2022年6月8日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 真の知恵と幻想の知恵(その1)

 真の知恵と幻想の知恵(その1)

「ヤコブの手紙」3章13〜18節

 

多くの現代人にとって「深い知恵」と「高い知能」は

ほぼ同義語になっているのではないでしょうか。

しかし聖書の考え方はそれとは異なるものです。

例えば旧約聖書には「知恵文学」と呼ばれる書物群があります。

その一つである「箴言」において「知恵」とは

人生についての深い体験や洞察を含むものです。

「ヤコブの手紙」も次のように教えています。

 

「あなたがたのうちで、知恵があり物わかりのよい人は、だれであるか。

その人は、知恵にかなう柔和な行いをしていることを、

よい生活によって示すがよい。」

(「ヤコブの手紙」3章13節、口語訳)

 

聖書の意味する「知恵」は人間の知能の程度によってではなく

態度や振る舞いによって測られるものです。

ヤコブが強調しているのはまさにこのことです。

真理が心の中に宿っていることが

知恵ある人としての必要不可欠な条件であることを次の聖句は教えています。

 

「しかし、もしあなたがたの心の中に、

苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、

誇り高ぶってはならない。

また、真理にそむいて偽ってはならない。」

(「ヤコブの手紙」3章14節、口語訳)

 

抜け目のなさや他の人を自分の目的のために利用することは

真の知恵などではありません。

「箴言」は知恵の源について次のように述べています

(なお「箴言」2章1〜19節には

「知恵」についてのより詳しい説明があります。)。

 

「主を恐れることは知識のはじめである、

愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。」

(「箴言」1章7節、口語訳)

2022年6月2日木曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 少しのパン種でも粉全体をふくらませる

 少しのパン種でも粉全体をふくらませる

 

「また船を見るがよい。

船体が非常に大きく、また激しい風に吹きまくられても、

ごく小さなかじ一つで、操縦者の思いのままに運転される。

それと同じく、舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。

見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。」

(「ヤコブの手紙」3章4〜5節、口語訳)

 

上掲の節には船の航路を決める「ごく小さなかじ」や

大火事を引き起こす「ごく小さな火」が出てきます。


これらのイメージは古典古代のギリシア語文献ではよく知られたものであり、

そこでは人間の魂や精神の力が自然の力よりも優れていることを

表現するために使用されています。


それに対して「ヤコブの手紙」はこれらのイメージによって、

ごく小さいことが大きな害を招く場合があることを示そうとしています。


私たち人間を外側から汚そうとする「悪」があります。

しかし、私たち人間に内在している「悪」もあるのです。

このことを言葉の使用による罪は私たちに思い起こさせます

(「マタイによる福音書」15章10〜29節も参考になります)。

イエス様は「おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。」

と言っておられます(「マタイによる福音書」12章34節より、口語訳)。

 

人がキリスト信仰者として生きていくことは、

たんにその人の生活の一部に限定されるものではなく

全人生にかかわるものです。

そのことをヤコブは読者に伝えようとしています。

 

言葉の使用に関するヤコブの教えは、

人が日常の中で話していることが

その人のキリスト信仰者としての本当の質を表している

という考えに通じるものです。

 

「神は彼らを祝福して言われた、

「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。

また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

(・・・)主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、

これを耕させ、これを守らせられた。」

(「創世記」1章28節、2章15節、口語訳)

 

旧約聖書冒頭の天地創造の記述で強調されているように、

神様によって人間は被造物世界を指導し支配する地位に任命されています。

人間と他の生物たちとの間には本質的な相違があります。

それをわかりやすく示しているのは、

人間が言葉で話すことができるという点です。

 

「しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。

だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」

(「マタイによる福音書」6章23節、口語訳)

 

上掲の箇所で言われているように、

神様からいただいた素晴らしい賜物を神様の御意思に反する目的で使用するとき、

人間は深い闇に覆われてしまいます。

この闇は神様に敵対する者に由来しています。

言葉を話せるという賜物についても同じことが言えます。

 

「舌は火である。

不義の世界である。

舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、

全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。」

(「ヤコブの手紙」3章6節、口語訳)

 

上掲の箇所に出てくる「地獄」とはギリシア語原文では「ゲエンナ」といい、

旧約聖書では「ケデロンの谷」を指しています。

この谷ではユダのシデキヤ王の時代に

人間の子どもたちが偶像への生贄として焼かれたのです

(「エレミヤ書」32章35節)。

 

