2023年1月25日水曜日

「恵みに基づく自信」自信の形成に影響を与えるものは何でしょうか。自信が持てない場合にはどうすればよいのでしょうか。

恵みに基づく自信 

質問) 自信の形成に影響を与えるものは何でしょうか。

 

自信の形成に最も影響を与えるのは

周囲の人たちからの感想や意見といったフィードバックでしょう。

人間は社会的な存在です。

「他の人たちは私たちについて一体何を考えているのか」

というのは私たちにとって大事です。

また私たちがお互いを受け入れることも大切です。

人間には四つの基本的な欲求があると言われています。

それらは

愛されること、承認されること、評価されること、自分らしく生きる権利です。


これらの中でもとりわけ

「私たちが愛されること」が大事であるのは言うまでもありません。

 

人間の自信の形成に影響を与えるものとしては、

その人が置かれている現実の状況に加えて、

その人の過去や今までの経験などを挙げることができます。

例えば小さい時にいじめられたことがある人は

自信を持ちにくくなる場合が多いのではないでしょうか。

 

 

質問) 自信が持てない場合にはどうすればよいのでしょうか。

 

これは本当に難しい問題です。

たしかに神様は「御自分のかたち」として私たちを創造してくださいました。

しかしこれは

自動的に私たちが自信を持てるようになるのを保証するものではありません。

聖書では神様の天地創造の後に人間の罪への堕落に関する記述が続きます。

はじめの人間たちは神様の御心に反して罪へと堕落しました。

その影響で、

彼らの末裔である人類は皆「罪深い存在」として

この世に生まれるようになってしまいました。

この「生まれながらの罪」(原罪)のせいで、

私たち人間はこの世で常に様々な問題や苦しみに付きまとわれるようになり、

自信を持って生きていくことができなくなってしまったのです。

 

人間にとって

自分の弱さや中途半端さを素直に認めることは決して容易ではありません。

そしてこれが自信のなさを生んでいる原因です。

ともすると人間は自らの弱さや中途半端さのせいで

「ありのままの自分ではきっと周りから認めてもらえない」

という思い込みに支配されやすくなるからです。

 

2023年1月23日月曜日

「恵みに基づく自信」自信とは何でしょうか。

 恵みに基づく自信

 

フィンランド語版質問者・執筆者 アールニ・セッパラ

フィンランド語版回答者 ユハ・ヘイノネン

(フィンランド・ルーテル福音協会、青年伝道担当) 

日本語版翻訳・編集者 高木賢

(フィンランド・ルーテル福音協会)

 

聖書の引用は口語訳によっています。

日本語版では表現や内容に多少の修正および加筆が施されています。

 

 

 

はじめに 

 

多くの若者は自信のなさに苦しんでいます。

それは彼らの日々の生活にも大きな影響を与えています。

ところで聖書は自信についてどのように教えているのでしょうか。

また神様は自信の問題についてどのように考えておられるのでしょうか。

主に青年を対象にキリスト教伝道に長年携わってこられた

ユハ・ヘイノネンさんにこの問題についてお話を伺いました。

 

 

質問) 自信とは何でしょうか。

 

自信とは自分の本来の価値を自覚することです。

それはプレッシャーを感じることなく

ありのままの自分でいられる生き方でもあります。

人間にとって健全な自信を持てるようになることは大切です。

そのような自信は健全な人間生活を送るために欠かせないものだからです。

無理することなくありのままの自分で生活できるようになると、

周りにいる人たちとの関係も好転していきます。

 

聖書によれば、人間の自信は「天地創造」に基づいています。

天地創造において神様は人間を「御自分のかたち」としてお造りになりました。

これについて旧約聖書の「創世記」は次のように記しています。

 

「神は自分のかたちに人を創造された。

すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」

(「創世記」1章27節、口語訳)

 

「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。

そこで人は生きた者となった。」

(「創世記」2章7節、口語訳)

 

神様が命の息を人間に吹き込まれたおかげで、

私たちは神様にとってかけがいのない価値を持つ存在となりました。

すべての人間が有しているこの尊厳を

私たちから奪い去ることは誰にもできないし、また許されてもいません。

 


2023年1月4日水曜日

どうして礼拝に参加するのでしょうか?

