2024年11月25日月曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」5章9〜16節 やもめたちの教会での職務

 やもめたちの教会での職務

「テモテへの第一の手紙」5章9〜16節

 

60歳以上のやもめは再婚することをあきらめて(5章9節)

教会への奉仕に専念することができました。

彼女たちはそのために「初めの誓い」を行いました(5章12節)。

 

「やもめ」の職務内容には

祈り(5章5節)、奉仕(5章10節)、家庭訪問(5章13節)

が含まれていました。


西暦200年代にはやもめの職制にかかわる問題が起きてきました。

彼女たちの一部は教会の霊的な指導者の地位を欲するようになったのです。

それとともにやもめの職制はなくなりました。


教会教父たちはやもめの職制についての記述を残しています。

この職制は現代のディアコニア職に該当します

(「使徒言行録」9章36〜41節も参考になります)。

 

後に「やもめ」とみなされる年齢制限は50歳にまで引き下げられました

(5章9節と比較しましょう)。

 

パウロは5章14節で

「若いやもめは結婚して子を産み、家をおさめ、

そして、反対者にそしられるすきを作らないようにしてほしい」

と述べています(3章2、12節も参考になります)。

ですから「ひとりの夫の妻であった者」(5章9節)とは

「夫に対して妻として忠実であり続けたやもめ」という意味になるでしょう。

 

客人の足を洗うのは僕(しもべ)の仕事でした

(5章10節。

「ヨハネによる福音書」13章4〜5節や

「ルカによる福音書」7章44節も参考になります)。

この奉仕のありかたは

自らを低める態度を他の人々にも要求するものでした。

 

若いやもめの怠惰さや暇つぶし(5章13節)は

いともたやすく他の悪徳とも結びついていきます。

 

「彼女たちのうちには、サタンのあとを追って道を踏みはずした者もある。」

(「テモテへの第一の手紙」5章15節、口語訳)

 

この節はグノーシス主義に転向した若いやもめたちを示唆している

と考えることもできます。

サタンのあとを追うことは異端に陥ることを意味しています。

 

「女の信者が家にやもめを持っている場合には、

自分でそのやもめの世話をしてあげなさい。

教会のやっかいになってはいけない。

教会は、真にたよりのないやもめの世話をしなければならない。」

(「テモテへの第一の手紙」5章16節、口語訳)

 

教会によるやもめの支援は

本当に支援が必要なやもめたちだけのためであることを

この節は再度強調しています(5章3、8節)。

 

パウロの教えは現代社会においても重要となる視点を提供しています。

それは困窮の度合いに応じて支援の量も変えていくべきである

という考えかたです。

全員に等しく分配される社会福祉の経済的な利益は

受け取る側の人々の間に存在する経済力の格差を

是正するものではなくなっています。

社会福祉の分配を適切に管理しないかぎり、

社会福祉を本当に必要としている人が受けるはずの利益を

それ以外の人々が濫用するのを助長しかねません。


パウロはキリスト信仰者の心の中にも

強欲で自己中心的な「古い人」が巣食っていることをよく知っていました。

それゆえ教会は支援の分配を監視しなければならないのです。

 

社会的弱者(やもめなど)の親戚たちは

「社会的弱者の世話は社会がするべきだ」という考えかたを

都合よく引き合いに出して自らの責任を回避するべきではありません。

2024年11月21日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」5章1〜8節 助けを必要としているやもめたち(その2)

 やもめなどの人々への生活指針

「テモテへの第一の手紙」5章

 

助けを必要としているやもめたち(その2)

「テモテへの第一の手紙」5章1〜8節

 

やもめの重要な使命は祈ることでした(5章5節)。

「ルカによる福音書」にはアンナというやもめについての記述があります。

 

「また、アセル族のパヌエルの娘で、

アンナという女預言者がいた。

彼女は非常に年をとっていた。

むすめ時代にとついで、

七年間だけ夫と共に住み、

その後やもめぐらしをし、

八十四歳になっていた。

そして宮を離れずに夜も昼も断食と祈とをもって神に仕えていた。」

(「ルカによる福音書」2章36〜37節、口語訳)

 

当時、やもめは人々から軽んじられる社会的立場にありました。

彼らは周囲から見捨てられた人々だったのです。

旧約聖書には生活に必要な収入をやもめにも保証することを目的とした

様々な規定がありました

(「申命記」16章11節、24章17〜21節。

「イザヤ書」1章16〜17節も参考になります)。

 