上掲の箇所にある「生存の車輪」という言葉

(ギリシア語では「ホス・トゥロコス・テース・ゲネセオース」)で

ヤコブは何を言いたいのでしょうか。


例えばヒンドゥー教ではこのような表現には

「魂の輪廻転生」といった意味が付与されています。


それに対して、ヤコブの神学においてこの言葉は

「人間の全人生における歩み」を比喩的に表している

と理解することができるでしょう。

 

「わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、

また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。」

(「ヤコブの手紙」3章9節、口語訳)

 

この箇所の最後でいくつかの自然からとった具体例によって

ヤコブが示しているのは、

同じひとりの人間が祝福の言葉と呪いの言葉とを同じ口から発するのは

決して正常な状態ではないということです。

 

「わたしの兄弟たちよ。

いちじくの木がオリブの実を結び、

ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができようか。

塩水も、甘い水を出すことはできない。」

(「ヤコブの手紙」3章12節、口語訳)

 

「創世記」1章11〜12節にもあるように、

それぞれの木はその種に特有な実を結びます。

また、汚水の入った大きな容器の中身は、

たとえそこに一リットルのきれいな水を加えても飲めるものにはなりません。

その一方で、

一リットルの汚水をきれいな水のたくさん入った容器に加えると、

容器内の水は飲めないものになってしまいます。


例えば、

私たちが互いに異なる二通りの態度を相手に応じて使い分けていることを

他の人々が気づいた場合に、

彼らはいったいどちらが本来の私たちの姿を表しているのか判断できずに

困惑することになるのではないでしょうか。

残念なことに、上の汚水の例と同じく人間の場合にも、

ごく少量の悪い部分が他のたくさんの良い部分も汚染してしまうのです。


またその逆のケースとして、

ある人にたとえ少しばかり良い部分があったとしても、

それによって他の大量の悪い部分を打ち消すことはできません。

2022年5月27日金曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 自分が考えていることを不適切に口に出さないために、 自分が言うべきことをよく吟味しなさい 「ヤコブの手紙」3章1〜2節(その2)

言葉の使用による罪と祝福

「ヤコブの手紙」3章

 

自分が考えていることを不適切に口に出さないために、

自分が言うべきことをよく吟味しなさい

「ヤコブの手紙」3章1〜2節(その2)

 


「ヤコブの手紙」3章1節からもわかるように、ヤコブも聖書の教師でした。

とはいえ、言葉の使用にかかわる罪への警告は説教者だけではなく

キリスト信仰者全員にも当てはまるものでしたし、今でもそうです。

 

一般的にユダヤ人たちは教師の地位を非常に高く評価しており、

教師たちを自分の父親よりも重んじたほどでした。

肉親は私たちをこの世に生んでくれましたが、

教師たちは私たちを来るべき永遠の世界へと導いてくれるからです。

だからこそ特に教師は自分の話す内容をしっかり吟味するべきなのです。

そしてまた、

キリスト信仰者全員が言葉の使用に関する同じ奨励を受け入れる必要があります。

 

「あなたがたに言うが、審判の日には、

人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。」

(「マタイによる福音書」12章36節、口語訳)

 

言葉の使用に関して一度たりとも神様の御心に反することがなく

隣り人に対しても罪を犯さないというのは誰にもできません。

それができたのはイエス様だけです。

 

「キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。」

(「ペテロの第一の手紙」2章22節、口語訳)

 

「さて、下役どもが祭司長たちやパリサイ人たちのところに帰ってきたので、

彼らはその下役どもに言った、

「なぜ、あの人を連れてこなかったのか」。

下役どもは答えた、

「この人の語るように語った者は、これまでにありませんでした」。」

(「ヨハネによる福音書」7章45〜46節、口語訳)

 

聖なる神様と出会うとき、

私たちは言葉の使用に関しても自らの罪深さを否応なく思い知らされます。

次に引用する聖句からもわかるように、

これは預言者イザヤにとっても真実でしたし、

もちろん他のすべての人間にとってもそうです。

 

「その時わたしは言った、

「わざわいなるかな、

わたしは滅びるばかりだ。

わたしは汚れたくちびるの者で、

汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、

わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。」

(「イザヤ書」6章5節、口語訳)