 どうして礼拝に参加するのでしょうか?

フィンランド語版回答者 ミーカ・アウヴィネン (神学修士)

日本語版翻訳・編集 高木賢 (神学修士)

日本語版では表現や内容に加筆修正がなされています。

 

(質問)

どうして礼拝に参加するのでしょうか?

 

(回答)

何日間も何も飲まず食わずの状態で過ごしてみたことがあなたにはありますか。

少なくとも自らすすんでそのようなことを試すことは

今までなかったのではないでしょうか。

生命を維持するためには少なくとも水分の補給が必要不可欠であることは

よく知られています。

食べ物がなくても何日間ならなんとかなるでしょうし、

ひょっとしたら何週間でさえ生きながらえることができるかもしれません。

しかし、そのような状況ではあなたはベストコンディションではいられません。

 

これと同じことがキリスト教の礼拝参加にも当てはまります。

もしもあなたが教会の礼拝と無関係な生活を続けているとしたら、

あなたは信仰的な意味で次第に弱っていく危険に晒されていると言えます。

 

キリスト教の礼拝は

礼拝参加者に信仰的な栄養を補給させることを目的にしています。


礼拝ではイエス・キリスト御自身が御言葉と祈りと聖餐の賜物によって

私たちを養い癒してくださいます。

とりわけ聖餐式でキリストは聖別されたパンとぶどう酒を通して

御自分のまことの身体とまことの血を分け与え、

私たちの罪を赦してくださるのです。

このようにキリストが私たちに仕えてくださることが

キリスト教の礼拝の起点になっています。

 

人間が健康的な生活を送るためには次のような側面もあります。


もしも食べ続けるばかりで、

溜め込んだエネルギーを消費するために何もやろうとしないなら、

あなたの体重は増えていくばかりでしょう。

健康のバランスも徐々に失われて、

以前と同じようには生活できなくなっていくことでしょう。

 

教会の礼拝に参加して聖書の教えを学ぶことはとても大切です。

しかしそれと同じくらい大切なのは、

学んだことを実生活の中で活用していくことです。


礼拝自体もキリスト信仰者の生活全体も

キリストに仕えていただくことに終始するだけのものではありません。

礼拝から信仰的な良い影響を受けて

仕えるキリスト信仰者として生活していくことでもあるのです。


「キリスト信仰者は全生涯を通じて神様にお仕えしていくべきである」

というのが聖書のメッセージです。

このことは週一回の礼拝の時に限られるものではありません。

 

イエス様は緻密な教義体系を人々の頭に叩き込むために

哲学の学び舎を設立されませんでしたし、

壮麗な教会建築が地上に聳え立つようにもなさいませんでした。


イエス様は実際に出会われた人々を隣り人として愛されました。

さまざまな傷を受けていた彼らに寄り添い、

御自分に従うようにと彼らを招かれました。

そして実際に従った人たちは皆、

イエス・キリストが彼らに示された愛を体験することができたのです。


また神様の御国の偉大さをイエス様は

この世での御自分の生きかたを通して弟子たちに教えてくださいました。

そのおかげで、

神様の愛と無条件の罪の赦しの恵みの影響を受けた多くのキリスト信仰者は

自分たちがキリストからいただいた愛を

今度は他の人たちにも自然なかたちで分かち合っていくことになったのです。

 

周囲にいる人々をキリストの御許に招いて彼らと共に歩んでいくことは

キリスト信仰者の群れである教会の大切な活動目的のひとつです。


礼拝で私たちはキリスト御自身と共に歩みます。

「キリストの身体」は教会において具体的な形をとります。

教会ではキリスト信仰者ひとりひとりがキリストの身体を構成しており、

とりなしの祈りや出会いやさまざまな奉仕というかたちで

互いに支え合っています。

罪の赦しの恵みをいただいた私たちは神様の御心にかなうやりかたで

実生活を通して仕えていくことができるように整えられていきます。

 