「あなたがたのうちに分け前がなく、嗣業を持たないレビびと、

および町の内におる寄留の他国人と、孤児と、寡婦を呼んで、

それを食べさせ、満足させなければならない。

そうすれば、あなたの神、主は

あなたが手で行うすべての事にあなたを祝福されるであろう。」

(「申命記」14章29節、口語訳)

 

エルサレムの最初の頃の教会に設立されたディアコニア職は

やもめを支援するためであったことをここで思い起こしましょう

(「使徒言行録」6章1〜7節)。

次の「ヤコブの手紙」の箇所も参考になります。

 

「父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、

困っている孤児や、やもめを見舞い、

自らは世の汚れに染まずに、

身を清く保つことにほかならない。」

(「ヤコブの手紙」1章27節、口語訳)。

 

「これに反して、

みだらな生活をしているやもめは、

生けるしかばねにすぎない。」

(「テモテへの第一の手紙」5章6節、口語訳)

 

この節は売春婦に身を落としたやもめのことを指していると思われます。

当時、売春は

親戚同士の助け合いのネットワークから切り離された独り身の女性にとって

生活費を得るために残されたほとんど唯一の手段でした。

 

「もしある人が、

その親族を、ことに自分の家族をかえりみない場合には、

その信仰を捨てたことになるのであって、

不信者以上にわるい。」

(「テモテへの第一の手紙」5章8節、口語訳)

 

信仰がたんなる教義項目ではなく

日々の生活の中に具体的に見てとれるように

ならなければならないものであることをこの節は教えています。

第四戒(「あなたの父と母を敬え。

これは、あなたの神、主が賜わる地で、

あなたが長く生きるためである。」

(「出エジプト記」20章12節、口語訳))

に従おうとしない人は霊的に(信仰的に)死んでいるのです

(「ヨハネの黙示録」3章2節。

「マルコによる福音書」7章10〜13節、

12章38〜40節も参考になります)。

 

霊的に死んでいる人は

不信仰者以上にたちの悪い存在であるとさえ言えます。

「自分は霊的に(信仰的に)生きている」と思い込んでいるため

(「エフェソの信徒への手紙」4章17〜19節)、

「自分には悔い改めなど必要ない」と誤解しているからです

(「ペテロの第二の手紙」2章21〜22節)。

 

2024年11月18日月曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」5章1〜8節 助けを必要としているやもめたち(その1) 

 やもめなどの人々への生活指針

「テモテへの第一の手紙」5章

 

助けを必要としているやもめたち(その1)

「テモテへの第一の手紙」5章1〜8節

 

老人をとがめてはいけない。

むしろ父親に対するように、話してあげなさい。

若い男には兄弟に対するように、

年とった女には母親に対するように、

若い女には、真に純潔な思いをもって、姉妹に対するように、

勧告しなさい。

(「テモテへの第一の手紙」5章1〜2節、口語訳)

 

上の箇所はいろいろな状況で役に立つ教えです。

あなたの置かれた状況をこの聖句が適用できるようにあてはめてみてください。

そうすればあなたが今どのように行動するべきかがわかってくるはずです。

たとえば説教者はあたかもある特定の知り合いに話しかけるかのようにして

聴衆に語りかければよいのです

(「ローマの信徒への手紙」16章13節も参考になります)。

 

「老人」はギリシア語で「プレスビュテロス」といい、

5章17節の「長老」と同じ単語です。

また「年とった女」は一般的なやもめ(5章3〜8節)だけではなく

教会に登録されたやもめ(5章9〜15節)のことも意味しています。

 

当時の社会にはいわゆる「中年」という概念が存在しなかったため、

人間は「若者」時代のあとはすぐそのまま「老人」時代に移行しました

(4章12節とも比較してください)。

 

「真に純潔な思いをもって

(ギリシア語で「エン・パーセー・ハグネイアー」)は重要な指摘です。

当時の社会では男性と女性の間の関わり合いは現代ほど一般的ではなく

(「ヨハネによる福音書」4章27節。

「テモテへの第二の手紙」3章6〜7節も参考になります)、

意地の悪い噂話はいとも簡単に広がっていったからです。

 

「やもめについては、真にたよりのないやもめたちを、よくしてあげなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」5章3節、口語訳)

 

教会は「真にたよりのないやもめ」の世話をしました(5章3、16節)。

「よくしてあげなさい」は

ギリシア語で「敬う」という意味をもつ動詞「ティマオー」の命令形です。

上節の口語訳のように、

この単語には「援助する」という意味合いもあります。

なお5章17節にはこの動詞と共通する派生をもつ

名詞「ティメー」が「尊敬」という意味で用いられています。

 

西暦250年頃のローマの教会には

やもめや助けが必要な人が約1500人いたことが知られています。

 

