヴァイヴァルを神様に絶えずお願いして、こう祈ります。「主よ、あなたの教会を眠りから起こしてください。そして、それを私からはじめてください!」
2008年2月13日水曜日
私は正しく生きているでしょうか。
何がクリスチャンとして正しい生き方か、どうすればそのように生きられるか、今日はこのことを考えてみたいと思います。
私は正しく生きているでしょうか。
ヤリ・ランキネン
神様は人を「御自分のかたち」に創られました。それは、神様は人をあることがらについては「神様と似たもの」となさった、という意味です。「神様のかたち」は、神様が知っておられるのと同様に、何が正しくて何がまちがっているか知っていました。神様のかたちとして人は「悪を避け正しく行動しなければならない」ことを理解し、また常に正しく行動しました。神様のかたちとして創られたということは、自分の行いについて神様に対して責任をもつということでもあります。神様は御自分のかたちに対して「神様のように生きていたか、正しいことを行ってきたか」について厳しいチェックを要求なさいます。ところが、はじめの人(アダムとエバ)が罪に堕落するということが起きてしまいました。その結果として人は「正しく生きるという能力」を失ってしまいました。罪の堕落が起きたため、私たち人間はするべきではないことを行い、しかもそれをせずにはおられなくなってしまいました。たとえそうすることが間違っているとわかっている場合であっても。たとえどんなに違った生き方をしようと努力しても。罪の堕落のもうひとつの結果として人は何が正しく何が間違っているかを知る能力がひどくあいまいになってしまいました。私たちの心の奥底も罪の堕落のために罪に汚されてしまっているため、正しいことを間違ったこととし、間違っていることを正しくみなしてしまうことがあるほどゆがんでしまっています。しかも実際にしばしばそのように行ってしまうのです。それゆえ、何が正しく何が間違っているかについての知識を私たち自身の「外側」から得る必要が私たちにはあります。確かに罪の堕落が起きてしまったとはいうものの、私たちは依然として「神様のかたち」なのです。私たちには正しいことと間違っていることについての理解が、たとえそれがどんなに曇ってしまっているとしても、残っており、私たちは自分の行なったことについて神様に対して責任を負うことになるのです。
罪の堕落は人を御自分のかたちとして創られたお方を汚しはしませんでした。創り主なる神様は何が正しく何が間違っているか、人の罪の堕落の前も後もかわりなく御存知で、常に正しく働かれています。神様は正しいことと間違っていることについての知識を御自分のものだけに留めてはおかれませんでした。神様はこれらについても私たちに御自分の御言葉をお与えになることによって語っておられます。それは次のふたつのことを意味しています。
1) 神様は聖書を与えてくださいました。神様の選ばれた人々が、神様が御自分で創られた人間に対して言われたいことを書き取りました。聖書には正しいことと間違っていることとについて聖書の立場を明瞭にしている箇所が数え切れないほどたくさんあります。それらは、何が正しく何が間違っているか正確に御存知である神様御自身の立場の表明なのです。それゆえ、正しいことと間違っていることとの感覚が曇ってしまっている私たち人間はそれらを注意深く聴いていくべきです。
2) 神様御自身がこの世に来られました。イエス様が人としてお生まれになったときにこのことは実現しました。イエス様は神様の御言葉であられ、神様御自身であられます。イエス様の中で「天地の主」が話し、教え、活動し、働きかけておられます。それゆえ、イエス様が正しいことと間違っていることとについて教えておられることは「神様の教え」なのです。私たちは「何が正しいか」を問うときには、「イエス様はどのように考えておられるか」について問うべきです。もしもそれを知るならば、私たちは神様の立場を知ることになります。イエス様のお考えについて私たちは聖書から知ることができます。聖書はまさしくイエス様についての書物なのですから。
聖書が何が正しく何が間違っているかについて語っていることは、人間が心の中でぼんやりと理解していことがらに対応しています。聖書が命じたり禁じたりしていることを聞くときに、あたかも私たちの心の中で誰かが「これは本当だよ」と言っているかのように感じるものです。たとえ人がそのあとで聖書の教えに反抗することになったとしてもです。これはどうしてでしょうか。それは、聖書が私たちの創り主の書物であり、私たちが私たちの創り主のかたちであるからです。人間ひとりひとりの中にある「何か」が、私たちの創り主が正しいことと間違っていることについて語っておられることがらに対応しているのです。このことは、私たちが聖書の命じていることがらをまわりにもはっきり語って、またそれに従って活動するように励ましてくれることでしょう。
ソヴィエト連邦では聖書の命じていることがらを教えることが禁止されました。聖書は廃棄され、また聖書の教えは人間たちが自分で考え出したいろいろな教えに取って代えられました。それらの新しい教えは聖書よりもずっと優れていると感じられたのです。さあ、何が起きたでしょうか。国民は盗んだり嘘をついたり周りの人を無視して生活することを学んでしまいました。国の経済もめちゃくちゃになり、前の「敵国」からの援助なしには立ち行かなくなりました。もっとも援助があっても厳しい状況はつづきましたが。自然もひどく破壊されました。ソヴィエト連邦ではこういう結果になりました。聖書やその命じていることが無視されているところではどこであれ、それと同じようなことが起こります。聖書は人間に最上の生活の教えを与えています。たとえば携帯電話など何か装置を使用するときに、その製造元が与えた装置の使用法を無視していると、その装置はまもなく壊れてしまいます。聖書ではこの世界の「製造元」が話しているのです。そしてこの「製作者」は、自分が創った世界でできるかぎり多くのものができるかぎりよい状態を保つためにはどのように生きていくべきなのか、よく知っています。
正しいことと間違っていることについての聖書の教えはすべて「愛の二重命令」に言い尽くされています。「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神様を愛しなさい。自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい。」(マタイによる福音書22章37、39節)。「愛さなければならない」ということについては、間違いなく私たち人間は皆同じ意見でしょう。しかし、「愛とは何か」という点に関してはいろいろな意見があります。「愛とは何であり、様々な状況でどのように愛を実現していくべきか」ということについては、私たちの「外部」から説明してもらえない限り、私たちは知ることができません。そして聖書の中でその説明がなされています。聖書の中にある他の命令は「愛の二重命令」を補足説明するものなのです。十戒は愛の命令をすでにかなり広範にわたって説明しています。第一戒から第三戒までは「神様を愛するとはどのようなことか」を説明しています。つまり、私たち人間が他の神々(偶像)に仕えたりしないこと、神様の御名をいたずらに用いたりしないこと、安息日を聖とすることです。第四戒から第十戒までは「隣り人を愛するとはどのようなことか」を説明しています。つまり、両親を敬うこと、殺さないこと、姦淫をしないこと、盗まないこと、偽証しないこと、他の人のものを欲しないことです。
聖書には他にもたくさんの命令があります。それらもまた「神様や他の人を愛するとはどういうことか」ということを説明しています。聖書は人がすべてのことについて神様に感謝するように命じています(テサロニケの信徒への第1の手紙5章18節)。それは神様に感謝することは神様を愛することだからです。聖書は「税金を払わなければならない」と教えています(ローマの信徒への手紙13章5~7節)。たとえそれが高すぎると感じられる場合であってもです。税金をごまかして申告をするのは他の人たちに対する愛の欠如のあらわれなのです。
イエス様が地上で何を行われたか、どのように活動されたか、何を話されたか、ということから私たちは「神様と隣り人を愛することがどういうことであるか」を知ります。イエス様の中で神様御自身が活動なさいました。そして神様は愛の命令を破ったりはなさいません。私たちだったらこうはしなかっただろうと思われるような状況の中でもイエス様は愛してくださり、正しく活動されました。「何が愛であり、どのように活動すべきか」考えるときに、「イエス様だったらこのような状況の中でどのようになさるだろうか」考えてごらんなさい。イエス様と同じように行いなさい!もしそうするなら、あなたは愛しているのです。
私の友人はあるとき不倫についての教会の見方についてインタヴューを受けました。質問者は3度も違う表現と違う根拠を持ち出しては自分自身が行っている不倫を正当化しようとしました。私の友人が「聖書には第六戒がある」と3度繰り返して答えたところ、その質問者は傷ついて、「あなたたちの中にはもっと事情に通じている専門家はいないのか」と尋ねました。不倫についての聖書の取る立場があまりにも嫌だったので、質問者はそれを斥けて、もっと自分にとって都合のよい答えを聞きたくなったのでした。聖書の 多くの命令は、それらがまさしく「私たちが聞きたくないようなメッセージ」であるため、私たちにとって受け入れるのが難しいものなのです。なぜなら、聖書が言っていることとは違うことを私たち自身が行っているからです。そういうわけで「もうこのような聖書の命令は従う必要がないだろう」としばしば言われたりするのです。
聖書の中には「古びた命令」があるのでしょうか。つまり現代の世界ではもはや従う必要がなくなった命令があるのでしょうか。私たちよりも優れた回答者である「神様の御子」が正しい答えを教えてくださっています。
「私はあなたがたにまことのこと[1]を告げます。天地が消え去るまでは、すべてがなるまでは、律法から一点[2]、一画[3]もすたることはありません。」(マタイによる福音書5章18節)。聖書は神様の御言葉です。神様は変わりません。神様が言われたことも変わりません。神様が罪と定められたことは罪です。それは罪であったし、今も罪であるし、これからも罪です。たとえ私たちが「どうしてそれがもはや罪ではないか」よい説明をこしらえたとしても。あるいは、たとえ私たちが行っていることがあまりにも一般的でもはやそれが罪とはみなされてはいなかったり、少なくとも悪質の罪であるとはみなされていない場合であっても。神様をうそつき呼ばわりするのは神様を侮蔑することです。「(自分たちにとって都合の悪い)神様の御言葉のこの部分とあの部分はもはや有効ではない」などと考えている者は、神様をうそつき呼ばわりしています。大切なのは、「私たち人間は罪に堕落した存在であり、それゆえ正しいことと間違っていることとについての私たちの理解はおかしくなっていること」を強調することです。人間とは違って、神様は堕落なさったりはしませんでした。「神様は小さい罪と大きな罪とを分け隔てはなさらない」ということも覚えておいたほうがよいでしょう。神様の命じておられることを破るとき、私たちはいつでも大きな罪を犯しているのです。それがたとえ私たち自身にとってはどんなにとるに足りない些細なことに感じられたとしてもです。「地獄の火に投げ込まれるのが当然なのは人殺しだけではなく、他の人を馬鹿と言う者もそうである」とイエス様は教えてくださいました。神様の目には小さい罪も大きな罪です。そして、その逆ではありません。
聖書には私たちクリスチャンには直接かかわりがないことがらも確かにあります。かつて神様は旧約に属しイスラエルの民のみが従わなければならなかったいろいろな命令をお与えになりました。犠牲をささげることについての多くの規定はそのような命令であるし、「血を避けよ」という聖書の禁止命令も旧約の民に与えられた命令です。聖書自身「新約が結ばれた以上、これらの規定はもはや私たちにはかかわりがない」と言っています[4]。なぜなら、これらの規定には実はたったひとつの目的があるからです。それは人間を罪の呪いから解放して人間に義をもたらすことです。神様の御子が十字架で死んで、世界全体をその罪の呪いから解放し、皆のために義を備えてくださいました。それゆえ、モーセの律法の多くの規定にはもはや従う必要はなく、また従ってはいけないのです。それらに従うことはイエス様の死を侮蔑することです。なぜなら、それは自分自身の行いによって救いを得ようとする試みだからです。しかし、「救い」はイエス様が私たちにすでに確保してくださったのであり、救いを得るために私たちが何かを行うことなどまったくなしに、イエス様が私たちに賜物として与えたいと望まれているものです。
楽園で悪魔は人間が神様の御言葉を疑うように仕向けることに成功しました。悪魔は神様の明瞭な命令を迂回する言い訳を捏造し、人間が罪を行うようにさせました。同じように悪魔は今でも働きかけています。なぜ神様の御言葉のこれこれの箇所はまじめに受け取る必要がないか、悪魔は説明をひねりだします。聖書を軽んじたり、聖書が言っていることと異なることを行うように助言する「声」は悪魔の声です。たとえその声が教養があり理性的で愛に満ちているように感じられるものであったとしてもです。この問題の核心には「悪霊との戦い」があります。私たちは神様の聖霊様に聞き従っているでしょうか、それとも、悪魔の言うことを聞き入れてしまっているでしょうか。神様の霊は私たちを聖書に結び付けようと欲しています。それに対して、悪魔は私たちを聖書から引き離そうとします。
命じられていることや禁じられていることが「すべて」聖書に基づいているわけではありません。人間が自分で作り出し、私たちがそれらに従うように強制してくる「言い伝え」が今もたくさんあります。もしも人間たちが作った命令が神様の御言葉と同じレヴェルに置かれ、それらに従うことを要求される場合には、神様の御言葉が侮蔑されていることになります。なぜなら、そのときには「人間の意見」が神様の御言葉と同等のものとみなされているからです。あなたが何かをやるように要求されたり、何かをやらないように禁じられたりするときには、聖書のどの箇所でこのように命じられているか、尋ねなさい。もしもそのような箇所が見つからない場合には、そのような命令に従う必要はありません。
神様の命令を破ることは危険です。それには3つの理由があります。
1)神様は聖なるお方です。神様の御言葉を無視することは神様の聖性を傷つけます。神様は長い間人間たちの愚かな行いを耐えてこられました。しかし、遅かれ早かれ神様はお怒りになります。神様の怒りはすでにこの世において人に個人的に向けられることもあれば、ある国民全体に向けられることもあります。しまいには、この世が終わり皆が神様の御前に立ち裁きが始まるときに、神様の怒りは神様の命令を侮蔑する者たちに向けられることになります。