このように礼拝とは

神様御自身が信仰的な栄養と奉仕への備えを

礼拝参加者に分け与えてくださる素晴らしい時であり場所なのです。

 

最後に私は逆に聞き返したいと思います。


礼拝にあえて参加しない理由があなたにはありますか。

 

 

 

 

 

 

 

2022年12月23日金曜日

あなたのあがない主は生きておられる(「ヨブ記」19章25節)

 あなたのあがない主は生きておられる

 

フィンランド語版著者

テーム・ハータヤ (フィンランド・ルーテル福音協会牧師)

日本語版翻訳・編集者

高木賢 (フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

 

聖書の引用箇所は口語訳によるものです。

日本語版では表現に多少の編集が施されています。

 

 

「ヨブ記」は苦難に巻き込まれた

ある人物の経験した信仰の戦いを活写しています。

人生の前半までヨブは輝かしい成功を収めていました。

しかし彼は突然そのすべてを奪い去られました。

子どもたち全員、自分の健康、親戚一同、友人たち、財産のすべてを

ヨブは失うことになったのです。

どうして神様は

あらゆる不幸がヨブの身の上に降りかかることを許されたのでしょうか。

 

人生の危機はヨブを信仰の危機へと陥れました。

なぜ神様はあらゆる不幸が自分の身の上に起きることを許されたのか

とヨブは問います。

彼がこのような疑問をもったのは少しも不思議ではありません。

危機の只中に放り込まれたことのある人なら

誰でもヨブと同じような疑問を抱かずにはいられないでしょう。

ヨブはあらゆる苦しみを受け、

耐え難い痛みを覚え、

数々の疑問にとらわれながらも、

あたかも暗闇の中を手探りするようにして神様のほうへと向き直り、

次のように信仰告白します。

 

「わたしは知る、

わたしをあがなう者は生きておられる、

後の日に彼は必ず地の上に立たれる。」

(「ヨブ記」19章25節、口語訳)

 

この節には信仰にかかわる大切な三つの視点が含まれています。

 

第一に、ヨブは「わたしは知る」と言っています。

あなたもまたキリスト信仰者としてヨブと同じように言うことができるのです。

それはなぜでしょうか。

聖書が間違っていることは決してないからです。

聖書の教えていることは正しく、約束していることは必ず実現します。

それゆえ、あなたも聖書に全幅の信頼を寄せてよいのです。

 

ところでヨブは何を知っていたのでしょうか。

それは彼をあがなう主は生きておられるということでした。

これが上記のヨブの言葉に含まれている信仰への第二の視点です。

ヨブは神様が生きておられることを知っていたのです。

そしてあなたもヨブのように言うことができるのです。

あなたの神様であり、あなたのあがない主である

イエス・キリストは生きておられます。

イエス様は苦しみを受けて十字架で死なれました。

この出来事が起きたのはあなたの罪のためであり、

あなたに罪の赦しをもたらすためだったのです。

死んだイエス様が埋葬された墓は

その内側にイエス様を閉じ込めておくことができませんでした。

イエス様は死んでから三日目によみがえられ、

今も永遠に生きておられるのです!

 

信仰にかかわる第三の視点は、

神様がヨブの人生と同じようにあなたの人生も

しっかり導いてくださっていることを信頼しなさいということです。

ヨブは自分のあがない主が

最後の日の裁き主としてこの地の上に立たれることを知っています。

神様に不可能なことは何もありません。

ヨブはこのことを実際に自分で見ることができました。

最終的にヨブは主の御前にへりくだり、

主に対して反抗的だったそれまでの自分の態度を悔い改めました。

改心したヨブが祈ると神様は彼の人生をすっかり変えてくださいました。

ヨブは神様から助けをいただいたのです。

 