 

パウロは言葉の使用に関する人間の罪深さについて次のように書いています。

 

「彼らののどは、開いた墓であり、

彼らは、その舌で人を欺き、

彼らのくちびるには、まむしの毒があり、

彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。」

(「ローマの信徒への手紙」3章13〜14節、口語訳)

2022年5月11日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 自分が考えていることを不適切に口に出さないために、 自分が言うべきことをよく吟味しなさい「ヤコブの手紙」3章1〜2節(その1)

 言葉の使用による罪と祝福

「ヤコブの手紙」3章

 

自分が考えていることを不適切に口に出さないために、

自分が言うべきことをよく吟味しなさい

「ヤコブの手紙」3章1〜2節(その1)

 

「ヤコブの手紙」の1〜2章の大部分の内容は「奨励」でした。

それに対して

3章から手紙の終わりまでの内容では「警告」に重点が置かれています。

ヤコブは罪のない生活を送ることが人間に可能であるなどとは

夢にも思っていません。

このことを念のためにもう一度指摘しておきたいと思います。

というのは

「ヤコブは人間が罪のない生活を送ることが可能であると考えていた」

という誤解に基づく主張が今でも時おり見受けられるからです。

 

「わたしたちは皆、多くのあやまちを犯すものである。

もし、言葉の上であやまちのない人があれば、

そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である。」

(「ヤコブの手紙」3章2節、口語訳)

 

このようにヤコブは彼自身も含めたすべての人間が

多くの罪に陥ってしまうものであることを認めています。

 

「わたしの兄弟たちよ。

あなたがたのうち多くの者は、教師にならないがよい。

わたしたち教師が、他の人たちよりも、

もっときびしいさばきを受けることが、よくわかっているからである。」

(「ヤコブの手紙」3章1節、口語訳)

 

ここでヤコブが呼びかけている「あなたがた」が

聖書の教師(すなわち説教者)という教会の職務のために選ばれた人々なのか、

それともより一般的に教会を指導する立場にある人々なのか

はっきりしません。

前者のケースすなわち教会の説教職について新約聖書は次のように述べています。

 

「さて、アンテオケにある教会には、

バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、

クレネ人ルキオ、領主ヘロデの乳兄弟マナエン、

およびサウロなどの預言者や教師がいた。」

(「使徒言行録」13章1節、口語訳)

 

「そして、神は教会の中で、人々を立てて、

第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、

次に力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者、

また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれた。」

(「コリントの信徒への第一の手紙」12章28節、口語訳)

 

「御言を教えてもらう人は、教える人と、すべて良いものを分け合いなさい。」

(「ガラテアの信徒への手紙」6章6節、口語訳)

 

「よい指導をしている長老、特に宣教と教とのために労している長老は、

二倍の尊敬を受けるにふさわしい者である。」

(「テモテへの第一の手紙」5章17節、口語訳)

 

上述の「ヤコブの手紙」3章1節にある、

教会の指導者が受けることになる裁き

(これは「責任」と言い換えてもよいかもしれません)

が他の人々が受ける裁きよりも厳しいものになるという考えかたは

聖書の他の箇所にも見られます。

例えば旧約聖書の預言者エゼキエルは

人々の信仰生活に心配りをする立場にある者たち

(教会で言えば牧者にあたる人々)の責任の重大さについて語っています

(「エゼキエル書」3章17〜21節、33章7〜9節)。

それと同じようにパウロも自分自身について次のように述べています。

 

「すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。

そうしないと、

ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。

(「コリントの信徒への第一の手紙」9章27節、口語訳)

 

当然ながらイエス様の次の言葉も忘れるべきではありません。

 

「しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。

多く与えられた者からは多く求められ、

多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。」

(「ルカによる福音書」9章27節、口語訳)

2022年5月4日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 信仰は見えないままでは終わらない 「ヤコブの手紙」2章14〜26節 (その2)

信仰は見えないままでは終わらない

「ヤコブの手紙」2章14〜26節 (その2)

 

あるフィンランド人の神学者によれば、

「ヤコブの手紙」において対置されているのは信仰と行いではなく、

活ける信仰と死んだ信仰です。


活ける信仰は

それをもつ人間の行いのうちにあらわれないままになることはありえない

ヤコブが主張したとするならば、

たしかにパウロはそのヤコブの考え方を全面的に支持したことでしょう。


検討すべき課題はまだ残っています。

以下に引用する「ヤコブの手紙」2章21〜24節です。

 

「わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、

行いによって義とされたのではなかったか。

あなたが知っているとおり、

彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、

こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」

という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。

これでわかるように、人が義とされるのは、

行いによるのであって、信仰だけによるのではない。」

(「ヤコブの手紙」2章21〜24節、口語訳)

 

この箇所でヤコブはアブラハムの行いについて

パウロとは異なる解釈を提示しています。

あたかもヤコブはルター派の信仰理解の根幹に関わる信条

「人は信仰のみを通して救われる」を否定しているかのように見えます。

 

イサクの燔祭についてのヤコブの解釈は

ユダヤ人の聖書学者たちの解釈とよく似ています。

この解釈ではアブラハムの行いが強調されます。

それに対して

パウロは「ローマの信徒への手紙」4章でアブラハムの信仰を強調しています。

まさにこの信仰こそが

アブラハムに神様の指示通りの行動をとるように促したからです。

 

こうして見てくると、

ヤコブとパウロの神学は決して調和できないほどに

互いに食い違っているのではないか、

という疑念が生じるのではないでしょうか。


この問題を解く鍵となるのは次に引用する2章19節です。

 

「あなたは、神はただひとりであると信じているのか。

それは結構である。

悪霊どもでさえ、信じておののいている。」

(「ヤコブの手紙」2章19節、口語訳)

 

この節でヤコブは、

哲学的な意味で「真である」と認めること(これが死んだ信仰です)

によっては人は救われることがない、と主張しています。

人を救うことのできる信仰は活ける信仰だけです。

それでは、

どのようにして私たちは活ける信仰を判別できるのでしょうか。


それは信仰にひき続いてあらわれてくる行いによってなのです。

行いの伴わない信仰は救いません。

それは偽りの信仰だからです。

人を救う信仰は行いも内包しているものです。

とはいえ、

行いは人が救われる根拠なのではありません。

信仰こそが人が救われる根拠なのであり、

よい行いはそのような信仰の結果として生じてくるものです。

 

もっとも

信仰と行いを区別することは必ずしも容易ではありません。

例えば「マルコによる福音書」3章1〜6節には

イエス様が手の萎えた人を癒された出来事が記されています。

そこには

信仰がたんなる論理的な判断ではなく

真に活動的な生きかたであることが示されています。

そのような生きかたはずっと狭苦しい型に押し込められたままでは終わりません。

 

「キリスト・イエスにあっては、

割礼があってもなくても、問題ではない。

尊いのは、愛によって働く信仰だけである。」

(「ガラテアの信徒への手紙」5章6節、口語訳)

 

パウロは生前の頃も自分の神学に対して様々な誤解を受けていましたし、

それを意図的に歪曲する者さえいました。

例えば「コリントの信徒への第一の手紙」6章9節や

上述の「ガラテアの信徒への手紙」5章6節などはそれに関連する箇所です。

ともあれ、

そのようなパウロの神学に対する誤解や曲解を修正しようとしたヤコブは

あえてパウロとは逆の極論を主張するような書きかたをしています。

その結果、

ヤコブの神学はパウロの神学と同様に誤解を生みやすいものになりました。

激しい論戦が繰り広げられているところでは

ともするとこのようなことが起きやすいものです。

 

キリスト教会の歴史を振り返ってみると、

ルター派の倫理は主としてパウロの神学に基づいて形成されてきたのに対して

(カルヴァンなどの)改革派の倫理はヤコブの神学のほうをより重視してきた

とも言えるかもしれません。

例えば社会科学の古典であるマックス・ウェーバーの

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は

改革派の職業倫理が西欧の資本主義の発展と密接な関わりがあった

と主張しています。

 

2022年4月27日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 信仰は見えないままでは終わらない 「ヤコブの手紙」2章14〜26節(その1)

 信仰は見えないままでは終わらない

「ヤコブの手紙」2章14〜26節(その1)

 