2)神様の命令を破ることによって人は神様から引き離されていきます。罪が人の良心を汚し、やましい良心で生きている者は神様を避けるようになります。人間は神様の命令を破れば破るほど、それだけ遠く神様から離れていきます。それは人間に起こりうる最悪の事態です。なぜなら、本来人は神様と共に生きるために創られたからです。神様の命令を気にもかけない態度は神様から人間を最終的に隔離してしまいます。これが「滅び」と呼ばれるものです。
3)神様の命令は「命の律法」です。もしもそれらに従うならば、従わない場合よりもよりよくこの世で生きていくことができます。
神様の律法は「どうすれば正しく生きられるか」について語っています。それに加えて命令にはもうひとつの大切な使命があります。それらは「私たちがどのような存在であるか」をありのままに示す「鏡」のようなものです。「どのように私は生きるべきであるか」について聞くときに、「私は正しく生きているか」という難しい問題の前に立たされます。正直に自分とその生活を省みる人は誰でも、「自分が正しくは生きてこなかった」ことを認めるほかないでしょう。ある人はあるやり方で、またある人は他のやり方で、また各人が多くのやり方で神様の命令を破ってきたのです。神様はこうしたことを憎んでおられます。それゆえ、私たちは皆それぞれが神様の裁きを受けるのが当たり前の存在なのです。
「フィンランドには罪人が少ないね」と、日本で伝道していたある宣教師がフィンランドに帰ってきた折に言いました。これは「私たちフィンランド人はあまりにもよい人になったため、もはや罪人とは呼べない」という意味ではありません。その人が言いたかったのは「フィンランド人は自分自身を罪人とはみなしてはいない」ということです。その宣教師はフィンランド国内を伝道してまわったときに、人々が福音に対して驚くほどわずかしか興味を示さないことに気が付いたのでした。「この国では人々が自分の悪さを理解せず、それゆえ恵みも必要とは感じていないためだからだろう」とその人は結論しました。「フィンランドには罪人があまりにも少なく、それゆえ福音を求めている人もとても少ない」ことがどうしてか、私はわかるような気がします。神様の律法について宣べ伝えられることがあまりにも少なすぎるのです。あるいは、あたかも人は自分の力で神様の命令を完全に守ることができるかのような誤解を招く仕方で、神様の律法が宣べ伝えられているからです。律法の使命は、人を捕らえてその罪をあらわにし、その人も他のすべての人と同様に罪人であり滅びるのが当然であるような存在だということを明瞭に示すことです。そして、このことを理解した者は福音を渇望するようになります。
「神様の命令を宣べ伝えてはいけない。必要なのは「優しい福音」だけだ」と考えている人たちもいます。これは正しくありません!もしも神様の御言葉が私たちに正しい理解を教えてくれなければ、正しいことと間違っていることについて私たちの理解は前よりもいっそうあいまいになってしまいます。私たちは毎瞬間イエス様を必要としているのであり、とりわけこのことを理解するために、私たちは神様の命令が必要なのです。律法なしでは私たちは「自分がその生き方によって神様を喜ばせることができるほどよい人である」かのように思い込むようになります。しかし、このような思い込みのすぐそばに滅びが待ち受けているのです。律法はこの思い込みをなぎ倒し、私たちについての真実の状態、私たち自身の悪さ、を明らかにします。そして、私たちが自分の罪の赦しを願い求めまたそれをいただくように、私たちをイエス様のみもとに追いやります。
律法は必要です。しかし、律法は誰も救いません。なぜなら、神様に受け入れていただけるほど「十分に」神様の律法を完全に実行できる人は誰もいないからです。それでは、何が救ってくれるのでしょうか。それは「福音」です。神様の福音はイエス様と十字架についてのメッセージです。神様の御子は裁きを受けました。それゆえ私たちは裁かれません。イエス様は御自分を犠牲としてささげられました。それゆえ私たちはそのすべての罪を神様から赦していただきました。イエス様は神様の律法をはじめからおわりまで完全に実行なさいました。このゆえに神様は「イエス様に避けどころを求める者」を御自分にふさわしい者とみなしてくださいます。彼らは自分たちの生き方に基づくならば神様に対してふさわしい者などではありえないのにです。イエス様は私たちに御自分の死によって神様の恵みを確保してくださいました。それが私たちの守りとなり、私たちは聖なる神様の御前で耐え切ることができるのです。神様の恵みは「キリストのもの」である者にとって守りなのです。「キリストのもの」というのは、キリストに所属するものとなるべく洗礼を授けられ、キリストを信じている人のことです。救いは「賜物」です。私たちはそれを何かの「報酬」として受け取ることはできないしその必要もありません。その賜物は、それを受け入れたい人なら誰でもただでいただけるものです。「人がどんな存在であり、人は何を行うことができるか」ということとはまったく関係なしにです。自分が罪人であり裁きを受けるのが当然であることを理解した者は、罪の呪いから解放してくださったお方についての福音を受け入れます。律法は、それがどのように宣べ伝えられようとも、イエス様への信仰を生み出したりはしません。それを可能にするのは福音のみです。私たちは信仰を通して救われますが、その信仰を強めてくれるのは、律法ではなく福音です。
私はどこから神様の御意思を満たす力を得るのでしょうか。「どのように生きるべきか」について正確に厳しく知らされても、私にはそんな元気は出ません。力を与えてくれるのは福音です。すなわち、「どれほどたくさん神様は私を愛してくださったか、また愛してくださっているか」、ちゃんと私は知っているということです。神様から賜物として永遠の命をいただく人は、神様に感謝するものです。神様に感謝するということは、生活の中で神様の御心を実現することです。福音から、すなわち「神様の恵みのみによって私は救われる」ということから、私は「神様の御心に適う生き方をしたい」という力と意志とをいただきます。私に対して信じられないほどよいお方、「私の御父様」に対して私は忠実でありたいです。それと同時に、「私たちは決して完全になることなどはありえないこと、また完全に近づくことすらありえないこと」を心に刻んでおく必要があります。
信仰が生活を「制限」するのは確かです。クリスチャンとして生きることは「神様を畏れること」です。神様を畏れることは「私が神様に完全に依存している」こと、すなわち「私の命は神様が私に何を与えてくださるか、神様は私に対して憐れみ深いだろうか、によって完全に左右されている」ということを理解することです。それゆえ私は神様を怒らせたいなどとは夢にも思いません。もしも私が神様を怒らせて悔い改めないままでいるならば、神様は私を認めたりはなさらないでしょう。そして私にはありとあらゆる悪いことが起こるでしょう。神様は御自分の御言葉が無視されることを憎んでおられます。それゆえ私には神様の御意志を無視して生きていくような真似はとてもできません。そんなことをすれば聖なる神様を怒らせることになるし、それを私は恐れているからです。このように信仰は私たちの生き方に制限を与えます。私は自分が生きたい放題の生き方をすることはできません。しかし、神様の命令が定めている限界は「よい限界」なのです。それらは命を守っています。もしもそれらに従うなら、多くの悪を避けることができます。
[1] 原語では「アーメン」。
[2] 原語では「イオータ」(ギリシア語の小さなアルファベット。英語のiに相当)。
[3] 原語の意味はアルファベットに付けられる「小さな飾りの記号」。たとえばイオータ・スブスクリプトゥム(ある種の長母音のアルファベットの下にくっついている非常に小さなイオータ記号のこと)。
[4] たとえばヘブライの信徒への手紙10章。
私は正しく生きているでしょうか。
ヤリ・ランキネン
神様は人を「御自分のかたち」に創られました。それは、神様は人をあることがらについては「神様と似たもの」となさった、という意味です。「神様のかたち」は、神様が知っておられるのと同様に、何が正しくて何がまちがっているか知っていました。神様のかたちとして人は「悪を避け正しく行動しなければならない」ことを理解し、また常に正しく行動しました。神様のかたちとして創られたということは、自分の行いについて神様に対して責任をもつということでもあります。神様は御自分のかたちに対して「神様のように生きていたか、正しいことを行ってきたか」について厳しいチェックを要求なさいます。ところが、はじめの人(アダムとエバ)が罪に堕落するということが起きてしまいました。その結果として人は「正しく生きるという能力」を失ってしまいました。罪の堕落が起きたため、私たち人間はするべきではないことを行い、しかもそれをせずにはおられなくなってしまいました。たとえそうすることが間違っているとわかっている場合であっても。たとえどんなに違った生き方をしようと努力しても。罪の堕落のもうひとつの結果として人は何が正しく何が間違っているかを知る能力がひどくあいまいになってしまいました。私たちの心の奥底も罪の堕落のために罪に汚されてしまっているため、正しいことを間違ったこととし、間違っていることを正しくみなしてしまうことがあるほどゆがんでしまっています。しかも実際にしばしばそのように行ってしまうのです。それゆえ、何が正しく何が間違っているかについての知識を私たち自身の「外側」から得る必要が私たちにはあります。確かに罪の堕落が起きてしまったとはいうものの、私たちは依然として「神様のかたち」なのです。私たちには正しいことと間違っていることについての理解が、たとえそれがどんなに曇ってしまっているとしても、残っており、私たちは自分の行なったことについて神様に対して責任を負うことになるのです。
罪の堕落は人を御自分のかたちとして創られたお方を汚しはしませんでした。創り主なる神様は何が正しく何が間違っているか、人の罪の堕落の前も後もかわりなく御存知で、常に正しく働かれています。神様は正しいことと間違っていることについての知識を御自分のものだけに留めてはおかれませんでした。神様はこれらについても私たちに御自分の御言葉をお与えになることによって語っておられます。それは次のふたつのことを意味しています。
1) 神様は聖書を与えてくださいました。神様の選ばれた人々が、神様が御自分で創られた人間に対して言われたいことを書き取りました。聖書には正しいことと間違っていることとについて聖書の立場を明瞭にしている箇所が数え切れないほどたくさんあります。それらは、何が正しく何が間違っているか正確に御存知である神様御自身の立場の表明なのです。それゆえ、正しいことと間違っていることとの感覚が曇ってしまっている私たち人間はそれらを注意深く聴いていくべきです。
2) 神様御自身がこの世に来られました。イエス様が人としてお生まれになったときにこのことは実現しました。イエス様は神様の御言葉であられ、神様御自身であられます。イエス様の中で「天地の主」が話し、教え、活動し、働きかけておられます。それゆえ、イエス様が正しいことと間違っていることとについて教えておられることは「神様の教え」なのです。私たちは「何が正しいか」を問うときには、「イエス様はどのように考えておられるか」について問うべきです。もしもそれを知るならば、私たちは神様の立場を知ることになります。イエス様のお考えについて私たちは聖書から知ることができます。聖書はまさしくイエス様についての書物なのですから。
聖書が何が正しく何が間違っているかについて語っていることは、人間が心の中でぼんやりと理解していことがらに対応しています。聖書が命じたり禁じたりしていることを聞くときに、あたかも私たちの心の中で誰かが「これは本当だよ」と言っているかのように感じるものです。たとえ人がそのあとで聖書の教えに反抗することになったとしてもです。これはどうしてでしょうか。それは、聖書が私たちの創り主の書物であり、私たちが私たちの創り主のかたちであるからです。人間ひとりひとりの中にある「何か」が、私たちの創り主が正しいことと間違っていることについて語っておられることがらに対応しているのです。このことは、私たちが聖書の命じていることがらをまわりにもはっきり語って、またそれに従って活動するように励ましてくれることでしょう。
ソヴィエト連邦では聖書の命じていることがらを教えることが禁止されました。聖書は廃棄され、また聖書の教えは人間たちが自分で考え出したいろいろな教えに取って代えられました。それらの新しい教えは聖書よりもずっと優れていると感じられたのです。さあ、何が起きたでしょうか。国民は盗んだり嘘をついたり周りの人を無視して生活することを学んでしまいました。国の経済もめちゃくちゃになり、前の「敵国」からの援助なしには立ち行かなくなりました。もっとも援助があっても厳しい状況はつづきましたが。自然もひどく破壊されました。ソヴィエト連邦ではこういう結果になりました。聖書やその命じていることが無視されているところではどこであれ、それと同じようなことが起こります。聖書は人間に最上の生活の教えを与えています。たとえば携帯電話など何か装置を使用するときに、その製造元が与えた装置の使用法を無視していると、その装置はまもなく壊れてしまいます。聖書ではこの世界の「製造元」が話しているのです。そしてこの「製作者」は、自分が創った世界でできるかぎり多くのものができるかぎりよい状態を保つためにはどのように生きていくべきなのか、よく知っています。
正しいことと間違っていることについての聖書の教えはすべて「愛の二重命令」に言い尽くされています。「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神様を愛しなさい。自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい。」(マタイによる福音書22章37、39節)。「愛さなければならない」ということについては、間違いなく私たち人間は皆同じ意見でしょう。しかし、「愛とは何か」という点に関してはいろいろな意見があります。「愛とは何であり、様々な状況でどのように愛を実現していくべきか」ということについては、私たちの「外部」から説明してもらえない限り、私たちは知ることができません。そして聖書の中でその説明がなされています。聖書の中にある他の命令は「愛の二重命令」を補足説明するものなのです。十戒は愛の命令をすでにかなり広範にわたって説明しています。第一戒から第三戒までは「神様を愛するとはどのようなことか」を説明しています。つまり、私たち人間が他の神々(偶像)に仕えたりしないこと、神様の御名をいたずらに用いたりしないこと、安息日を聖とすることです。第四戒から第十戒までは「隣り人を愛するとはどのようなことか」を説明しています。つまり、両親を敬うこと、殺さないこと、姦淫をしないこと、盗まないこと、偽証しないこと、他の人のものを欲しないことです。