教会から援助を受けられるという特典は、

教会に属さないやもめたちも教会に接近する機会を提供しました。

教会からの援助を得るためにやもめの親戚たちが

彼らの世話を意図的に放棄する場合さえありました。

やもめへの援助の不正な拡大利用を防ぐために、

教会は援助を受けることを申し込んだやもめたちを

吟味しなければなりませんでした。

 

「やもめに子か孫かがある場合には、

これらの者に、まず自分の家で孝養をつくし、

親の恩に報いることを学ばせるべきである。

それが、神のみこころにかなうことなのである。」

(「テモテへの第一の手紙」5章4節、口語訳)

 

やもめの子や孫には自分の母親あるいは祖母を助ける義務があります。

これには二つの根拠があります。

第一に、この援助は

彼ら自身が若い頃に両親や祖父母から受けた援助に対して報いることです。

第二に、この援助は

「神のみこころにかなうこと」です。

 

当時の社会では婚礼の際に花嫁の親が彼女に持参金をもたせて

花婿のもとに送り出す習慣がありました。

それに対して、持参金を受け取った花婿の親戚たちは

花嫁がやもめとなった後に彼女の世話をするという法的な義務を負いました。

2024年10月17日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」4章11〜16節 五番目の福音書(その3)

 五番目の福音書(その3)

(「テモテへの第一の手紙」4章11〜16節)

 

すでに旧約の時代にモーセはイスラエルの民を指導する自分の後継者として

ヨシュアを任命する時に按手というやりかたを行っています

(「民数記」27章18〜23節)。

 

「ヌンの子ヨシュアは知恵の霊に満ちた人であった。

モーセが彼の上に手を置いたからである。

イスラエルの人々は彼に聞き従い、

主がモーセに命じられたとおりにおこなった。」

(「申命記」34章9節、口語訳)。

 

ユダヤ教の教師であるラビたちも新しくラビになる者に按手を施しました。

 

「すべての事にあなたの進歩があらわれるため、

これらの事を実行し、それを励みなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」4章15節、口語訳)

 

キリスト信仰者たちの指導者となる人物は

その前にまず特別に慎重な審査を受けます。

彼らが罪に堕落する場合、

それは平信徒たちが罪に堕落する場合よりも重大な意味を帯びるからです。

 

聖霊様から教えを受ける立場にわが身を置き続けることによって

キリスト信仰者は信仰において進歩することができます

(「フィリピの信徒への手紙」1章25節、3章12節)。

 

「イエスは彼に言われた、

「わたしは道であり、真理であり、命である。

だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」

(「ヨハネによる福音書」14章6節、口語訳)

 

人間はイエス様という「道」を通してのみ救われることができます。

この道を終わりまで歩み続けなければなりません。

途中でこの道を歩むのを止めてしまうと目的地にはたどり着けなくなります

(「マルコによる福音書」13章13節、

「コリントの信徒への第一の手紙」15章2節、

「コロサイの信徒への手紙」1章22〜23節、

「ヘブライの信徒への手紙」3章14節)。

 

「自分のことと教のこととに気をつけ、それらを常に努めなさい。

そうすれば、あなたは、

自分自身とあなたの教を聞く者たちとを、救うことになる。」

(「テモテへの第一の手紙」4章16節、口語訳)

 

誰も他の人を救うことはできません。

しかし他の人を救いの源であるキリストの御許へと導くことはできます

(「ローマの信徒への手紙」11章14節、

「コリントの信徒への第一の手紙」7章16節)。

 

「ヤコブの手紙」は次の言葉で締めくくられています。

 

「わたしの兄弟たちよ。

あなたがたのうち、真理の道から踏み迷う者があり、

だれかが彼を引きもどすなら、

かように罪人を迷いの道から引きもどす人は、

そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、

知るべきである。」

(「ヤコブの手紙」5章19〜20節、口語訳)

2024年10月10日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」4章11〜16節 五番目の福音書(その2)

 五番目の福音書(その2)

(「テモテへの第一の手紙」4章11〜16節)

 

「わたしがそちらに行く時まで、

聖書を朗読することと、

勧めをすることと、

教えることとに心を用いなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」4章13節、口語訳)

 

「聖書を朗読すること」とは聖書を公に朗読することです。

ユダヤ人たちは会堂の礼拝で旧約聖書を朗読しました

(「ネヘミヤ記」8章8節、

「ルカによる福音書」4章16〜19節、

「使徒言行録」13章15節、15章21節)。

キリスト信仰者たちは旧約聖書だけではなく

イエス様をめぐる出来事の記述について

礼拝で朗読する習慣がありました(5章18節も参考になります)。

これらの記述が後に福音書としてまとめられることになります。

キリスト信仰者たちは使徒たちの数々の手紙も礼拝で朗読しました

(「テサロニケの信徒への第一の手紙」5章27節、

「コロサイの信徒への手紙」4章16節、

「ペテロの第二の手紙」3章16節。

また「ヨハネの黙示録」1章3節、22章18〜19節も参照してください)。

 