「ヨブがその友人たちのために祈ったとき、

主はヨブの繁栄をもとにかえし、

そして主はヨブのすべての財産を二倍に増された。」

(「ヨブ記」42章10節、口語訳)

 

あなたの人生には喜ばしいことも苦しいことも含まれていると思います。

しかしたとえ苦しさの最中にあったとしても、

あなたのあがない主が生きておられ最後の日の裁き主として立たれることを

どうか思い起こしてください。

自分の罪深さと理解の足りなさを神様に告白し、

不可能なことが何もない神様にどうか信頼してください。

おそらく神様はあなたの抱えている問題のすべてを

取り除いてはくださらないでしょう。

私たちは依然として罪が様々な問題を引き起こし続けている

この地上で生活しているからです。

ヨブも自分の死んだ子どもたちを

神様に生き返らせていただくことはできませんでした。

しかし裁き主としてあなたの人生に最終的な宣告を下すのは神様です。

あなたが主を信じて主の御許に逃げ込むとき、

主はあなたをしっかり受け止めて天の御国へと導いてくださいます。

 

 

 

 

 

2022年12月9日金曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 終わりの挨拶のないままに

「ヤコブの手紙」ガイドブック

 

終わりの挨拶のないままに

 

既出の5章19〜20節にて、

ヤコブは古典古代の手紙および新約聖書の手紙にはつきものの

終わりの言葉や挨拶を記さないまま唐突にこの手紙を閉じています。

それもあって「ヤコブの手紙」は

いわば序論付きの説教のようなものとみなされる場合もあります。

しかし例えば「ヨハネの第一の手紙」も

終わりの言葉や挨拶がないままで閉じられています。

古典古代における手紙の書き方の作法は絶対的なものではなく、

そこから逸脱した流儀で書かれることもありました。

「ヤコブの手紙」はそのような手紙でした。

しかし、まさにそれによって

最後の節がよりいっそう印象深いものになっていると思います。

 

 

(終わり)


フィンランド語版著者 パシ・フヤネン(フィンランド・ルーテル福音協会牧師)

日本語版翻訳・編集者 高木賢(フィンランド・ルーテル福音協会)


前回の掲載時に上記の箇所を加えるのを忘れていました。


次回からはまた別の聖書の手紙について取り上げることにします。

2022年11月24日木曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 「ヤコブの手紙」5章19〜20節 キリスト信仰者は傍観者であってはいけない

 キリスト信仰者は傍観者であってはいけない

「ヤコブの手紙」5章19〜20節

 

「わたしの兄弟たちよ。

あなたがたのうち、真理の道から踏み迷う者があり、

だれかが彼を引きもどすなら、かように罪人を迷いの道から引きもどす人は、

そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、

知るべきである。」

(「ヤコブの手紙」5章19〜20節、口語訳)

 

この節の「真理の道から踏み迷う者」とは

本来のキリスト教ではない異端にまきこまれてしまった人のことか、

あるいは道徳的に堕落してしまった人のことを指していると思われます。

どちらの場合でも

人は神様との生き生きとした結びつきを失ってしまうことになります。

 

キリスト信仰者をこのような危険から正しい道へと立ち戻らせることは

教会で働いている牧師のみの責任ではありません。

これはキリスト信仰者各人の義務でもあります。

パウロは次のように教えています。

 

「兄弟たちよ。

もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、

霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。

それと同時に、

もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。」

(「ガラテアの信徒への手紙」6章1節、口語訳)

 

上節でパウロは「その人を正しなさい」と言っています。

ギリシア語の動詞「カタルティゾー」は、

古典古代の医学では「関節から外れた体の部位を元どおりの位置に戻す」

という意味をもっていました。

この箇所にもその意味が込められています。

すなわち、迷子になったキリスト信仰者を

本来その人が属しているはずの場所

すなわち神様の御意思の下に連れ戻すことです。

 