聖書には他にもたくさんの命令があります。それらもまた「神様や他の人を愛するとはどういうことか」ということを説明しています。聖書は人がすべてのことについて神様に感謝するように命じています(テサロニケの信徒への第1の手紙5章18節)。それは神様に感謝することは神様を愛することだからです。聖書は「税金を払わなければならない」と教えています(ローマの信徒への手紙13章5~7節)。たとえそれが高すぎると感じられる場合であってもです。税金をごまかして申告をするのは他の人たちに対する愛の欠如のあらわれなのです。
イエス様が地上で何を行われたか、どのように活動されたか、何を話されたか、ということから私たちは「神様と隣り人を愛することがどういうことであるか」を知ります。イエス様の中で神様御自身が活動なさいました。そして神様は愛の命令を破ったりはなさいません。私たちだったらこうはしなかっただろうと思われるような状況の中でもイエス様は愛してくださり、正しく活動されました。「何が愛であり、どのように活動すべきか」考えるときに、「イエス様だったらこのような状況の中でどのようになさるだろうか」考えてごらんなさい。イエス様と同じように行いなさい!もしそうするなら、あなたは愛しているのです。
私の友人はあるとき不倫についての教会の見方についてインタヴューを受けました。質問者は3度も違う表現と違う根拠を持ち出しては自分自身が行っている不倫を正当化しようとしました。私の友人が「聖書には第六戒がある」と3度繰り返して答えたところ、その質問者は傷ついて、「あなたたちの中にはもっと事情に通じている専門家はいないのか」と尋ねました。不倫についての聖書の取る立場があまりにも嫌だったので、質問者はそれを斥けて、もっと自分にとって都合のよい答えを聞きたくなったのでした。聖書の 多くの命令は、それらがまさしく「私たちが聞きたくないようなメッセージ」であるため、私たちにとって受け入れるのが難しいものなのです。なぜなら、聖書が言っていることとは違うことを私たち自身が行っているからです。そういうわけで「もうこのような聖書の命令は従う必要がないだろう」としばしば言われたりするのです。
聖書の中には「古びた命令」があるのでしょうか。つまり現代の世界ではもはや従う必要がなくなった命令があるのでしょうか。私たちよりも優れた回答者である「神様の御子」が正しい答えを教えてくださっています。
「私はあなたがたにまことのこと[1]を告げます。天地が消え去るまでは、すべてがなるまでは、律法から一点[2]、一画[3]もすたることはありません。」(マタイによる福音書5章18節)。聖書は神様の御言葉です。神様は変わりません。神様が言われたことも変わりません。神様が罪と定められたことは罪です。それは罪であったし、今も罪であるし、これからも罪です。たとえ私たちが「どうしてそれがもはや罪ではないか」よい説明をこしらえたとしても。あるいは、たとえ私たちが行っていることがあまりにも一般的でもはやそれが罪とはみなされてはいなかったり、少なくとも悪質の罪であるとはみなされていない場合であっても。神様をうそつき呼ばわりするのは神様を侮蔑することです。「(自分たちにとって都合の悪い)神様の御言葉のこの部分とあの部分はもはや有効ではない」などと考えている者は、神様をうそつき呼ばわりしています。大切なのは、「私たち人間は罪に堕落した存在であり、それゆえ正しいことと間違っていることとについての私たちの理解はおかしくなっていること」を強調することです。人間とは違って、神様は堕落なさったりはしませんでした。「神様は小さい罪と大きな罪とを分け隔てはなさらない」ということも覚えておいたほうがよいでしょう。神様の命じておられることを破るとき、私たちはいつでも大きな罪を犯しているのです。それがたとえ私たち自身にとってはどんなにとるに足りない些細なことに感じられたとしてもです。「地獄の火に投げ込まれるのが当然なのは人殺しだけではなく、他の人を馬鹿と言う者もそうである」とイエス様は教えてくださいました。神様の目には小さい罪も大きな罪です。そして、その逆ではありません。
聖書には私たちクリスチャンには直接かかわりがないことがらも確かにあります。かつて神様は旧約に属しイスラエルの民のみが従わなければならなかったいろいろな命令をお与えになりました。犠牲をささげることについての多くの規定はそのような命令であるし、「血を避けよ」という聖書の禁止命令も旧約の民に与えられた命令です。聖書自身「新約が結ばれた以上、これらの規定はもはや私たちにはかかわりがない」と言っています[4]。なぜなら、これらの規定には実はたったひとつの目的があるからです。それは人間を罪の呪いから解放して人間に義をもたらすことです。神様の御子が十字架で死んで、世界全体をその罪の呪いから解放し、皆のために義を備えてくださいました。それゆえ、モーセの律法の多くの規定にはもはや従う必要はなく、また従ってはいけないのです。それらに従うことはイエス様の死を侮蔑することです。なぜなら、それは自分自身の行いによって救いを得ようとする試みだからです。しかし、「救い」はイエス様が私たちにすでに確保してくださったのであり、救いを得るために私たちが何かを行うことなどまったくなしに、イエス様が私たちに賜物として与えたいと望まれているものです。
楽園で悪魔は人間が神様の御言葉を疑うように仕向けることに成功しました。悪魔は神様の明瞭な命令を迂回する言い訳を捏造し、人間が罪を行うようにさせました。同じように悪魔は今でも働きかけています。なぜ神様の御言葉のこれこれの箇所はまじめに受け取る必要がないか、悪魔は説明をひねりだします。聖書を軽んじたり、聖書が言っていることと異なることを行うように助言する「声」は悪魔の声です。たとえその声が教養があり理性的で愛に満ちているように感じられるものであったとしてもです。この問題の核心には「悪霊との戦い」があります。私たちは神様の聖霊様に聞き従っているでしょうか、それとも、悪魔の言うことを聞き入れてしまっているでしょうか。神様の霊は私たちを聖書に結び付けようと欲しています。それに対して、悪魔は私たちを聖書から引き離そうとします。
命じられていることや禁じられていることが「すべて」聖書に基づいているわけではありません。人間が自分で作り出し、私たちがそれらに従うように強制してくる「言い伝え」が今もたくさんあります。もしも人間たちが作った命令が神様の御言葉と同じレヴェルに置かれ、それらに従うことを要求される場合には、神様の御言葉が侮蔑されていることになります。なぜなら、そのときには「人間の意見」が神様の御言葉と同等のものとみなされているからです。あなたが何かをやるように要求されたり、何かをやらないように禁じられたりするときには、聖書のどの箇所でこのように命じられているか、尋ねなさい。もしもそのような箇所が見つからない場合には、そのような命令に従う必要はありません。
神様の命令を破ることは危険です。それには3つの理由があります。
1)神様は聖なるお方です。神様の御言葉を無視することは神様の聖性を傷つけます。神様は長い間人間たちの愚かな行いを耐えてこられました。しかし、遅かれ早かれ神様はお怒りになります。神様の怒りはすでにこの世において人に個人的に向けられることもあれば、ある国民全体に向けられることもあります。しまいには、この世が終わり皆が神様の御前に立ち裁きが始まるときに、神様の怒りは神様の命令を侮蔑する者たちに向けられることになります。
2)神様の命令を破ることによって人は神様から引き離されていきます。罪が人の良心を汚し、やましい良心で生きている者は神様を避けるようになります。人間は神様の命令を破れば破るほど、それだけ遠く神様から離れていきます。それは人間に起こりうる最悪の事態です。なぜなら、本来人は神様と共に生きるために創られたからです。神様の命令を気にもかけない態度は神様から人間を最終的に隔離してしまいます。これが「滅び」と呼ばれるものです。
3)神様の命令は「命の律法」です。もしもそれらに従うならば、従わない場合よりもよりよくこの世で生きていくことができます。
神様の律法は「どうすれば正しく生きられるか」について語っています。それに加えて命令にはもうひとつの大切な使命があります。それらは「私たちがどのような存在であるか」をありのままに示す「鏡」のようなものです。「どのように私は生きるべきであるか」について聞くときに、「私は正しく生きているか」という難しい問題の前に立たされます。正直に自分とその生活を省みる人は誰でも、「自分が正しくは生きてこなかった」ことを認めるほかないでしょう。ある人はあるやり方で、またある人は他のやり方で、また各人が多くのやり方で神様の命令を破ってきたのです。神様はこうしたことを憎んでおられます。それゆえ、私たちは皆それぞれが神様の裁きを受けるのが当たり前の存在なのです。
「フィンランドには罪人が少ないね」と、日本で伝道していたある宣教師がフィンランドに帰ってきた折に言いました。これは「私たちフィンランド人はあまりにもよい人になったため、もはや罪人とは呼べない」という意味ではありません。その人が言いたかったのは「フィンランド人は自分自身を罪人とはみなしてはいない」ということです。その宣教師はフィンランド国内を伝道してまわったときに、人々が福音に対して驚くほどわずかしか興味を示さないことに気が付いたのでした。「この国では人々が自分の悪さを理解せず、それゆえ恵みも必要とは感じていないためだからだろう」とその人は結論しました。「フィンランドには罪人があまりにも少なく、それゆえ福音を求めている人もとても少ない」ことがどうしてか、私はわかるような気がします。神様の律法について宣べ伝えられることがあまりにも少なすぎるのです。あるいは、あたかも人は自分の力で神様の命令を完全に守ることができるかのような誤解を招く仕方で、神様の律法が宣べ伝えられているからです。律法の使命は、人を捕らえてその罪をあらわにし、その人も他のすべての人と同様に罪人であり滅びるのが当然であるような存在だということを明瞭に示すことです。そして、このことを理解した者は福音を渇望するようになります。
「神様の命令を宣べ伝えてはいけない。必要なのは「優しい福音」だけだ」と考えている人たちもいます。これは正しくありません!もしも神様の御言葉が私たちに正しい理解を教えてくれなければ、正しいことと間違っていることについて私たちの理解は前よりもいっそうあいまいになってしまいます。私たちは毎瞬間イエス様を必要としているのであり、とりわけこのことを理解するために、私たちは神様の命令が必要なのです。律法なしでは私たちは「自分がその生き方によって神様を喜ばせることができるほどよい人である」かのように思い込むようになります。しかし、このような思い込みのすぐそばに滅びが待ち受けているのです。律法はこの思い込みをなぎ倒し、私たちについての真実の状態、私たち自身の悪さ、を明らかにします。そして、私たちが自分の罪の赦しを願い求めまたそれをいただくように、私たちをイエス様のみもとに追いやります。
律法は必要です。しかし、律法は誰も救いません。なぜなら、神様に受け入れていただけるほど「十分に」神様の律法を完全に実行できる人は誰もいないからです。それでは、何が救ってくれるのでしょうか。それは「福音」です。神様の福音はイエス様と十字架についてのメッセージです。神様の御子は裁きを受けました。それゆえ私たちは裁かれません。イエス様は御自分を犠牲としてささげられました。それゆえ私たちはそのすべての罪を神様から赦していただきました。イエス様は神様の律法をはじめからおわりまで完全に実行なさいました。このゆえに神様は「イエス様に避けどころを求める者」を御自分にふさわしい者とみなしてくださいます。彼らは自分たちの生き方に基づくならば神様に対してふさわしい者などではありえないのにです。イエス様は私たちに御自分の死によって神様の恵みを確保してくださいました。それが私たちの守りとなり、私たちは聖なる神様の御前で耐え切ることができるのです。神様の恵みは「キリストのもの」である者にとって守りなのです。「キリストのもの」というのは、キリストに所属するものとなるべく洗礼を授けられ、キリストを信じている人のことです。救いは「賜物」です。私たちはそれを何かの「報酬」として受け取ることはできないしその必要もありません。その賜物は、それを受け入れたい人なら誰でもただでいただけるものです。「人がどんな存在であり、人は何を行うことができるか」ということとはまったく関係なしにです。自分が罪人であり裁きを受けるのが当然であることを理解した者は、罪の呪いから解放してくださったお方についての福音を受け入れます。律法は、それがどのように宣べ伝えられようとも、イエス様への信仰を生み出したりはしません。それを可能にするのは福音のみです。私たちは信仰を通して救われますが、その信仰を強めてくれるのは、律法ではなく福音です。
私はどこから神様の御意思を満たす力を得るのでしょうか。「どのように生きるべきか」について正確に厳しく知らされても、私にはそんな元気は出ません。力を与えてくれるのは福音です。すなわち、「どれほどたくさん神様は私を愛してくださったか、また愛してくださっているか」、ちゃんと私は知っているということです。神様から賜物として永遠の命をいただく人は、神様に感謝するものです。神様に感謝するということは、生活の中で神様の御心を実現することです。福音から、すなわち「神様の恵みのみによって私は救われる」ということから、私は「神様の御心に適う生き方をしたい」という力と意志とをいただきます。私に対して信じられないほどよいお方、「私の御父様」に対して私は忠実でありたいです。それと同時に、「私たちは決して完全になることなどはありえないこと、また完全に近づくことすらありえないこと」を心に刻んでおく必要があります。
信仰が生活を「制限」するのは確かです。クリスチャンとして生きることは「神様を畏れること」です。神様を畏れることは「私が神様に完全に依存している」こと、すなわち「私の命は神様が私に何を与えてくださるか、神様は私に対して憐れみ深いだろうか、によって完全に左右されている」ということを理解することです。それゆえ私は神様を怒らせたいなどとは夢にも思いません。もしも私が神様を怒らせて悔い改めないままでいるならば、神様は私を認めたりはなさらないでしょう。そして私にはありとあらゆる悪いことが起こるでしょう。神様は御自分の御言葉が無視されることを憎んでおられます。それゆえ私には神様の御意志を無視して生きていくような真似はとてもできません。そんなことをすれば聖なる神様を怒らせることになるし、それを私は恐れているからです。このように信仰は私たちの生き方に制限を与えます。私は自分が生きたい放題の生き方をすることはできません。しかし、神様の命令が定めている限界は「よい限界」なのです。それらは命を守っています。もしもそれらに従うなら、多くの悪を避けることができます。
[1] 原語では「アーメン」。
[2] 原語では「イオータ」(ギリシア語の小さなアルファベット。英語のiに相当)。
[3] 原語の意味はアルファベットに付けられる「小さな飾りの記号」。たとえばイオータ・スブスクリプトゥム(ある種の長母音のアルファベットの下にくっついている非常に小さなイオータ記号のこと)。
[4] たとえばヘブライの信徒への手紙10章。
2008年2月4日月曜日
信仰について子供にどのように教えればよいのでしょうか?