礼拝では聖書の朗読に続いてその箇所の解き明かしがなされました

(「ルカによる福音書」4章21節、

「使徒言行録」13章16〜47節も参照してください)。


現代の教会の礼拝においても

説教は聖書の御言葉の適切な解き明かしであるべきものです。

 

上節は当時の礼拝の内容を表しています。

ここには聖餐式についての記述がありませんが、

最初の頃の教会のすべての礼拝では聖餐式が執り行われていました

(「コリントの信徒への第一の手紙」11章17〜21節)。

 

また上掲の節からは

パウロがこの段階では自分がエフェソに行けることを

希望していたことがわかります

(3章14節にもこの希望が述べられています)。

 

テモテは福音を宣教する教会職に任命されました(4章12節)。

おそらくこの任命は

パウロが彼を自分の同僚として連れて行った

第二次伝道旅行の時になされたものと思われます

(「使徒言行録」16章3節、

「テモテへの第二の手紙」1章6節)。

 

「長老の按手を受けた時、

預言によってあなたに与えられて内に持っている恵みの賜物を、

軽視してはならない。」

(「テモテへの第一の手紙」4章14節、口語訳)

 

テモテをお選びになったのは人間ではなく神様です

(1章18節も参考になります)。

それゆえテモテを軽んじることは神様を軽んじることにもなります。

 

神様はテモテに教会職の遂行に必要な恵みの賜物を授けました。

パウロはこの賜物を十分に活用するようにとテモテを励ましています

(「テモテへの第二の手紙」1章6節)。

 

神様はキリスト信仰者各々が

いただいた賜物を活用していくようにと招いておられます。

 

それゆえ私たちは

キリスト信仰者が神様からいただいた賜物を無駄にしないようにするために、

ふさわしい人物がふさわしい職務に任命されることを祈らなければなりません。

2024年10月3日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」4章11〜16節 五番目の福音書(その1)

 五番目の福音書(その1)

(「テモテへの第一の手紙」4章11〜16節)

 

キリスト信仰者は「五番目の福音書」と呼ばれることがあります。

人々はキリスト信仰者たちの生き方を見て

「神様がどのような存在か?」また「神様を信じたほうがよいかどうか?」

をそれに基づいて決めることがあるからです。

残念ながら私たちキリスト信仰者は

新約聖書の四つの福音書よりもはるかに不完全な形で

神様がどのようなお方かを伝えているにすぎません。

私たちの生き方が聖書の教えと矛盾している場合に

私たちはそれを正すべきなのです。

ところが私たちの生き方を聖書の教えに従わせようとはせず、

逆に聖書のほうを私たちの生き方に適合させようとする試みが

残念ながらしばしば見られます。

 

「これらの事を命じ、また教えなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」4章11節、口語訳)

 

「これらの事を」という表現は「テモテへの第一の手紙」によく出てきます

(3章14節、4章11、15節、5章7、21節)。

これによってパウロはテモテが学んだ信仰の基礎のことを指しています。

最初期の頃よりキリスト教信仰はある種の「教義項目」を通し、

またそれらを活用することによって宣べ伝えられてきました

(4章6、16節も参照してください)。

 

「あなたは、年が若いために人に軽んじられてはならない。

むしろ、言葉にも、行状にも、愛にも、信仰にも、純潔にも、

信者の模範になりなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」4章12節、口語訳)

 

「テモテへの第一の手紙」が書かれた当時、テモテは約35歳でした。

当時の教会の指導者としてはまだ若かったといえます。

この節も60年代にこの手紙が執筆されたという推定を裏付けるものです。

西暦100年以降の時代にテモテはすでにかなりの高齢になっていたからです

(「コリントの信徒への第一の手紙」16章10〜11節も参考になります)。

 

パウロは自分の与えた模範に従うように他の人々に何度も呼びかけています

(「コリントの信徒への第一の手紙」11章1節、

「フィリピの信徒への手紙」3章17節、

「テサロニケの信徒への第一の手紙」1章6節、

「テサロニケの信徒への第二の手紙」3章7、9節)。

パウロはテモテにも信仰者として

他のキリスト信仰者たちの模範になるように奨励しています

(「ヘブライの信徒への手紙」13章7節、

「ペテロの第一の手紙」5章3節も参照してください)。

 