「罪人を迷いの道から引きもどす人は、

そのたましいを死から救い出し、

かつ、多くの罪をおおうものである」

という上掲の「ヤコブの手紙」の御言葉は

「箴言」10章12節や

「ペテロの第一の手紙」4章10節の御言葉と同様に、

愛は多くの罪を覆うものであることを強調しています。

 

ある人たちはこの教えを

「よい行いは悪い行いを帳消しにしてくれる」

というように理解しました。

しかしこれでは

「よい行いと悪い行いとの関係が

それを行う人間の永遠の世界における命運を定める」

というイスラム教による救いの考え方と同じものになってしまいます。

 

それとは異なり、この箇所の教えは

「愛は罪の大きさには目を留めないものである」

と理解することもできます。

イエス様は

御自分のことを愛する者たちのみを愛してくださるのではありません。

むしろ、イエス様は

御自分の愛に相応しくないような者たちをこそ愛しておられるのです。

2022年11月16日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 「ヤコブの手紙」5章13〜18節 祈り 〜 神様の御手を動かす力

 祈り 〜 神様の御手を動かす力

「ヤコブの手紙」5章13〜18節

 

これから扱う箇所についてはあらかじめ読者が知っておくべきことがあります。

それはヤコブは模範的な「祈りの人」であったということです。

ヤコブは真摯な信仰者であったため、

ユダヤ人キリスト信仰者たちは彼をエルサレム教会の指導者として受け入れていた

という面もあったのかもしれません。

古くからのキリスト教会の伝承によれば、

ヤコブはあまりにも熱心に祈る人だったために

彼の膝はラクダのもののようになっていたそうです。

 

「あなたがたの中に、病んでいる者があるか。

その人は、教会の長老たちを招き、

主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。」

(「ヤコブの手紙」5章14〜15節、口語訳)

 

上掲の箇所に基づいてローマ・カトリック教会は

「終油」あるいは「病者の塗油」と呼ばれる

秘跡(サクラメント)を設定しました。

直接的にはこの箇所は魂の救いではなく

病者の癒しについて述べているにすぎませんが、

新約聖書の原典のギリシア語の単語(「ソーゾー」)には

そのどちらの意味もあります。

 

油を塗布することは旧約聖書の時代にも用いられていた病の癒し方です

(「イザヤ書」1章6節)。

イエス様の弟子たちも人々を癒すときに塗油を行なっていました

(「マルコによる福音書」6章13節、「ルカによる福音書」10章34節)。

しかし、この箇所でヤコブが強調しているのは祈ることの大切さです。

実のところ、塗油ではなく祈りこそが癒しの鍵なのです。

 

現代では高度に発達した医学が

癒しという恵みの賜物や病人のための祈りにとってかわった

という主張もなされています。

たしかに医学の進歩は

神様が人類に与えてくださった最大の賜物のうちのひとつです。

しかしその一方では、

最先端の医学をもってしてもすべての病を治すことはできない

というのも事実なのです。

私たち人間は神様のこの世に対する働きかけを制限することができません。

医学の分野に関してもそれは同じです。

 

「悩みの日にわたしを呼べ、

わたしはあなたを助け、

あなたはわたしをあがめるであろう。」

(「詩篇」50篇15節、口語訳)

 

この有名な詩篇の箇所は「神様への電話番号」などと呼ばれることもあります。

神様は人が諸々の困難に直面するのを容認なさる場合が少なからずあります。

そうしなければ、多くの人は神様の御許に自ら来ようとはしないからです。

 

キリスト信仰者の人生も実に多様な困難に遭遇します。

しかしそれらの試練は神様が彼らを見捨てた証拠などではありません。

 

「エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、

雨が降らないようにと祈をささげたところ、

三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。

それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた。」

(「ヤコブの手紙」5章17〜18節、口語訳)

 

ここでふたたびヤコブは旧約聖書の例を引き合いに出しています。

預言者エリヤはまったく普通の人間でしたが、

その一方では、力にあふれた祈りの人でもありました。

祈りによってエリヤはバアルの預言者たちに対しても勝利を収めたのです

(「列王記上」17〜18章)。