ヤリ・ランキネン
信仰について子供にどのように教えればよいのでしょうか?
子供たちに信仰について長年教えてきた私のある友人はこう言いました、「子供の心はイエス様の種まきのたとえ(マタイによる福音書13章)にでてくる「よい土地」と同じようなものです」。子供は心を開いており、教えられたことを素直に受け入れます。人は成長すると、心を閉じ、信仰の事柄を受け入れるのは、はるかに難しくなります。もちろん、神様に不可能なことは何もありませんが、こうした理由から、まさしく子供たちに神様について話すのは、本当に大切なことなのです。
子供の頃聖書の教えを心に蒔いてもらった人たちの多くは、たとえ大人になってから他の道に迷い込んでしまった場合でも、やがてそれらが間違っていることに気が付いて、信仰の道へと戻ってくることがしばしばあります。もっとも、その人の両親は自分の子供の悔い改めを見ることもなく、子供が不信仰の生活を送っていることを悲しみつつ、先に死んでしまうかもしれませんが。信仰者の家庭に育った子供たちは、信仰の中に活きます。彼らは、信仰の中に生活していない場合でも、「自分のしていることは間違っている」というやましい良心をもっており、何が正しいか実は知っている自分の良心にいつまでも逆らい続けることはできないものです。こういうわけですから、私たちも子供たちに信仰について熱心に教えようではありませんか。
現代の子供たちは、他のいろいろなことをたくさん学んでしまいます。たとえば、信仰の事柄は脇へ追いやられるか、禁じられます。子供の心は何か他のものでいっぱいになったりします。あるいは、信仰の事柄が作り話や他の宗教とごちゃ混ぜになったりします。とりわけテレビやインターネットなどのメディアが、子供にこのようなことを教えます。
「教える」とは、どのようなことですか?
私たちは子供を教会に連れて行ったり、子供と一緒に夜のお祈りをしたり、子供にときどき神様について話したりします。これらのことは、確かに大切ですが、まだ「教える」ことではありません。もしも子供に算数を教えるならば、子供の脇に座って、子供と一緒に問題を解きます。これと同じように信仰についても教えるべきです。時間を用意し、子供の脇に座り、子供と一緒に神様について話し、子供が理解したかどうか、質問します。
私たちは、息子ユホが学校に通うようになる前に、「十戒と使徒信条と主の祈りを学び覚えることにしよう」とユホと一緒に決めました。私たちは春と夏、何回にも渡って、一緒に座り、これらの事柄を学びました。私はひとつひとつ声に出して言い、息子はそれを繰り返して、暗唱しました。そしてそれから、今学んだことはどういう意味か、話し合いました。このようにして私たちは一緒に、信仰についてさまざまなたくさんのことを考えることができました。息子は注意深く聞き、また質問しました。息子は学び理解したと、私は信じています。息子はまた、父親である私に大切なことを教えてくれることがありました。私たちが第六戒(「あなたは姦淫してはならない」)を学んでいるとき、その命令がどのような意味か息子に尋ねたところ、ユホは少し考えてこう答えました、「もしも結婚して、結婚相手に気に入らないところがあるとわかっても、相手を捨ててはいけない、という意味でしょう」。信仰の大切な事柄を自分の子供に、たとえばこんな風にして、教えてみたらどうですか?少なくとも、たっぷり時間の余裕をとって子供と一緒に信仰について話し合ってください。こうすることで、信仰の事柄が子供にとって、他のことと同様、自然なことになります。
楽しいひととき
フィンランドでは戦時中にこういうことがありました。何人かの従軍牧師たちは、戦地で御言葉と祈りの集いが開かれている間、その場にいる兵士たちが配給のタバコを楽しむことができるよう願い出て、許可されました。そこには深い知恵がありました。私たち両親もそれと似たような次のことをしました。
私たちは、礼拝で説教が始まるときに、息子たちの手にお菓子の箱を渡しました。信仰について説教されている時について「楽しいひとときだった」という思い出が残るのは、大切です。こうすることで、御言葉が心に入りやすくなります。しかし、もしも説教を聞いているときに、苦しい圧迫されるような印象が子供に残るようだったら、逆効果です。
大き目の子供たちが御言葉の説教を聞くように強制することはできません。でも、聞くひとときが楽しくなるように工夫することはできます。お菓子などの手段を少しぐらい使ってもかまわないと思います。どんな理由から御言葉の説教を聞くことになるにせよ、神様の御言葉は子供や大人の心の中で働いてくださいます。
夜の聖書とお祈り
あなた方の家では夜の聖書とお祈りのひとときをもっていますか?それは別段手の込んだものである必要はありません。たとえば、居間か子供部屋で聖書か子供聖書かお祈りの本を読み、主の祈りを一緒にお祈りして、賛美歌を歌います。これらのひとときを通して、イエス様が言われるあの「よい種」が蒔かれるのです。御言葉を子供がちゃんと聞いているかどうか、おぼつかない場合でも、これは同じです。そして、この蒔かれた御言葉の種は、時が来れば芽を出します。夜の聖書とお祈りのひとときには、信仰やその日の出来事についても話し合うことができるように、時間を用意しておきましょう。また、今読んだ聖書の箇所について質問してみましょう。子供たちからしばしば驚くようなすばらしい答えが返ってきますよ。
何を教えるべきなのでしょうか?
子供は正直ですし、また相手からも正直であることを要求します。すでに教えたことをないがしろにしてはいけません。もしもそうするなら、「信仰についての話はすべてうそだったのか」と、子供は心の中で疑うようになります。「滅び」が存在することを教えた後で、「誰でも皆天国に行ける」と、子供に言ってはいけません。まさにこのことについて正直であるのは難しいものです。私が言いたいのは、イエス様とはまるで関係がないように生活していた隣人が死んだとき、「あの人は間違いなく滅びに落ちた」と子供に言わなければならない、ということではありません。「正直である」ということは、「あの人がどうなったかは、私たちにはわからない。あの人のことは神様の御手にゆだねよう。神様はあの人を、御自分がよいと思われるように裁かれるだろう。しかし、私たちはイエス様を信じている。だから、絶対に天国にいける」と子供に言うことです。
子供にも律法と福音を教えるべきです。神様の御命令がなんと言っているか、子供に語りなさい。罪を憎まれる聖なるお方、偉大なる神様について話しなさい。「イエス様は私たちのために死んでくださった。すべての罪は赦されている。イエス様の死のおかげで、私はそのままで神様に認め受け入れていただける」ということを語りなさい。私たちを愛し、憐れみ、天の家へと導いてくださる神様について、子供に話しなさい。
神様に話しなさい。
ある友人は私にこう言いました、「私の父は家にいることがほとんどなくて、この信仰を私に教えてくれる暇がありませんでした。でも、父が旅行中私のためにたくさん祈ってくれていたことを、私は知っています。私が今信じているのも、父の祈りの影響が大いにあると信じています」。もしもあなたがなんらかの理由で神様について子供たちに話せないときには、子供たちについて神様に話しなさい。それにも奇跡のような効果があります。
信仰について子供にどのように教えればよいのでしょうか?
子供たちに信仰について長年教えてきた私のある友人はこう言いました、「子供の心はイエス様の種まきのたとえ(マタイによる福音書13章)にでてくる「よい土地」と同じようなものです」。子供は心を開いており、教えられたことを素直に受け入れます。人は成長すると、心を閉じ、信仰の事柄を受け入れるのは、はるかに難しくなります。もちろん、神様に不可能なことは何もありませんが、こうした理由から、まさしく子供たちに神様について話すのは、本当に大切なことなのです。
子供の頃聖書の教えを心に蒔いてもらった人たちの多くは、たとえ大人になってから他の道に迷い込んでしまった場合でも、やがてそれらが間違っていることに気が付いて、信仰の道へと戻ってくることがしばしばあります。もっとも、その人の両親は自分の子供の悔い改めを見ることもなく、子供が不信仰の生活を送っていることを悲しみつつ、先に死んでしまうかもしれませんが。信仰者の家庭に育った子供たちは、信仰の中に活きます。彼らは、信仰の中に生活していない場合でも、「自分のしていることは間違っている」というやましい良心をもっており、何が正しいか実は知っている自分の良心にいつまでも逆らい続けることはできないものです。こういうわけですから、私たちも子供たちに信仰について熱心に教えようではありませんか。
現代の子供たちは、他のいろいろなことをたくさん学んでしまいます。たとえば、信仰の事柄は脇へ追いやられるか、禁じられます。子供の心は何か他のものでいっぱいになったりします。あるいは、信仰の事柄が作り話や他の宗教とごちゃ混ぜになったりします。とりわけテレビやインターネットなどのメディアが、子供にこのようなことを教えます。
「教える」とは、どのようなことですか?
私たちは子供を教会に連れて行ったり、子供と一緒に夜のお祈りをしたり、子供にときどき神様について話したりします。これらのことは、確かに大切ですが、まだ「教える」ことではありません。もしも子供に算数を教えるならば、子供の脇に座って、子供と一緒に問題を解きます。これと同じように信仰についても教えるべきです。時間を用意し、子供の脇に座り、子供と一緒に神様について話し、子供が理解したかどうか、質問します。
私たちは、息子ユホが学校に通うようになる前に、「十戒と使徒信条と主の祈りを学び覚えることにしよう」とユホと一緒に決めました。私たちは春と夏、何回にも渡って、一緒に座り、これらの事柄を学びました。私はひとつひとつ声に出して言い、息子はそれを繰り返して、暗唱しました。そしてそれから、今学んだことはどういう意味か、話し合いました。このようにして私たちは一緒に、信仰についてさまざまなたくさんのことを考えることができました。息子は注意深く聞き、また質問しました。息子は学び理解したと、私は信じています。息子はまた、父親である私に大切なことを教えてくれることがありました。私たちが第六戒(「あなたは姦淫してはならない」)を学んでいるとき、その命令がどのような意味か息子に尋ねたところ、ユホは少し考えてこう答えました、「もしも結婚して、結婚相手に気に入らないところがあるとわかっても、相手を捨ててはいけない、という意味でしょう」。信仰の大切な事柄を自分の子供に、たとえばこんな風にして、教えてみたらどうですか?少なくとも、たっぷり時間の余裕をとって子供と一緒に信仰について話し合ってください。こうすることで、信仰の事柄が子供にとって、他のことと同様、自然なことになります。
楽しいひととき
フィンランドでは戦時中にこういうことがありました。何人かの従軍牧師たちは、戦地で御言葉と祈りの集いが開かれている間、その場にいる兵士たちが配給のタバコを楽しむことができるよう願い出て、許可されました。そこには深い知恵がありました。私たち両親もそれと似たような次のことをしました。
私たちは、礼拝で説教が始まるときに、息子たちの手にお菓子の箱を渡しました。信仰について説教されている時について「楽しいひとときだった」という思い出が残るのは、大切です。こうすることで、御言葉が心に入りやすくなります。しかし、もしも説教を聞いているときに、苦しい圧迫されるような印象が子供に残るようだったら、逆効果です。
大き目の子供たちが御言葉の説教を聞くように強制することはできません。でも、聞くひとときが楽しくなるように工夫することはできます。お菓子などの手段を少しぐらい使ってもかまわないと思います。どんな理由から御言葉の説教を聞くことになるにせよ、神様の御言葉は子供や大人の心の中で働いてくださいます。
夜の聖書とお祈り
あなた方の家では夜の聖書とお祈りのひとときをもっていますか?それは別段手の込んだものである必要はありません。たとえば、居間か子供部屋で聖書か子供聖書かお祈りの本を読み、主の祈りを一緒にお祈りして、賛美歌を歌います。これらのひとときを通して、イエス様が言われるあの「よい種」が蒔かれるのです。御言葉を子供がちゃんと聞いているかどうか、おぼつかない場合でも、これは同じです。そして、この蒔かれた御言葉の種は、時が来れば芽を出します。夜の聖書とお祈りのひとときには、信仰やその日の出来事についても話し合うことができるように、時間を用意しておきましょう。また、今読んだ聖書の箇所について質問してみましょう。子供たちからしばしば驚くようなすばらしい答えが返ってきますよ。
何を教えるべきなのでしょうか?