これから取り扱うのは

「ヤコブの手紙」をめぐって激しく議論されてきた箇所です。

ここでヤコブが戦っているのはパウロ本人とではなく

パウロをめぐる誤解とである

と多くの研究者は考えています。

それと同じように

パウロも自分の神学に対する人々の誤解を正さなければなりませんでした。

それらの誤解の中には

意図的なものもあれば錯覚によって生じたものもありました。

このことは次に引用するパウロの手紙のいろいろな箇所からも読み取れます。

 

「しかし、キリストにあって義とされることを求めることによって、

わたしたち自身が罪人であるとされるのなら、

キリストは罪に仕える者なのであろうか。

断じてそうではない。」

(「ガラテアの信徒への手紙」2章17節、口語訳)

 

「むしろ、「善をきたらせるために、わたしたちは悪をしようではないか」

(わたしたちがそう言っていると、ある人々はそしっている)。

彼らが罰せられるのは当然である。」

(「ローマの信徒への手紙」2章17節、口語訳)

 

「では、わたしたちは、なんと言おうか。

恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。

断じてそうではない。

罪に対して死んだわたしたちが、

どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。」

(「ローマの信徒への手紙」6章1〜2節、口語訳)

 

「ヤコブの手紙」が誤解を受けて問題視されたのは、

ヤコブが「行い」と「信仰」という二つの最も重要な神学用語を

例えばパウロが「ローマの信徒への手紙」3〜4章で用いたのとは

異なる意味で用いたからでもあるでしょう。

 

パウロにとって、

何によって人は救われるのかという根拠を問うた時に

「信仰」と「行い」とは対極的に位置付けられるはずのものでした。

「行い」とは人が救われるために必要な前提条件なのか、

それとも人が救われた結果生じてくるものなのか、

というのがこの問題の核心です。

 

それに対してヤコブは、

人が信仰に入った後にどのようなことがそれに続いて起きてくるか

について述べています。

「信仰」は信じるようになった人に具体的な影響を及ぼすものなのか、

それとも何の影響ももたらさないのか、

という問題であるとも言えるでしょう。

2022年4月6日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 結び目の強度は一番弱い箇所で決まる「ヤコブの手紙」2章10〜13節(その3)

結び目の強度は一番弱い箇所で決まる

「ヤコブの手紙」2章10〜13節(その3)

 

様々な被造物や事柄に対して奴隷のように振り回されないかぎりにおいて、

人は自由な存在でありえます。

真なる自由は神様の御意思のうちにのみ見出されます。

人は神様の御意思のうちにおいてこそ

自分に本当にふさわしい場所を見つけることができるからです。

 

「あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。

あわれみは、さばきにうち勝つ。」

(「ヤコブの手紙」2章13節、口語訳)

 

実際に私たちの拠り所となっているのが罪の赦しの恵みであるのか、

あるいは一般的な公正さなのかは私たちの行いからわかります。

これがヤコブの指摘していることです。

 

最後の裁きの時に神様に対して

「神様、どうか私を憐れんでください!」と言うのと

「神様、どうか私に対して公正であってください!」と言うのとでは

大きなちがいがあります。

 

私たちのうちの誰ひとりとして

全ての律法の要求を完全に満たすことはできません。

それゆえ、私たちが律法を通して救われようとする試みはうまくいかないのです。

私たちに残されているのは恵みの道だけです。

しかし、もしも私たちが本当に恵みの道を歩んでいるのなら、

私たちは互いに対して憐み深い態度を示すようになるはずです。

このことについては

憐みに欠けた僕に関するイエス様のたとえを参照してください

(「マタイによる福音書」18章21〜35節)。

またイエス様は有名な山上の垂訓においても次のように教えておられます。

 

「あわれみ深い人たちは、さいわいである、

彼らはあわれみを受けるであろう。」

(「マタイによる福音書」5章7節、口語訳)

 

ところが、もしも互いに対して憐みに欠けた態度を取るならば、

神様が私たちに憐み深く接してくださることを期待するべきではありません。

 

「律法による救いの道」は

私たちが天まで登り詰めていくために全身を預ける

「鎖の輪」にたとえることができるでしょう。

たとえ鎖の大部分がどれほど良質で頑丈であっても、

いくつかの質の悪い鎖がちぎれてしまうなら、

私たちはどうしようもなく下へ下へとひたすら落ちていくほかありません。

とはいえいったいどこに落ちていくのでしょうか。

神様の恵みの中になのでしょうか。

それとも孤独な戦いを再開する場所になのでしょうか。