2023年1月30日月曜日

「恵みに基づく自信」「恵みに基づく自信」とはどのようなものでしょうか。

「恵みに基づく自信」  

質問)「恵みに基づく自信」とはどのようなものでしょうか。

 

人間は自分自身の弱さに向き合い、

神様の憐れみに満ちた恵みを受け入れることで

健全な自信を持てるようになります。

私はこれを「恵みに基づく自信」と呼んでいます。

 

例えばパウロは聖書の多くの箇所で

「キリスト信仰者たちを迫害した過去を持つ自分は

すべての使徒たちの中で最も卑しい存在である」と告白しています。

それでもなお彼には健全な自信があったと言えます。

またパウロの身体には何らかの「棘」が刺さっていました。

彼は主なる神様にその棘が取り除かれるように嘆願しました。

ところがイエス様はパウロに次のようにお答えになったのです。

 

「わたしの恵みはあなたに対して十分である。

わたしの力は弱いところに完全にあらわれる。」

(「コリントの信徒への第二の手紙」12章9節前半、口語訳)

 

このイエス様の御言葉のおかげで、

パウロは自らの弱さについて自信を持って誇ることができたのです。

 

「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、

むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。

だから、わたしはキリストのためならば、

弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。

なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」

(「コリントの信徒への第二の手紙」12章9節後半〜10節、口語訳)

2023年1月27日金曜日

「恵みに基づく自信 」自分の弱さを抱えながら生きていくにはどうしたらよいのでしょうか。

恵みに基づく自信  

質問) 自分の弱さを抱えながら生きていくにはどうしたらよいのでしょうか。

 

私自身(ユハ・ヘイノネン)の例を挙げて説明しますね。

私は吃らずに言葉を発することができないのです。

中学校時代の私は自分が他の同級生たちよりも劣っていると感じていました。

この劣等感にどう対処すべきか、本当に長い間思い悩み続けました。

そして劣等感から解放されて先に進んでいけるようにしてくれる

二つの視点をようやく見つけることができたのです。

 

一つ目の視点は「弱さを抱えているのは私だけではない」という発見でした。

あるとき私の友人は腰に肉体的欠陥を抱えていることを打ち明けてくれました。

「人は皆、人目から隠そうとしている弱さを抱えているものなのだ」

と私はそのときはじめて気づいたのです。

聖書によれば、はじめの人間たちが罪に堕落した結果、

彼らの子孫である全人類も同様に各々が自分の弱さを抱えこむようになりました。

 

さらに重要な二つ目の視点は、どうして人間には弱さがつきまとうのか、

その理由を聖書から見つけたことでした。

新約聖書の「コリントの信徒への第一の手紙」には次のような箇所があります。

 

「それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、

強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、

有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、

すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。

それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。」

(「コリントの信徒への第一の手紙」27〜29節、口語訳)

 

人は自らの弱さや中途半端さを自覚すると

イエス様なしでは自信を持って生きていけないことがわかるようになります。

自分に関するすべてのことがうまく行っている場合には

私たちはいともたやすく神様の大切さを忘れてしまうものです。

神様は人間一般に共通するこのような「弱さ」をよくご存知なので、

私たち皆に個別の弱さを与えてくださったのです。

 

自信は私たちの人格に深く関わっています。

このことをはっきり理解するように心がけましょう。

完全無欠な存在になろうとする必要はありません。

それどころか私たちは弱さを抱えたありのままの姿で

神様に受け入れていただけるのです。

この聖書の教えを素直に受け入れましょう。

2023年1月25日水曜日

「恵みに基づく自信」自信の形成に影響を与えるものは何でしょうか。自信が持てない場合にはどうすればよいのでしょうか。

恵みに基づく自信 

質問) 自信の形成に影響を与えるものは何でしょうか。

 

自信の形成に最も影響を与えるのは

周囲の人たちからの感想や意見といったフィードバックでしょう。

人間は社会的な存在です。

「他の人たちは私たちについて一体何を考えているのか」

というのは私たちにとって大事です。

また私たちがお互いを受け入れることも大切です。

人間には四つの基本的な欲求があると言われています。

それらは

愛されること、承認されること、評価されること、自分らしく生きる権利です。


これらの中でもとりわけ

「私たちが愛されること」が大事であるのは言うまでもありません。

 