子供は正直ですし、また相手からも正直であることを要求します。すでに教えたことをないがしろにしてはいけません。もしもそうするなら、「信仰についての話はすべてうそだったのか」と、子供は心の中で疑うようになります。「滅び」が存在することを教えた後で、「誰でも皆天国に行ける」と、子供に言ってはいけません。まさにこのことについて正直であるのは難しいものです。私が言いたいのは、イエス様とはまるで関係がないように生活していた隣人が死んだとき、「あの人は間違いなく滅びに落ちた」と子供に言わなければならない、ということではありません。「正直である」ということは、「あの人がどうなったかは、私たちにはわからない。あの人のことは神様の御手にゆだねよう。神様はあの人を、御自分がよいと思われるように裁かれるだろう。しかし、私たちはイエス様を信じている。だから、絶対に天国にいける」と子供に言うことです。
子供にも律法と福音を教えるべきです。神様の御命令がなんと言っているか、子供に語りなさい。罪を憎まれる聖なるお方、偉大なる神様について話しなさい。「イエス様は私たちのために死んでくださった。すべての罪は赦されている。イエス様の死のおかげで、私はそのままで神様に認め受け入れていただける」ということを語りなさい。私たちを愛し、憐れみ、天の家へと導いてくださる神様について、子供に話しなさい。
神様に話しなさい。
ある友人は私にこう言いました、「私の父は家にいることがほとんどなくて、この信仰を私に教えてくれる暇がありませんでした。でも、父が旅行中私のためにたくさん祈ってくれていたことを、私は知っています。私が今信じているのも、父の祈りの影響が大いにあると信じています」。もしもあなたがなんらかの理由で神様について子供たちに話せないときには、子供たちについて神様に話しなさい。それにも奇跡のような効果があります。
2008年1月22日火曜日
「結婚前の性的関係、同棲、結婚」と聖書
エルッキ・コスケンニエミ
とりわけクリスチャンの若者の間で一番興味をもたれまた大切なテーマは、聖書は結婚前の性的関係について、婚約について、またいつ結婚が正式に始まるかについて何を教えているか、ということです。
これから旧約聖書と新約聖書の背景、すなわち神様の御言葉をふまえて、このテーマを考えてみることにしましょう。
フィンランドの現在の状況を考えるために、その歴史的背景を知っておく必要があります。フィンランドでは「同棲」が社会的制度として認められています。それは1960年代までは非常にまれだったものの、その後急速に増え広がりました。この一般的な状況の変化とともに、教会の一般的な教えは「結婚前の性的関係が罪である」ことに対して確信を失ってしまいました。議論の的となったのは「結婚が正式に始まる瞬間」です。
「結婚に基づく性的関係は本当に結婚式での「牧師のアーメン」の後から始まるのだろうか。結婚前に一緒に生活することを試してみてもよいのではないか。外面的な「結婚式」という儀礼などなくても。その代わりに当事者同士で交わされた約束で十分ではないか」などという主張がなされました。
1.旧約聖書
旧約聖書は「結婚」を非常に敬い大切にしています。このことはすでに創世記の2章にあらわれており、結婚が社会における基本的な単位を構成していることを告げています。興味深いのはこのことを裏付ける次の規定です。婚約したばかりの男性は戦争に参加してはならず、自分の妻のそばにいなければなりませんでした。
「女性と婚約して、まだその女性と結婚していない者があれば、その人を家に帰らせなければなりません。そうしなければ、彼が戦いで死んだ場合に、他の人が彼女と結婚するようになるでしょう。」(申命記20章7節)
旧約聖書の世界では多くの点で家族の父親が中心的な役割を担っています。中近東での一般的な慣習と同様に、イスラエルでも両親が自分の子供の結婚式の準備をしたと思われます。もっともモーセの律法はこのことについては何の規定も設けてはいませんが。
旧約聖書の世界では「結婚する時に花嫁は処女でなければならない」ことは自明でした。結婚する時に花嫁が処女ではなかった場合について、申命記22章20~21節は花嫁に対して死刑を定めています。この規定は創世記38章のユダとタマルの出来事にも関わっています。
重大で死刑にあたる犯罪としては他に「姦淫の罪」がありました。これは結婚している男性が他の人の妻と性的関係を持つことを意味しています。一方で、旧約聖書には男たちが道端の娼婦と性的関係をもちながらも罰せられなかったように見える記述があります(たとえば前述の創世記38章のユダの振る舞い)。このように旧約聖書は中近東の(男性と女性に対して別々の)「二重道徳」を浮き彫りにしていますが、モーセの律法にはそのような二重道徳を正当化するような規定はまったくありません。
2.新約聖書
A) どのように人々は結婚しましたか。
ユダヤ人たちの結婚はおそらくすでにイエス様の時代に三つのことなる段階を経て実現しました。まずはじめに「婚約」です。人が婚約する時に花嫁と花婿の両親は結婚式について話し合って決めます。この後に花嫁の家で証人を前にして結婚の誓約がなされ、花婿は花嫁に贈物を届けます。性的な肉体関係はまだ許されていませんでしたが、この段階では結婚を取り消すことはもはやできませんでした。第三番目の最後の段階はおそらくそれから一年たってようやく実現しました。その時にけたたましい歓喜に包まれた結婚式のお祝いの中で花婿と花嫁は最終的に「結婚」しました。その日には友人たちが花嫁を花嫁の家でお祝いの服に着替えさせます。そして花婿の訪れを待ち始めます。花婿が友達と共に姿を見せると、中東的なにぎやかな結婚のお祝いが始まります。そこでは花嫁と花婿は喜びを分かち合っている周りの人たちによって彼らの新居に運ばれていきます。
私たちはこのような「結婚」の仕方に聖書のいろいろなテキストの中で出会います。マリアとヨセフは婚約していました。しかし、ヨセフはマリアに生れようとしている子どもがヨセフの子ではないことを知っていました。なぜなら、結婚前に性的関係をもつことは許されてはいなかったからです。イエス様は結婚のお祝いを、御自分の再臨や最後の裁きや天国での大いなる喜びを教える譬えのイメージとしてしばしば用いておられます。
B) 御言葉
このテーマに関係している新約聖書のもっとも重要な(ギリシア語の)言葉は「モイケイア」や「ポルネイア」やこれらの言葉と似た意味を持つ他の言葉です。
「モイケイア」は聖書では「姦淫」と訳されることが多くあります。そして「姦淫」は当然罪であるとして裁かれています。たとえばコリントの信徒への第1の手紙6章9~11節には人が神様の御国を受け継ぐことができなくしてしまうようないろいろな罪が挙げられており、姦淫もそのリストの中に入っています。しかしこのことは、旧約聖書がユダヤ人の信仰に与えている背景を知っている者にとっては驚きではありません。
もうひとつの言葉「ポルネイア」は「不品行」と訳されています。「モイケイア」が姦淫の罪に関係しているのに対して、「ポルネイア」は結婚の外部でなされる(男女間の)性的関係を意味する一般的な言葉です。この言葉はまたときには姦淫を意味することもあります。この言葉の基となっているのは「ポルネー」という言葉で、非常に古い歴史をもつある種の職業で自分を養っている女性のことを意味しています。つまりこの言葉の意味にははっきりとした色付けがなされています。そして、これらを聖書は厳しく罪に定めているのです。
さて今度は神様御自身が語られていることを聴きましょう。
「すなわち内部から、人々の心の中から、悪い思いが出て来ます。不品行(ポルネイアイ)、盗み、殺人、 姦淫(モイケイアイ)、貪欲、邪悪[1]、欺き、好色、妬み[2]、誹り、高慢、愚痴。」(マルコによる福音書7章21~22節)
「それとも、あなたがたは正しくない者たちが神の国を受け継ぐことはないのを知らないのですか。まどわされてはいけません。不品行な者たち(ポルノイ)、偶像を礼拝する者たち、姦淫をする者たち(モイコイ)、男娼となる者たち[3]、男色をする者たち[4]、盗む者たち、貪欲な者たち、酒に酔う者たち、そしる者たち、略奪する者たちは、いずれも神様の御国を受け継ぐことはないのです。」(コリントの信徒への第1の手紙6章9~10節)
「不品行(ポルネイア)を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にあります。しかし不品行をする者は自分のからだに対して罪を犯すのです。「あなたがたのからだは神様からいただいてあなたがたの内に宿っておられる聖霊様の神殿であって、あなたがたは自分自身のものではない」ということをあなたがたは知らないのですか。あなたがたは大きな代価を払って買いとられたのです。それだから、自分のからだをもって神様の栄光をあらわしなさい。」(コリントの信徒への第1の手紙6章18~20節)
「私が再びそちらに行った場合、私の神様があなたがたの前で私をへりくだらせることにならないでしょうか。そして、前に罪を犯していた多くの人たちが、その汚れと不品行(ポルネイア)と好色の中に活動を続け、それらを悔い改めもしないので、私は悲しむことになりはしないでしょうか。」(コリントの信徒への第2の手紙12章21節)
「肉の働きは明白です。すなわち、不品行(ポルネイア)、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、自分中心のグループを作ること、違った考え、異端、ねたみ、泥酔、度を過ごしたパーティー、またそのたぐいのことです。私は以前も言ったように、今も前もって言っておきます。このようなことを行う者は神様の御国を受け継ぐことがありません。」(ガラテアの信徒への手紙5章19~21節)
「また、不品行(ポルネイア)やあらゆる汚れや貪欲については、あなたがたの間では口にすることさえしてはなりません。そうするのが聖徒にふさわしいことだからです。」(エフェソの信徒への手紙5章3節)
「神様のみこころは、あなたがたが聖くなり、不品行(ポルネイア)を避け、各自、気をつけて自分のからだ(スケウオス、器)を聖く尊く保つことです。」(テサロニケの信徒への第1の手紙4章3~4節)
上に挙げた聖書の箇所の言い方には非常に厳しいものがあります。「不品行」を行う者(男性も女性も)について、彼らは神様の御国を受け継ぐことができない、と何箇所かで言われています。性的肉体関係は結婚にのみ属することです。ヘブライの信徒への手紙13章4節で言われている通りです。
「結婚はあらゆる点で尊いことです。また夫婦の寝床は汚れなく保たれるべきです。なぜなら、神様は不品行な者たち(ポルヌース)や姦淫をする者たち(モイクース)をお裁きになるからです。」(ヘブライの信徒への手紙13章4節)
C) クリスチャンではない人たちの結婚
興味深くまた大切なのは、聖書に根ざしている教会でその初期から今に至るまで続いている考え方です。海外宣教を行っている教会はクリスチャンではない人たちの結婚をまじめに受け止めてきました。コリントの信徒への第1の手紙7章は「夫婦のうち片方がクリスチャンでもう片方がクリスチャンではない場合、信仰者の方が信仰者ではない方を見捨ててはいけない」と明瞭に指示しています。この教えは、結婚がたんに人間の信仰に基づくものではなく、神様御自身が結婚を設定なさったことに基づいています。こうした理由から、たとえばクリスチャンになった夫婦を再び教会で結婚させることはありません。たとえば他の宗教のどのようなやり方で結婚式がもたれたにせよ、彼らはすでに「結婚」しているのです。
3.私たちは?
神様を見出した人たちにとって、結婚前の性的関係や結婚の外部での性的関係は重い罪です。現代どれだけ多くの人々が私たちの周りでそうしたことを行っているとしても、それらが罪であることはかわりません。
聖書が「結婚という制限を越えた性的関係」を拒絶している理由を、「神様はこの世界に結婚の外部で生れた子どもたちを望まなかったからだ」と説明付ける人たちがいます。「しかし、避妊の技術が発達した今、もはや以前と同じ問題はない」と言うのです。しかし、このように神様のお定めになったことの「背後」からこの問題を理解するための理由を探り出そうとするのは、非常に危険なことです。イエス・キリストは昨日も今日も永遠に同じです。この御言葉はもともとの文脈(ヘブライの信徒への手紙13章8節)の中では、「主はいつも同じなので、クリスチャンに与えられている規定もまたかわることがなくいつまでも同じだ」ということを意味しています。
それでは、私たちクリスチャンの結婚はいつ始まるのでしょうか?牧師が「アーメン」と宣言したときでしょうか?この世にはどうとでも解釈できることがらがいろいろあります。
しかし、「人が結婚しているかしていないか」ということはそうではありません。結婚は社会的なことがらであり、役人や法律家や結婚している本人がちゃんと知っていることです。人は結婚しているかしていないかのどちらかです。私は牧師としてたくさんの夫婦の結婚式の司式をしてきましたが、「結婚した」のは一回だけ、自分の結婚だけです。結婚式を司式するときに、結婚するのは私ではなく、結婚しようとしている夫婦です。私は彼らが互いに相手を結婚相手として受け入れ、結婚の責任と義務とを担う意志があるかどうか、彼らにたずねます。もしも彼らがそうする意志がある場合には、彼らは結婚したのです。牧師としての私の責任は祈ることであり、結婚式のあとで賓客を祝会のほうへと導くことです(もしも結婚式のときに「花嫁ミサ」を執り行わない場合には)。「同棲」は、それがたとえ社会制度的に認められている場合であっても、クリスチャンにとっては結婚前の性的関係にほかならず、罪なのです。
この小文の目的は、聖書が「結婚前の性的関係や同棲や結婚」について何を教えているか、はっきりさせることでした。こうした問題に関係して実際に起きてしまっている「混乱」に対してどのように対処していくべきかについては、また別に考える必要があります。こうした「混乱」を悪化させたのは、フィンランドの教会内にあるこのテーマに関する間違った教えです。「聖書によれば結婚前の性的関係は間違ったことであり罪である」ことを知っている人が今やいったいどれほどいるでしょうか。
主イエス様が罪人たちに対して、とりわけこの問題の領域で間違った道を歩んでいた人たちどのような態度を取られたか、ここで思い起こしましょう。いろいろな男たちにもてあそばれた女性がファリサイ派の家におられたイエス様のみもとに来て、それまでの自分ののろわれた人生と間違った生き方を涙と共に注ぎだしました。イエス様は彼女がそうするままになさいました。そして彼女を追い払うようなことはなさいませんでした。