人々から受ける敬意は本人が周囲から無理に要求して集めるものではありません。

まずはじめに自分が敬意を受けるに値する者であることを

自らの信仰生活を通して示していかなければならないのです。

 

信仰と愛の関係性(4章12節)は「十字架」によって描き出すことができます。

信仰はいわば十字架の縦棒であり、

人と神様の間の関係を表しています。

愛はいわば十字架の横棒であり、

人と他の人々すなわち隣り人たちとの関係を表しています。

2024年9月16日月曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」4章6〜10節 キリストの良き僕

キリストの良き僕

「テモテへの第一の手紙」4章6〜10節

 

「これらのことを兄弟たちに教えるなら、

あなたは、信仰の言葉とあなたの従ってきた良い教の言葉とに養われて、

キリスト・イエスのよい奉仕者になるであろう。」

(「テモテへの第一の手紙」4章6節、口語訳)

 

信仰は実際に活用されることで強められていきますが、

殻の中に閉じ込められると萎縮していくものです。

信仰は他の人々にも広めていくことを目的として

神様から与えられているものだからです。

そしてこれは教会の指導者たちだけにではなく

キリスト信仰者全員にもあてはまります。

 

「しかし、俗悪で愚にもつかない作り話は避けなさい。

信心のために自分を訓練しなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」4章7節、口語訳)

 

おそらくパウロは、

エバやマグダラのマリアや罪の堕落に誘惑した蛇さえも

「正しい教師」とみなして称揚したグノーシス主義の教師たちを

念頭に置いてこのように書いています。

グノーシス主義化した教会の指導者はしばしば女性でした。

この箇所でもパウロは

キリスト教会に入り込んできた異端に反撃を加えているといえるでしょう。

 

「からだの訓練は少しは益するところがあるが、

信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、

万事に益となる。」

(「テモテへの第一の手紙」4章8節、口語訳)

 

「からだの訓練」は普通のスポーツのことを意味しているのかもしれません。

古典古代のギリシアでは運動競技が盛んであり、

スポーツ選手たちは人々からの尊敬を受ける英雄でした。

しかしまた「からだの訓練」は禁欲的な生き方を意味している

と考えることもできます(4章3節と比較してください)。

 

キリスト信仰者のこの世における生き方は

来るべき永遠のいのちのための訓練や準備にもなる

というのが上掲の節の考え方である点に注目しましょう。

 

「後の世のいのち」すなわち永遠のいのちは今のいのちよりも大切です。

それゆえ、永遠のいのちのためには

すでに今のいのちにおいても労苦しなければならないのです

(「コリントの信徒への第一の手紙」15章19節も参照してください)。

 

「これは確実で、そのまま受けいれるに足る言葉である。」

(「テモテへの第一の手紙」4章9節、口語訳)

 

この節は前節の内容を受けているとする研究者たちもいますが、

一般的にはこの節は次節の内容に関連していると考えられています。

 

「わたしたちは、このために労し苦しんでいる。

それは、すべての人の救主、特に信じる者たちの救主なる生ける神に、

望みを置いてきたからである。」

(「テモテへの第一の手紙」4章10節、口語訳)

 

この節に書いてあるような正しい順序を踏まえることが大切です。

訓練は信仰から生じてくるものであって、

信仰が訓練によって生じるものではないのです。

神様への信仰こそが

キリスト信仰者がこの世で訓練を積んでいく出発点になっています。

 

上掲の節は(このガイドブックの著者及び翻訳者が属している)

フィンランド・ルーテル福音協会という海外宣教団体で二十世紀の初頭に

「全世界のためのさいわいなる救い」

という標語にまとめられた内容について述べています。

イエス様は全世界のすべての人間のすべての罪のもたらす

すべての罰を身代わりに引き受けて十字架で死なれることによって

すっかり帳消しにしてくださいました。

まさにそのおかげで罪人全員すなわち全人類を

罪と死と悪魔の支配から救われる主となられたのです。

イエス様によるこの贖いの御業は、

誰であれ洗礼を受けイエス様を救い主と信じることを通して

ただでいただくことができます。

しかしこの御業を死に至るまで頑なに受け入れない人は、

その人のためでもある「全世界のためのさいわいなる救い」が

無駄になってしまうため、救われることはありません。

 

「わたしたちはまた、神と共に働く者として、あなたがたに勧める。

神の恵みをいたずらに受けてはならない。

神はこう言われる、

「わたしは、恵みの時にあなたの願いを聞きいれ、

救の日にあなたを助けた」。

見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である。」

(「コリントの信徒への第二の手紙」6章1〜2節、口語訳)。