人間の自信の形成に影響を与えるものとしては、

その人が置かれている現実の状況に加えて、

その人の過去や今までの経験などを挙げることができます。

例えば小さい時にいじめられたことがある人は

自信を持ちにくくなる場合が多いのではないでしょうか。

 

 

質問) 自信が持てない場合にはどうすればよいのでしょうか。

 

これは本当に難しい問題です。

たしかに神様は「御自分のかたち」として私たちを創造してくださいました。

しかしこれは

自動的に私たちが自信を持てるようになるのを保証するものではありません。

聖書では神様の天地創造の後に人間の罪への堕落に関する記述が続きます。

はじめの人間たちは神様の御心に反して罪へと堕落しました。

その影響で、

彼らの末裔である人類は皆「罪深い存在」として

この世に生まれるようになってしまいました。

この「生まれながらの罪」(原罪)のせいで、

私たち人間はこの世で常に様々な問題や苦しみに付きまとわれるようになり、

自信を持って生きていくことができなくなってしまったのです。

 

人間にとって

自分の弱さや中途半端さを素直に認めることは決して容易ではありません。

そしてこれが自信のなさを生んでいる原因です。

ともすると人間は自らの弱さや中途半端さのせいで

「ありのままの自分ではきっと周りから認めてもらえない」

という思い込みに支配されやすくなるからです。

 

2023年1月23日月曜日

「恵みに基づく自信」自信とは何でしょうか。

 恵みに基づく自信

 

フィンランド語版質問者・執筆者 アールニ・セッパラ

フィンランド語版回答者 ユハ・ヘイノネン

(フィンランド・ルーテル福音協会、青年伝道担当) 

日本語版翻訳・編集者 高木賢

(フィンランド・ルーテル福音協会)

 

聖書の引用は口語訳によっています。

日本語版では表現や内容に多少の修正および加筆が施されています。

 

 

 

はじめに 

 

多くの若者は自信のなさに苦しんでいます。

それは彼らの日々の生活にも大きな影響を与えています。

ところで聖書は自信についてどのように教えているのでしょうか。

また神様は自信の問題についてどのように考えておられるのでしょうか。

主に青年を対象にキリスト教伝道に長年携わってこられた

ユハ・ヘイノネンさんにこの問題についてお話を伺いました。

 

 

質問) 自信とは何でしょうか。

 

自信とは自分の本来の価値を自覚することです。

それはプレッシャーを感じることなく

ありのままの自分でいられる生き方でもあります。

人間にとって健全な自信を持てるようになることは大切です。

そのような自信は健全な人間生活を送るために欠かせないものだからです。

無理することなくありのままの自分で生活できるようになると、

周りにいる人たちとの関係も好転していきます。

 

聖書によれば、人間の自信は「天地創造」に基づいています。

天地創造において神様は人間を「御自分のかたち」としてお造りになりました。

これについて旧約聖書の「創世記」は次のように記しています。

 

「神は自分のかたちに人を創造された。

すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」

(「創世記」1章27節、口語訳)

 

「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。

そこで人は生きた者となった。」

(「創世記」2章7節、口語訳)

 

神様が命の息を人間に吹き込まれたおかげで、

私たちは神様にとってかけがいのない価値を持つ存在となりました。

すべての人間が有しているこの尊厳を

私たちから奪い去ることは誰にもできないし、また許されてもいません。

 


2023年1月4日水曜日

どうして礼拝に参加するのでしょうか?

 どうして礼拝に参加するのでしょうか?

フィンランド語版回答者 ミーカ・アウヴィネン (神学修士)

日本語版翻訳・編集 高木賢 (神学修士)

日本語版では表現や内容に加筆修正がなされています。

 

(質問)

どうして礼拝に参加するのでしょうか?

 

(回答)

何日間も何も飲まず食わずの状態で過ごしてみたことがあなたにはありますか。

少なくとも自らすすんでそのようなことを試すことは

今までなかったのではないでしょうか。

生命を維持するためには少なくとも水分の補給が必要不可欠であることは

よく知られています。

食べ物がなくても何日間ならなんとかなるでしょうし、

ひょっとしたら何週間でさえ生きながらえることができるかもしれません。

しかし、そのような状況ではあなたはベストコンディションではいられません。

 

これと同じことがキリスト教の礼拝参加にも当てはまります。

もしもあなたが教会の礼拝と無関係な生活を続けているとしたら、

あなたは信仰的な意味で次第に弱っていく危険に晒されていると言えます。

 