「そして、(イエス様は)その女性に、「あなたの罪[5]は赦されました[6]」と言われました。すると同じ食事の席に連なっていた者たちが心の中で言いはじめました、「罪[7]を赦す[8]ことさえするこの人は、いったい何者だろう」。しかし、イエス様は女性にむかって言われました、「あなたの信仰があなたを救ったのです[9]。平和の中に行きなさい」。」
(ルカによる福音書7章48~50節)
以下の註は訳者によるものです。
[1] ここまでは複数形です。
[2] 「妬み」を直訳すると「悪い目」です。妬みの心は確かに目つきを悪くしますね。
[3] 「マラコイ」は男性の同性愛での受動的な役割の側を指します。
[4] 「アルセノコイタイ」は男性の同性愛での能動的な役割の側を指します。
[5] 複数形。
[6] 受動態完了形。
[7] 複数形。
[8] 現在形。
[9] 完了形。
とりわけクリスチャンの若者の間で一番興味をもたれまた大切なテーマは、聖書は結婚前の性的関係について、婚約について、またいつ結婚が正式に始まるかについて何を教えているか、ということです。
これから旧約聖書と新約聖書の背景、すなわち神様の御言葉をふまえて、このテーマを考えてみることにしましょう。
フィンランドの現在の状況を考えるために、その歴史的背景を知っておく必要があります。フィンランドでは「同棲」が社会的制度として認められています。それは1960年代までは非常にまれだったものの、その後急速に増え広がりました。この一般的な状況の変化とともに、教会の一般的な教えは「結婚前の性的関係が罪である」ことに対して確信を失ってしまいました。議論の的となったのは「結婚が正式に始まる瞬間」です。
「結婚に基づく性的関係は本当に結婚式での「牧師のアーメン」の後から始まるのだろうか。結婚前に一緒に生活することを試してみてもよいのではないか。外面的な「結婚式」という儀礼などなくても。その代わりに当事者同士で交わされた約束で十分ではないか」などという主張がなされました。
1.旧約聖書
旧約聖書は「結婚」を非常に敬い大切にしています。このことはすでに創世記の2章にあらわれており、結婚が社会における基本的な単位を構成していることを告げています。興味深いのはこのことを裏付ける次の規定です。婚約したばかりの男性は戦争に参加してはならず、自分の妻のそばにいなければなりませんでした。
「女性と婚約して、まだその女性と結婚していない者があれば、その人を家に帰らせなければなりません。そうしなければ、彼が戦いで死んだ場合に、他の人が彼女と結婚するようになるでしょう。」(申命記20章7節)
旧約聖書の世界では多くの点で家族の父親が中心的な役割を担っています。中近東での一般的な慣習と同様に、イスラエルでも両親が自分の子供の結婚式の準備をしたと思われます。もっともモーセの律法はこのことについては何の規定も設けてはいませんが。
旧約聖書の世界では「結婚する時に花嫁は処女でなければならない」ことは自明でした。結婚する時に花嫁が処女ではなかった場合について、申命記22章20~21節は花嫁に対して死刑を定めています。この規定は創世記38章のユダとタマルの出来事にも関わっています。
重大で死刑にあたる犯罪としては他に「姦淫の罪」がありました。これは結婚している男性が他の人の妻と性的関係を持つことを意味しています。一方で、旧約聖書には男たちが道端の娼婦と性的関係をもちながらも罰せられなかったように見える記述があります(たとえば前述の創世記38章のユダの振る舞い)。このように旧約聖書は中近東の(男性と女性に対して別々の)「二重道徳」を浮き彫りにしていますが、モーセの律法にはそのような二重道徳を正当化するような規定はまったくありません。
2.新約聖書
A) どのように人々は結婚しましたか。
ユダヤ人たちの結婚はおそらくすでにイエス様の時代に三つのことなる段階を経て実現しました。まずはじめに「婚約」です。人が婚約する時に花嫁と花婿の両親は結婚式について話し合って決めます。この後に花嫁の家で証人を前にして結婚の誓約がなされ、花婿は花嫁に贈物を届けます。性的な肉体関係はまだ許されていませんでしたが、この段階では結婚を取り消すことはもはやできませんでした。第三番目の最後の段階はおそらくそれから一年たってようやく実現しました。その時にけたたましい歓喜に包まれた結婚式のお祝いの中で花婿と花嫁は最終的に「結婚」しました。その日には友人たちが花嫁を花嫁の家でお祝いの服に着替えさせます。そして花婿の訪れを待ち始めます。花婿が友達と共に姿を見せると、中東的なにぎやかな結婚のお祝いが始まります。そこでは花嫁と花婿は喜びを分かち合っている周りの人たちによって彼らの新居に運ばれていきます。
私たちはこのような「結婚」の仕方に聖書のいろいろなテキストの中で出会います。マリアとヨセフは婚約していました。しかし、ヨセフはマリアに生れようとしている子どもがヨセフの子ではないことを知っていました。なぜなら、結婚前に性的関係をもつことは許されてはいなかったからです。イエス様は結婚のお祝いを、御自分の再臨や最後の裁きや天国での大いなる喜びを教える譬えのイメージとしてしばしば用いておられます。
B) 御言葉
このテーマに関係している新約聖書のもっとも重要な(ギリシア語の)言葉は「モイケイア」や「ポルネイア」やこれらの言葉と似た意味を持つ他の言葉です。
「モイケイア」は聖書では「姦淫」と訳されることが多くあります。そして「姦淫」は当然罪であるとして裁かれています。たとえばコリントの信徒への第1の手紙6章9~11節には人が神様の御国を受け継ぐことができなくしてしまうようないろいろな罪が挙げられており、姦淫もそのリストの中に入っています。しかしこのことは、旧約聖書がユダヤ人の信仰に与えている背景を知っている者にとっては驚きではありません。
もうひとつの言葉「ポルネイア」は「不品行」と訳されています。「モイケイア」が姦淫の罪に関係しているのに対して、「ポルネイア」は結婚の外部でなされる(男女間の)性的関係を意味する一般的な言葉です。この言葉はまたときには姦淫を意味することもあります。この言葉の基となっているのは「ポルネー」という言葉で、非常に古い歴史をもつある種の職業で自分を養っている女性のことを意味しています。つまりこの言葉の意味にははっきりとした色付けがなされています。そして、これらを聖書は厳しく罪に定めているのです。
さて今度は神様御自身が語られていることを聴きましょう。
「すなわち内部から、人々の心の中から、悪い思いが出て来ます。不品行(ポルネイアイ)、盗み、殺人、 姦淫(モイケイアイ)、貪欲、邪悪[1]、欺き、好色、妬み[2]、誹り、高慢、愚痴。」(マルコによる福音書7章21~22節)
「それとも、あなたがたは正しくない者たちが神の国を受け継ぐことはないのを知らないのですか。まどわされてはいけません。不品行な者たち(ポルノイ)、偶像を礼拝する者たち、姦淫をする者たち(モイコイ)、男娼となる者たち[3]、男色をする者たち[4]、盗む者たち、貪欲な者たち、酒に酔う者たち、そしる者たち、略奪する者たちは、いずれも神様の御国を受け継ぐことはないのです。」(コリントの信徒への第1の手紙6章9~10節)
「不品行(ポルネイア)を避けなさい。人の犯すすべての罪は、からだの外にあります。しかし不品行をする者は自分のからだに対して罪を犯すのです。「あなたがたのからだは神様からいただいてあなたがたの内に宿っておられる聖霊様の神殿であって、あなたがたは自分自身のものではない」ということをあなたがたは知らないのですか。あなたがたは大きな代価を払って買いとられたのです。それだから、自分のからだをもって神様の栄光をあらわしなさい。」(コリントの信徒への第1の手紙6章18~20節)
「私が再びそちらに行った場合、私の神様があなたがたの前で私をへりくだらせることにならないでしょうか。そして、前に罪を犯していた多くの人たちが、その汚れと不品行(ポルネイア)と好色の中に活動を続け、それらを悔い改めもしないので、私は悲しむことになりはしないでしょうか。」(コリントの信徒への第2の手紙12章21節)
「肉の働きは明白です。すなわち、不品行(ポルネイア)、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、自分中心のグループを作ること、違った考え、異端、ねたみ、泥酔、度を過ごしたパーティー、またそのたぐいのことです。私は以前も言ったように、今も前もって言っておきます。このようなことを行う者は神様の御国を受け継ぐことがありません。」(ガラテアの信徒への手紙5章19~21節)
「また、不品行(ポルネイア)やあらゆる汚れや貪欲については、あなたがたの間では口にすることさえしてはなりません。そうするのが聖徒にふさわしいことだからです。」(エフェソの信徒への手紙5章3節)
「神様のみこころは、あなたがたが聖くなり、不品行(ポルネイア)を避け、各自、気をつけて自分のからだ(スケウオス、器)を聖く尊く保つことです。」(テサロニケの信徒への第1の手紙4章3~4節)
上に挙げた聖書の箇所の言い方には非常に厳しいものがあります。「不品行」を行う者(男性も女性も)について、彼らは神様の御国を受け継ぐことができない、と何箇所かで言われています。性的肉体関係は結婚にのみ属することです。ヘブライの信徒への手紙13章4節で言われている通りです。
「結婚はあらゆる点で尊いことです。また夫婦の寝床は汚れなく保たれるべきです。なぜなら、神様は不品行な者たち(ポルヌース)や姦淫をする者たち(モイクース)をお裁きになるからです。」(ヘブライの信徒への手紙13章4節)
C) クリスチャンではない人たちの結婚
興味深くまた大切なのは、聖書に根ざしている教会でその初期から今に至るまで続いている考え方です。海外宣教を行っている教会はクリスチャンではない人たちの結婚をまじめに受け止めてきました。コリントの信徒への第1の手紙7章は「夫婦のうち片方がクリスチャンでもう片方がクリスチャンではない場合、信仰者の方が信仰者ではない方を見捨ててはいけない」と明瞭に指示しています。この教えは、結婚がたんに人間の信仰に基づくものではなく、神様御自身が結婚を設定なさったことに基づいています。こうした理由から、たとえばクリスチャンになった夫婦を再び教会で結婚させることはありません。たとえば他の宗教のどのようなやり方で結婚式がもたれたにせよ、彼らはすでに「結婚」しているのです。
3.私たちは?
神様を見出した人たちにとって、結婚前の性的関係や結婚の外部での性的関係は重い罪です。現代どれだけ多くの人々が私たちの周りでそうしたことを行っているとしても、それらが罪であることはかわりません。
聖書が「結婚という制限を越えた性的関係」を拒絶している理由を、「神様はこの世界に結婚の外部で生れた子どもたちを望まなかったからだ」と説明付ける人たちがいます。「しかし、避妊の技術が発達した今、もはや以前と同じ問題はない」と言うのです。しかし、このように神様のお定めになったことの「背後」からこの問題を理解するための理由を探り出そうとするのは、非常に危険なことです。イエス・キリストは昨日も今日も永遠に同じです。この御言葉はもともとの文脈(ヘブライの信徒への手紙13章8節)の中では、「主はいつも同じなので、クリスチャンに与えられている規定もまたかわることがなくいつまでも同じだ」ということを意味しています。
それでは、私たちクリスチャンの結婚はいつ始まるのでしょうか?牧師が「アーメン」と宣言したときでしょうか?この世にはどうとでも解釈できることがらがいろいろあります。
しかし、「人が結婚しているかしていないか」ということはそうではありません。結婚は社会的なことがらであり、役人や法律家や結婚している本人がちゃんと知っていることです。人は結婚しているかしていないかのどちらかです。私は牧師としてたくさんの夫婦の結婚式の司式をしてきましたが、「結婚した」のは一回だけ、自分の結婚だけです。結婚式を司式するときに、結婚するのは私ではなく、結婚しようとしている夫婦です。私は彼らが互いに相手を結婚相手として受け入れ、結婚の責任と義務とを担う意志があるかどうか、彼らにたずねます。もしも彼らがそうする意志がある場合には、彼らは結婚したのです。牧師としての私の責任は祈ることであり、結婚式のあとで賓客を祝会のほうへと導くことです(もしも結婚式のときに「花嫁ミサ」を執り行わない場合には)。「同棲」は、それがたとえ社会制度的に認められている場合であっても、クリスチャンにとっては結婚前の性的関係にほかならず、罪なのです。
この小文の目的は、聖書が「結婚前の性的関係や同棲や結婚」について何を教えているか、はっきりさせることでした。こうした問題に関係して実際に起きてしまっている「混乱」に対してどのように対処していくべきかについては、また別に考える必要があります。こうした「混乱」を悪化させたのは、フィンランドの教会内にあるこのテーマに関する間違った教えです。「聖書によれば結婚前の性的関係は間違ったことであり罪である」ことを知っている人が今やいったいどれほどいるでしょうか。
主イエス様が罪人たちに対して、とりわけこの問題の領域で間違った道を歩んでいた人たちどのような態度を取られたか、ここで思い起こしましょう。いろいろな男たちにもてあそばれた女性がファリサイ派の家におられたイエス様のみもとに来て、それまでの自分ののろわれた人生と間違った生き方を涙と共に注ぎだしました。イエス様は彼女がそうするままになさいました。そして彼女を追い払うようなことはなさいませんでした。
「そして、(イエス様は)その女性に、「あなたの罪[5]は赦されました[6]」と言われました。すると同じ食事の席に連なっていた者たちが心の中で言いはじめました、「罪[7]を赦す[8]ことさえするこの人は、いったい何者だろう」。しかし、イエス様は女性にむかって言われました、「あなたの信仰があなたを救ったのです[9]。平和の中に行きなさい」。」
(ルカによる福音書7章48~50節)
以下の註は訳者によるものです。
[1] ここまでは複数形です。
[2] 「妬み」を直訳すると「悪い目」です。妬みの心は確かに目つきを悪くしますね。
[3] 「マラコイ」は男性の同性愛での受動的な役割の側を指します。
[4] 「アルセノコイタイ」は男性の同性愛での能動的な役割の側を指します。
[5] 複数形。
[6] 受動態完了形。
[7] 複数形。
[8] 現在形。
[9] 完了形。
2008年1月7日月曜日
「恵みの賜物」について聖書は何と言っていますか?
たとえばコリントの信徒への第1の手紙12章には「御霊の賜物」あるいは「恵みの賜物」についての教えがあります。今回はこの「恵みの賜物」について学びたいと思います。
「恵みの賜物」について聖書は何と言っていますか?
ヤリ・ランキネン
私たちは聖書を大切にしたいと思っています。聖書は「恵みの賜物が存在する」と言っています。神様の御霊は私たちルター派の信仰にとってなじみの薄い賜物や必要ないと思われるような賜物も与えてくださいます。もしも私たちが聖書的であるならば、私たちはこのような賜物を否定したり軽んじたりはしません。またこれらの賜物を用いることに反対したりもしません。
一方では、恵みの賜物を間違って用いないように忠告することも「聖書的」です。恵みの賜物を重視しすぎないように忠告することもそうです。聖書は、恵みの賜物自体は認めていますが、それらを間違って用いないように忠告してもいるのです。
ですから、あなたも神様の御言葉を前にして、心を開きなさい。聖書が言っていることを読みなさい。この問題についても実際にはどういうことであるか、聖書に説明してもらいなさい。聖書に反していることは拒絶しなさい。聖書が教えていることを受け入れ身に着けなさい。たとえその教えがあなたにとって新しく、あなたが以前考えていたこととは違っているとしてもです。このように行うのは本当に難しい場合があります。しかし、それは「安全な道」です。神様の御言葉は私たちを間違った道へと迷わせたりはしません。
私たちは皆それぞれ互いに異なっています。信仰を感情に結び付けて、信仰生活の中でのある種の体験の大切さを強調する人たちがいます。信仰にかかわることがらを理性的に考えて、個人的な体験はそれほど求めていない人たちもいます。私たちの人生の背景もそれぞれ異なっているし、今信仰の道のどのような局面を歩んでいるかも、人によって違います。そして、こうした違いは人が恵みの賜物に対してどのような態度を取るかにも影響を与えます。この違いは認めなければなりません。神様の御言葉もそれを認めています。この違いは神様の教会の中の「豊かさ」でもあります。ただし、神様の御言葉に従ってすべての人は信じまた働かなければなりません。
恵みの賜物とは何でしょうか?
恵みの賜物にはいろいろなものがあります。聖書から私たちは多くの例を見出します。病気を癒す賜物、知識を分ける賜物、いつ神様の御霊が話しておりいつ何か他の霊が話しているかを見分ける賜物、異言で話す能力、預言すること、教えること、他の人たちに仕える意欲、教会を指導する能力、自分のものを提供する意欲、貧しい人たちを助ける意欲、などです。これらのものは恵みの賜物についてのいくつかの例です。聖書は恵みの賜物の完全なリストを提供しようとはしていません。神様の教会を築き上げ、それがこの世でその使命を遂行することができるように助ける能力は、すべて「恵みの賜物」だと言えるでしょう。賜物の中には私たちがもともともってはいないものもあります。たとえば異言で語ることです。私たちの創造主が私たちをおつくりになったときに、私たちに与えてくださった賜物もあります。賜物を受けた者はそれを教会に仕えるために利用することができます。そしてそのような場合には恵みの賜物は正しく用いられていることになります。たとえば音楽の才能はこのような賜物です。あるいは指導したり教えたりする能力もそうです。あなたにも賜物がきっとありますよ。それは普通の生活にかかわる地味なことかもしれません。その賜物によって神様の御国の働きに仕えなさい。それが恵みの賜物です。
「恵みの賜物」という言葉自体、それがどのようなものであるかを語っています。それらは人の業績によって分けられたりはしません。もしもそうならそれは業績の報酬になってしまいます。聖霊様はそれらの賜物を御自分のお考えに従って「与えたい」と思われる人にお与えになります。私たちはその神様のお考えを知りません。ですから教会において「誰にどんな賜物があり誰にないか」という基準によって人々に優劣の序列をつけるのはよくないことです。パウロは「神様の御霊は恵みの賜物をそれらを受けるのにもっともふさわしくないような人たちに与えてくださるものだ」と言っています。「神様は教会でほとんど評価されていない会員たちを栄光によって覆い包んでくださる」とパウロは言います。一般に人に重んじられるような「恵みの賜物」のない人たちは実はそれを必要ともしていません。そして彼らは教会で「欠くことのできない存在」なのです(コリントの信徒への第1の手紙12章24節)。
恵みの賜物は正しい信仰を保証するものではありません。
三位一体なる神様が知られていないか、あるいは拒絶されているところでも、異言で話したり病気が癒されたりする現象がおこることがあります。悪魔も奇跡を行うことができるからです。悪魔は自分の働きが神様の働きに似ているところでこそもっとも巧妙に人々をたぶらかすことができます。また、ときには神様は奇妙なやり方で働かれることがあります。人々が幾つかの点で御言葉に反して信じたり生活したりしているところにも神様は恵みの賜物をお与えになることがあるのです。コリントの教会はこのよい例です。パウロはコリントの教会にはいろいろな恵みの賜物がたくさんあることをほめています。そして、それらの賜物が神様からのものではないとは言っていません。しかしながら、パウロはコリントの教会が神様の御言葉から逸脱していることがらを、はっきり問題にしています。そして「教会がこれらの問題について悔い改めなければ、主が再び帰ってこられるときに裁きを受けることになる」と警告しています。「恵みの賜物があらわれるところではすべてが正しくよい」などという考えに目をくらまされてはなりません。あるいは「神様は恵みの賜物を与えてくださったのだから、何か御言葉に反したことを行っていてもそれを神様は認めてくだるだろう」などと考えてもいけません。また、恵みの賜物があらわれているからという理由で、幼児洗礼を認めない再洗礼派の人たちと共に活動することがあってはなりません。彼らには神様が生み出してくださった恵みの賜物があるかもしれませんが、彼らは洗礼について神様の御言葉に反して教えています。「もしも恵みの賜物が私たちの目をくらませ神様の御言葉に反して教えたり活動したりするようになれば、私たちは裁きを受けることになる」と神様の御言葉は私たちにも警告しています。
恵みの賜物は真の信仰の前提条件ではありません。
「恵みの賜物があるところにのみ、あるいは何か恵みの賜物をもっている人にのみ、真の信仰がある」というわけではありません。十字架につけられたイエス様についての福音には何も付け加える必要がありません。福音は恵みの賜物を必要とはしていません。救われて神様の子供として生きていくためには「福音」だけで十分なのです。このことを、とりわけ神様が恵みの賜物を分け与えなさっているところで、強調しなければならないでしょう。また、ある種の恵みの賜物をもっていない者が、周りからそれをもつようになるようそれとなく要求され、自分をだめな存在だと思い込んでしまうような環境でも強調するべきでしょう。たとえあなたが恵みの賜物を何ももってはいなくても、またそれについて何も知らなくても、あなたはイエス様を信じてよいのです。そして、十字架につけられた主イエス様への信仰の中に、あなたは「神様の子供として生きて、天国に入るために必要なすべてのもの」をすでにもっているのです。
聖書は「恵みの賜物を求めなさい」と命じています。聖書は単純な真理を言っています。すなわち、恵みの賜物をこいねがう者はそれをいただくのです。求めない者は得ません。この「求めること」は、強制ではありません。神様や他の人たちが強制するものではありません。それはへりくだった熱心な祈りです。私たちは恵みの賜物を求めてきたでしょうか?これからは信仰者の集まりで神様が私たちに教会が必要としている賜物を与えてくださるように声に出して祈るようにしたらどうでしょうか?こうすれば、恵みの賜物が教会の信徒たちにとって「自然な」ことになるでしょう。そして、祈りは恵みの賜物を正しく用いる道を開いてくれるでしょう。また、祈りは自分が祈っている内容に深くかかわっていくことでもあります。もしも私たちが恵みの賜物を神様から願い求めたのならば、私たちは「そんな賜物はいらない」とは言えないし、「その賜物を用いたくない」とも言えなくなります。私たちが本当に必要としていると神様が御存知なものを、神様が私たちに与えてくださるように願い求めるのが、知恵あるお祈りだと思います。その賜物は、もしかしたら自分では考えもしなかったようなものであるかもしれません。
聖書は恵みの賜物を用いないで隠しておくことを禁じています。ですから賜物を用いなさい。たとえあなたが自分の賜物を恥ずかしく思っていたり、他の人たちがそれを評価していなくてもです。神様は賜物をむなしくお与えにはなりません。教会はそれを必要としているのです。
私たちの信仰の中心は「ゴルゴタの十字架」です。そこだけに頼り避難することを学びなさい。あなた自身に頼ったりしないように。神様があなたの中で働いてくださっていることに気が付いて、それを誇ったりしないように。自分が受けた恵みの賜物やそれを用いることに振り回されないように。これはなかなか難しいことです。だから、学ぶ必要があるのです。ゴルゴタの十字架こそが決して揺るがない唯一の基です。自分の中に何もよいものがないと思ったり、恵みの賜物が弱ったり消え失せたりするような場合でも、ゴルゴタの十字架は立ち続けています。そのようなときでも、ゴルゴタの十字架には、私が救われるために、また神様の子供として生きていくために必要なすべてのものが含まれています。もしも私たちの信仰が何か他のものに基づいている場合には底が抜けてしまいます。しかもあっという間にあっけなく。
もしも恵みの賜物が信仰生活を支配するようになって、十字架以外の何かが一番大事なものになってしまうとき、恵みの賜物は間違って用いられています。実際にそうなる場合があるのです。その一方では、多くの人にとって恵みの賜物がその人とイエス様との関係を新たにし、イエス様の十字架を前よりもいっそう愛しいものにしてきたことも事実です。
パウロはコリントの信徒への第1の手紙の中で「恵みの賜物はそれ自体に価値があるわけではなく、それらのなかにまたそれらを通して、「愛」が、イエス様が私たちを愛してくださったのと同じ愛があらわれる場合には価値があるのだ」と教えています。人は恵みの賜物を間違って用いることで、他の人たちを自分より下に圧迫したり忘れ去ったり、自分の利益を求めたりするようになります。しかしそれは、パウロによれば、誰かが時々思い出したようにドラムを打ち鳴らすのと同じことです。多くの人はドラムの音を聞きますが、何の役にも立ちません。うるさくて耳が痛くなるだけです。
あなたに与えられている賜物はあなたがよりいっそうしっかりとゴルゴタの十字架に頼り避難するように導いてくれますか?その賜物は他の人たちをも十字架につけられた主のみもとに導きますか?あなたはその賜物によって愛していますか?あなたはその賜物を他の人たちの状態をよりよくするために用いていますか?もしもあなたがその賜物をそのように用いてこなかったのならば、悔い改めなさい。あなたはその賜物を隠してはいけません。これからは、あなたがその賜物によってイエス様の十字架を愛しその栄光を輝かせることができるための技能と謙遜を神様から願い求めるようにしなさい。取るに足りないと感じられる賜物によっても、十字架を愛してその栄光を輝かせることができます。そのとき、その賜物は最高に価値があるのです。それとは逆に、際立つ立派な賜物が何か他のことのために用いられることもあります。そして、そのような賜物には何の価値もありません。
へりくだって用いられた賜物は教会を最良のやり方で築き上げます。傲慢や自分を他の人の上に置く態度は教会をあっという間に崩壊させます。
「聖霊様をいただいているクリスチャンは彼らがクリスチャンである証として何か恵みの賜物をもっている」という教えがあります。そして「その賜物とは異言で話すことだ」と主張する人が多くいます。「聖霊様をまだいただいていない人たちは神様の御霊をいただけるようなレヴェルにがんばって到達しなければならない」という教えも聞かれます。このような教えを私たちは受け入れません。なぜなら、聖書はこのようなことを何も教えてはいないからです。すべての「神様の子供」には聖霊様がおられます。人が神様の御霊をいただいている「しるし」は「その人がイエス様を信じている」ということです。聖霊様なしには誰もイエス様を信じることができません。聖書が語っている意味での「御霊に満たされること」というのは「私たちの中にお住みになっている神様の御霊が私たちの中でより大きな場所を支配するようになる」ということです。私たちの中でもこうなるように願い求めましょう。
「神様のもの」として生きることは、力とか奇跡ではなくて、十字架を担うことです。十字架を担うことは、弱さであり、病気であり、難問であり、軽蔑の対象になることであり、期待していた奇跡が起きないことでもあります。「このような人生を送っている人たちは、とくに他の人たちより劣っている神様の子供だ」というわけではありません。神様の御言葉によれば、実は彼らこそ、神様にとって特別に愛らしい子供たちなのです。
恵みの賜物は他の人たちも同じようにするようにいざないます。一方で、それは別の他の人たちを追い払います。私のある友人は人々が異言で話し預言している集会に出くわしたことがあります。そして「もしもイエス様への信仰がこのようなものならば、私は信仰などとはかかわりたくない」と言いました。このような集会は周りの人にこうした反応を惹き起こす可能性があるのを、パウロも知っていました。それゆえ、彼は「恵みの賜物を熟慮した上で用いるように」と命じているのです。私たちは誰もイエス様のみもとから追い払ってはいけません。それゆえ、ある種の賜物は細心の注意を払いながら用いるべきですし、ときにはまったく用いないでおくことも必要です。まずはじめに人が賜物に慣れて怖がらずにすむように賜物についてちゃんと話し教えるべきです。教えた後ならばそれらを用いてもよいのです。
神様は聖書で言われているとは反対のことをお話にはなりません。預言は書かれている神様の御言葉を覆すことはできません。聖書に反した預言があれば、それは神様からのものではありません。しかも、信仰者とか信頼できる聖書の教師と私たちがみなしている人でさえ、そのような「預言」をすることがありえます。私たちの中にある罪はこのような形でもあらわれるのです。そのような偽りの「預言」を引き合いに出して聖書に反した行いをする者は人間を神様の地位にまで引き上げているのです。そして、天国への道からさまよい出る危険な状態に陥ります。
聖霊様は聖書の御言葉の中におられ、その中で働かれています。それゆえ、神様の御霊が生み出してくださった真の恵みの賜物は人々をよりいっそうしっかりと御霊が住んでおられる神様の御言葉へと結びつけるものです。「あなたにとってその賜物が神様の御言葉をよりいっそう愛すべきものとしているかどうか」ということは、その賜物が神様からのものであるかどうか、賜物が正しく用いられているかどうか、見分けるよい指針になります。賜物が人を神様からどんどん遠ざけてしまうというケースもあるのです。そのような「賜物」は神様からのものではありません。また、神様の与えてくださった賜物が御心とは異なるやり方で間違って用いられているケースもあります。
「恵みの賜物」について聖書は何と言っていますか?