キリスト教の礼拝は

礼拝参加者に信仰的な栄養を補給させることを目的にしています。


礼拝ではイエス・キリスト御自身が御言葉と祈りと聖餐の賜物によって

私たちを養い癒してくださいます。

とりわけ聖餐式でキリストは聖別されたパンとぶどう酒を通して

御自分のまことの身体とまことの血を分け与え、

私たちの罪を赦してくださるのです。

このようにキリストが私たちに仕えてくださることが

キリスト教の礼拝の起点になっています。

 

人間が健康的な生活を送るためには次のような側面もあります。


もしも食べ続けるばかりで、

溜め込んだエネルギーを消費するために何もやろうとしないなら、

あなたの体重は増えていくばかりでしょう。

健康のバランスも徐々に失われて、

以前と同じようには生活できなくなっていくことでしょう。

 

教会の礼拝に参加して聖書の教えを学ぶことはとても大切です。

しかしそれと同じくらい大切なのは、

学んだことを実生活の中で活用していくことです。


礼拝自体もキリスト信仰者の生活全体も

キリストに仕えていただくことに終始するだけのものではありません。

礼拝から信仰的な良い影響を受けて

仕えるキリスト信仰者として生活していくことでもあるのです。


「キリスト信仰者は全生涯を通じて神様にお仕えしていくべきである」

というのが聖書のメッセージです。

このことは週一回の礼拝の時に限られるものではありません。

 

イエス様は緻密な教義体系を人々の頭に叩き込むために

哲学の学び舎を設立されませんでしたし、

壮麗な教会建築が地上に聳え立つようにもなさいませんでした。


イエス様は実際に出会われた人々を隣り人として愛されました。

さまざまな傷を受けていた彼らに寄り添い、

御自分に従うようにと彼らを招かれました。

そして実際に従った人たちは皆、

イエス・キリストが彼らに示された愛を体験することができたのです。


また神様の御国の偉大さをイエス様は

この世での御自分の生きかたを通して弟子たちに教えてくださいました。

そのおかげで、

神様の愛と無条件の罪の赦しの恵みの影響を受けた多くのキリスト信仰者は

自分たちがキリストからいただいた愛を

今度は他の人たちにも自然なかたちで分かち合っていくことになったのです。

 

周囲にいる人々をキリストの御許に招いて彼らと共に歩んでいくことは

キリスト信仰者の群れである教会の大切な活動目的のひとつです。


礼拝で私たちはキリスト御自身と共に歩みます。

「キリストの身体」は教会において具体的な形をとります。

教会ではキリスト信仰者ひとりひとりがキリストの身体を構成しており、

とりなしの祈りや出会いやさまざまな奉仕というかたちで

互いに支え合っています。

罪の赦しの恵みをいただいた私たちは神様の御心にかなうやりかたで

実生活を通して仕えていくことができるように整えられていきます。

 

このように礼拝とは

神様御自身が信仰的な栄養と奉仕への備えを

礼拝参加者に分け与えてくださる素晴らしい時であり場所なのです。

 

最後に私は逆に聞き返したいと思います。


礼拝にあえて参加しない理由があなたにはありますか。

 

 

 

 

 

 

 

2022年12月23日金曜日

あなたのあがない主は生きておられる(「ヨブ記」19章25節)

 あなたのあがない主は生きておられる

 

フィンランド語版著者

テーム・ハータヤ (フィンランド・ルーテル福音協会牧師)

日本語版翻訳・編集者

高木賢 (フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

 

聖書の引用箇所は口語訳によるものです。

日本語版では表現に多少の編集が施されています。

 

 

「ヨブ記」は苦難に巻き込まれた

ある人物の経験した信仰の戦いを活写しています。

人生の前半までヨブは輝かしい成功を収めていました。

しかし彼は突然そのすべてを奪い去られました。

子どもたち全員、自分の健康、親戚一同、友人たち、財産のすべてを

ヨブは失うことになったのです。

どうして神様は

あらゆる不幸がヨブの身の上に降りかかることを許されたのでしょうか。

 

人生の危機はヨブを信仰の危機へと陥れました。

なぜ神様はあらゆる不幸が自分の身の上に起きることを許されたのか

とヨブは問います。

彼がこのような疑問をもったのは少しも不思議ではありません。

危機の只中に放り込まれたことのある人なら

誰でもヨブと同じような疑問を抱かずにはいられないでしょう。

ヨブはあらゆる苦しみを受け、

耐え難い痛みを覚え、

数々の疑問にとらわれながらも、

あたかも暗闇の中を手探りするようにして神様のほうへと向き直り、

次のように信仰告白します。

 