ヤリ・ランキネン
私たちは聖書を大切にしたいと思っています。聖書は「恵みの賜物が存在する」と言っています。神様の御霊は私たちルター派の信仰にとってなじみの薄い賜物や必要ないと思われるような賜物も与えてくださいます。もしも私たちが聖書的であるならば、私たちはこのような賜物を否定したり軽んじたりはしません。またこれらの賜物を用いることに反対したりもしません。
一方では、恵みの賜物を間違って用いないように忠告することも「聖書的」です。恵みの賜物を重視しすぎないように忠告することもそうです。聖書は、恵みの賜物自体は認めていますが、それらを間違って用いないように忠告してもいるのです。
ですから、あなたも神様の御言葉を前にして、心を開きなさい。聖書が言っていることを読みなさい。この問題についても実際にはどういうことであるか、聖書に説明してもらいなさい。聖書に反していることは拒絶しなさい。聖書が教えていることを受け入れ身に着けなさい。たとえその教えがあなたにとって新しく、あなたが以前考えていたこととは違っているとしてもです。このように行うのは本当に難しい場合があります。しかし、それは「安全な道」です。神様の御言葉は私たちを間違った道へと迷わせたりはしません。
私たちは皆それぞれ互いに異なっています。信仰を感情に結び付けて、信仰生活の中でのある種の体験の大切さを強調する人たちがいます。信仰にかかわることがらを理性的に考えて、個人的な体験はそれほど求めていない人たちもいます。私たちの人生の背景もそれぞれ異なっているし、今信仰の道のどのような局面を歩んでいるかも、人によって違います。そして、こうした違いは人が恵みの賜物に対してどのような態度を取るかにも影響を与えます。この違いは認めなければなりません。神様の御言葉もそれを認めています。この違いは神様の教会の中の「豊かさ」でもあります。ただし、神様の御言葉に従ってすべての人は信じまた働かなければなりません。
恵みの賜物とは何でしょうか?
恵みの賜物にはいろいろなものがあります。聖書から私たちは多くの例を見出します。病気を癒す賜物、知識を分ける賜物、いつ神様の御霊が話しておりいつ何か他の霊が話しているかを見分ける賜物、異言で話す能力、預言すること、教えること、他の人たちに仕える意欲、教会を指導する能力、自分のものを提供する意欲、貧しい人たちを助ける意欲、などです。これらのものは恵みの賜物についてのいくつかの例です。聖書は恵みの賜物の完全なリストを提供しようとはしていません。神様の教会を築き上げ、それがこの世でその使命を遂行することができるように助ける能力は、すべて「恵みの賜物」だと言えるでしょう。賜物の中には私たちがもともともってはいないものもあります。たとえば異言で語ることです。私たちの創造主が私たちをおつくりになったときに、私たちに与えてくださった賜物もあります。賜物を受けた者はそれを教会に仕えるために利用することができます。そしてそのような場合には恵みの賜物は正しく用いられていることになります。たとえば音楽の才能はこのような賜物です。あるいは指導したり教えたりする能力もそうです。あなたにも賜物がきっとありますよ。それは普通の生活にかかわる地味なことかもしれません。その賜物によって神様の御国の働きに仕えなさい。それが恵みの賜物です。
「恵みの賜物」という言葉自体、それがどのようなものであるかを語っています。それらは人の業績によって分けられたりはしません。もしもそうならそれは業績の報酬になってしまいます。聖霊様はそれらの賜物を御自分のお考えに従って「与えたい」と思われる人にお与えになります。私たちはその神様のお考えを知りません。ですから教会において「誰にどんな賜物があり誰にないか」という基準によって人々に優劣の序列をつけるのはよくないことです。パウロは「神様の御霊は恵みの賜物をそれらを受けるのにもっともふさわしくないような人たちに与えてくださるものだ」と言っています。「神様は教会でほとんど評価されていない会員たちを栄光によって覆い包んでくださる」とパウロは言います。一般に人に重んじられるような「恵みの賜物」のない人たちは実はそれを必要ともしていません。そして彼らは教会で「欠くことのできない存在」なのです(コリントの信徒への第1の手紙12章24節)。
恵みの賜物は正しい信仰を保証するものではありません。
三位一体なる神様が知られていないか、あるいは拒絶されているところでも、異言で話したり病気が癒されたりする現象がおこることがあります。悪魔も奇跡を行うことができるからです。悪魔は自分の働きが神様の働きに似ているところでこそもっとも巧妙に人々をたぶらかすことができます。また、ときには神様は奇妙なやり方で働かれることがあります。人々が幾つかの点で御言葉に反して信じたり生活したりしているところにも神様は恵みの賜物をお与えになることがあるのです。コリントの教会はこのよい例です。パウロはコリントの教会にはいろいろな恵みの賜物がたくさんあることをほめています。そして、それらの賜物が神様からのものではないとは言っていません。しかしながら、パウロはコリントの教会が神様の御言葉から逸脱していることがらを、はっきり問題にしています。そして「教会がこれらの問題について悔い改めなければ、主が再び帰ってこられるときに裁きを受けることになる」と警告しています。「恵みの賜物があらわれるところではすべてが正しくよい」などという考えに目をくらまされてはなりません。あるいは「神様は恵みの賜物を与えてくださったのだから、何か御言葉に反したことを行っていてもそれを神様は認めてくだるだろう」などと考えてもいけません。また、恵みの賜物があらわれているからという理由で、幼児洗礼を認めない再洗礼派の人たちと共に活動することがあってはなりません。彼らには神様が生み出してくださった恵みの賜物があるかもしれませんが、彼らは洗礼について神様の御言葉に反して教えています。「もしも恵みの賜物が私たちの目をくらませ神様の御言葉に反して教えたり活動したりするようになれば、私たちは裁きを受けることになる」と神様の御言葉は私たちにも警告しています。
恵みの賜物は真の信仰の前提条件ではありません。
「恵みの賜物があるところにのみ、あるいは何か恵みの賜物をもっている人にのみ、真の信仰がある」というわけではありません。十字架につけられたイエス様についての福音には何も付け加える必要がありません。福音は恵みの賜物を必要とはしていません。救われて神様の子供として生きていくためには「福音」だけで十分なのです。このことを、とりわけ神様が恵みの賜物を分け与えなさっているところで、強調しなければならないでしょう。また、ある種の恵みの賜物をもっていない者が、周りからそれをもつようになるようそれとなく要求され、自分をだめな存在だと思い込んでしまうような環境でも強調するべきでしょう。たとえあなたが恵みの賜物を何ももってはいなくても、またそれについて何も知らなくても、あなたはイエス様を信じてよいのです。そして、十字架につけられた主イエス様への信仰の中に、あなたは「神様の子供として生きて、天国に入るために必要なすべてのもの」をすでにもっているのです。
聖書は「恵みの賜物を求めなさい」と命じています。聖書は単純な真理を言っています。すなわち、恵みの賜物をこいねがう者はそれをいただくのです。求めない者は得ません。この「求めること」は、強制ではありません。神様や他の人たちが強制するものではありません。それはへりくだった熱心な祈りです。私たちは恵みの賜物を求めてきたでしょうか?これからは信仰者の集まりで神様が私たちに教会が必要としている賜物を与えてくださるように声に出して祈るようにしたらどうでしょうか?こうすれば、恵みの賜物が教会の信徒たちにとって「自然な」ことになるでしょう。そして、祈りは恵みの賜物を正しく用いる道を開いてくれるでしょう。また、祈りは自分が祈っている内容に深くかかわっていくことでもあります。もしも私たちが恵みの賜物を神様から願い求めたのならば、私たちは「そんな賜物はいらない」とは言えないし、「その賜物を用いたくない」とも言えなくなります。私たちが本当に必要としていると神様が御存知なものを、神様が私たちに与えてくださるように願い求めるのが、知恵あるお祈りだと思います。その賜物は、もしかしたら自分では考えもしなかったようなものであるかもしれません。
聖書は恵みの賜物を用いないで隠しておくことを禁じています。ですから賜物を用いなさい。たとえあなたが自分の賜物を恥ずかしく思っていたり、他の人たちがそれを評価していなくてもです。神様は賜物をむなしくお与えにはなりません。教会はそれを必要としているのです。
私たちの信仰の中心は「ゴルゴタの十字架」です。そこだけに頼り避難することを学びなさい。あなた自身に頼ったりしないように。神様があなたの中で働いてくださっていることに気が付いて、それを誇ったりしないように。自分が受けた恵みの賜物やそれを用いることに振り回されないように。これはなかなか難しいことです。だから、学ぶ必要があるのです。ゴルゴタの十字架こそが決して揺るがない唯一の基です。自分の中に何もよいものがないと思ったり、恵みの賜物が弱ったり消え失せたりするような場合でも、ゴルゴタの十字架は立ち続けています。そのようなときでも、ゴルゴタの十字架には、私が救われるために、また神様の子供として生きていくために必要なすべてのものが含まれています。もしも私たちの信仰が何か他のものに基づいている場合には底が抜けてしまいます。しかもあっという間にあっけなく。
もしも恵みの賜物が信仰生活を支配するようになって、十字架以外の何かが一番大事なものになってしまうとき、恵みの賜物は間違って用いられています。実際にそうなる場合があるのです。その一方では、多くの人にとって恵みの賜物がその人とイエス様との関係を新たにし、イエス様の十字架を前よりもいっそう愛しいものにしてきたことも事実です。
パウロはコリントの信徒への第1の手紙の中で「恵みの賜物はそれ自体に価値があるわけではなく、それらのなかにまたそれらを通して、「愛」が、イエス様が私たちを愛してくださったのと同じ愛があらわれる場合には価値があるのだ」と教えています。人は恵みの賜物を間違って用いることで、他の人たちを自分より下に圧迫したり忘れ去ったり、自分の利益を求めたりするようになります。しかしそれは、パウロによれば、誰かが時々思い出したようにドラムを打ち鳴らすのと同じことです。多くの人はドラムの音を聞きますが、何の役にも立ちません。うるさくて耳が痛くなるだけです。
あなたに与えられている賜物はあなたがよりいっそうしっかりとゴルゴタの十字架に頼り避難するように導いてくれますか?その賜物は他の人たちをも十字架につけられた主のみもとに導きますか?あなたはその賜物によって愛していますか?あなたはその賜物を他の人たちの状態をよりよくするために用いていますか?もしもあなたがその賜物をそのように用いてこなかったのならば、悔い改めなさい。あなたはその賜物を隠してはいけません。これからは、あなたがその賜物によってイエス様の十字架を愛しその栄光を輝かせることができるための技能と謙遜を神様から願い求めるようにしなさい。取るに足りないと感じられる賜物によっても、十字架を愛してその栄光を輝かせることができます。そのとき、その賜物は最高に価値があるのです。それとは逆に、際立つ立派な賜物が何か他のことのために用いられることもあります。そして、そのような賜物には何の価値もありません。
へりくだって用いられた賜物は教会を最良のやり方で築き上げます。傲慢や自分を他の人の上に置く態度は教会をあっという間に崩壊させます。
「聖霊様をいただいているクリスチャンは彼らがクリスチャンである証として何か恵みの賜物をもっている」という教えがあります。そして「その賜物とは異言で話すことだ」と主張する人が多くいます。「聖霊様をまだいただいていない人たちは神様の御霊をいただけるようなレヴェルにがんばって到達しなければならない」という教えも聞かれます。このような教えを私たちは受け入れません。なぜなら、聖書はこのようなことを何も教えてはいないからです。すべての「神様の子供」には聖霊様がおられます。人が神様の御霊をいただいている「しるし」は「その人がイエス様を信じている」ということです。聖霊様なしには誰もイエス様を信じることができません。聖書が語っている意味での「御霊に満たされること」というのは「私たちの中にお住みになっている神様の御霊が私たちの中でより大きな場所を支配するようになる」ということです。私たちの中でもこうなるように願い求めましょう。
「神様のもの」として生きることは、力とか奇跡ではなくて、十字架を担うことです。十字架を担うことは、弱さであり、病気であり、難問であり、軽蔑の対象になることであり、期待していた奇跡が起きないことでもあります。「このような人生を送っている人たちは、とくに他の人たちより劣っている神様の子供だ」というわけではありません。神様の御言葉によれば、実は彼らこそ、神様にとって特別に愛らしい子供たちなのです。
恵みの賜物は他の人たちも同じようにするようにいざないます。一方で、それは別の他の人たちを追い払います。私のある友人は人々が異言で話し預言している集会に出くわしたことがあります。そして「もしもイエス様への信仰がこのようなものならば、私は信仰などとはかかわりたくない」と言いました。このような集会は周りの人にこうした反応を惹き起こす可能性があるのを、パウロも知っていました。それゆえ、彼は「恵みの賜物を熟慮した上で用いるように」と命じているのです。私たちは誰もイエス様のみもとから追い払ってはいけません。それゆえ、ある種の賜物は細心の注意を払いながら用いるべきですし、ときにはまったく用いないでおくことも必要です。まずはじめに人が賜物に慣れて怖がらずにすむように賜物についてちゃんと話し教えるべきです。教えた後ならばそれらを用いてもよいのです。
神様は聖書で言われているとは反対のことをお話にはなりません。預言は書かれている神様の御言葉を覆すことはできません。聖書に反した預言があれば、それは神様からのものではありません。しかも、信仰者とか信頼できる聖書の教師と私たちがみなしている人でさえ、そのような「預言」をすることがありえます。私たちの中にある罪はこのような形でもあらわれるのです。そのような偽りの「預言」を引き合いに出して聖書に反した行いをする者は人間を神様の地位にまで引き上げているのです。そして、天国への道からさまよい出る危険な状態に陥ります。
聖霊様は聖書の御言葉の中におられ、その中で働かれています。それゆえ、神様の御霊が生み出してくださった真の恵みの賜物は人々をよりいっそうしっかりと御霊が住んでおられる神様の御言葉へと結びつけるものです。「あなたにとってその賜物が神様の御言葉をよりいっそう愛すべきものとしているかどうか」ということは、その賜物が神様からのものであるかどうか、賜物が正しく用いられているかどうか、見分けるよい指針になります。賜物が人を神様からどんどん遠ざけてしまうというケースもあるのです。そのような「賜物」は神様からのものではありません。また、神様の与えてくださった賜物が御心とは異なるやり方で間違って用いられているケースもあります。
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