「わたしは知る、

わたしをあがなう者は生きておられる、

後の日に彼は必ず地の上に立たれる。」

(「ヨブ記」19章25節、口語訳)

 

この節には信仰にかかわる大切な三つの視点が含まれています。

 

第一に、ヨブは「わたしは知る」と言っています。

あなたもまたキリスト信仰者としてヨブと同じように言うことができるのです。

それはなぜでしょうか。

聖書が間違っていることは決してないからです。

聖書の教えていることは正しく、約束していることは必ず実現します。

それゆえ、あなたも聖書に全幅の信頼を寄せてよいのです。

 

ところでヨブは何を知っていたのでしょうか。

それは彼をあがなう主は生きておられるということでした。

これが上記のヨブの言葉に含まれている信仰への第二の視点です。

ヨブは神様が生きておられることを知っていたのです。

そしてあなたもヨブのように言うことができるのです。

あなたの神様であり、あなたのあがない主である

イエス・キリストは生きておられます。

イエス様は苦しみを受けて十字架で死なれました。

この出来事が起きたのはあなたの罪のためであり、

あなたに罪の赦しをもたらすためだったのです。

死んだイエス様が埋葬された墓は

その内側にイエス様を閉じ込めておくことができませんでした。

イエス様は死んでから三日目によみがえられ、

今も永遠に生きておられるのです!

 

信仰にかかわる第三の視点は、

神様がヨブの人生と同じようにあなたの人生も

しっかり導いてくださっていることを信頼しなさいということです。

ヨブは自分のあがない主が

最後の日の裁き主としてこの地の上に立たれることを知っています。

神様に不可能なことは何もありません。

ヨブはこのことを実際に自分で見ることができました。

最終的にヨブは主の御前にへりくだり、

主に対して反抗的だったそれまでの自分の態度を悔い改めました。

改心したヨブが祈ると神様は彼の人生をすっかり変えてくださいました。

ヨブは神様から助けをいただいたのです。

 

「ヨブがその友人たちのために祈ったとき、

主はヨブの繁栄をもとにかえし、

そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。」

(「ヨブ記」42章10節、口語訳)

 

あなたの人生には喜ばしいことも苦しいことも含まれていると思います。

しかしたとえ苦しさの最中にあったとしても、

あなたのあがない主が生きておられ最後の日の裁き主として立たれることを

どうか思い起こしてください。

自分の罪深さと理解の足りなさを神様に告白し、

不可能なことが何もない神様にどうか信頼してください。

おそらく神様はあなたの抱えている問題のすべてを

取り除いてはくださらないでしょう。

私たちは依然として罪が様々な問題を引き起こし続けている

この地上で生活しているからです。

ヨブも自分の死んだ子どもたちを

神様に生き返らせていただくことはできませんでした。

しかし裁き主としてあなたの人生に最終的な宣告を下すのは神様です。

あなたが主を信じて主の御許に逃げ込むとき、

主はあなたをしっかり受け止めて天の御国へと導いてくださいます。

 

 

 

 

 

2022年12月9日金曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 終わりの挨拶のないままに

「ヤコブの手紙」ガイドブック

 

終わりの挨拶のないままに

 

既出の5章19〜20節にて、

ヤコブは古典古代の手紙および新約聖書の手紙にはつきものの

終わりの言葉や挨拶を記さないまま唐突にこの手紙を閉じています。

それもあって「ヤコブの手紙」は

いわば序論付きの説教のようなものとみなされる場合もあります。

しかし例えば「ヨハネの第一の手紙」も

終わりの言葉や挨拶がないままで閉じられています。

古典古代における手紙の書き方の作法は絶対的なものではなく、

そこから逸脱した流儀で書かれることもありました。

「ヤコブの手紙」はそのような手紙でした。

しかし、まさにそれによって

最後の節がよりいっそう印象深いものになっていると思います。

 

 

(終わり)


フィンランド語版著者 パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)

日本語版翻訳・編集者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)


前回の掲載時に上記の箇所を加えるのを忘れていました。


次回からはまた別の聖書の手紙について取り上げることにします。