2022年5月4日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 信仰は見えないままでは終わらない 「ヤコブの手紙」2章14〜26節 (その2)

信仰は見えないままでは終わらない

「ヤコブの手紙」2章14〜26節 (その2)

 

あるフィンランド人の神学者によれば、

「ヤコブの手紙」において対置されているのは信仰と行いではなく、

活ける信仰と死んだ信仰です。


活ける信仰は

それをもつ人間の行いのうちにあらわれないままになることはありえない

ヤコブが主張したとするならば、

たしかにパウロはそのヤコブの考え方を全面的に支持したことでしょう。


検討すべき課題はまだ残っています。

以下に引用する「ヤコブの手紙」2章21〜24節です。

 

「わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、

行いによって義とされたのではなかったか。

あなたが知っているとおり、

彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、

こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」

という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。

これでわかるように、人が義とされるのは、

行いによるのであって、信仰だけによるのではない。」

(「ヤコブの手紙」2章21〜24節、口語訳)

 

この箇所でヤコブはアブラハムの行いについて

パウロとは異なる解釈を提示しています。

あたかもヤコブはルター派の信仰理解の根幹に関わる信条

「人は信仰のみを通して救われる」を否定しているかのように見えます。

 

イサクの燔祭についてのヤコブの解釈は

ユダヤ人の聖書学者たちの解釈とよく似ています。

この解釈ではアブラハムの行いが強調されます。

それに対して

パウロは「ローマの信徒への手紙」4章でアブラハムの信仰を強調しています。

まさにこの信仰こそが

アブラハムに神様の指示通りの行動をとるように促したからです。

 

こうして見てくると、

ヤコブとパウロの神学は決して調和できないほどに

互いに食い違っているのではないか、

という疑念が生じるのではないでしょうか。


この問題を解く鍵となるのは次に引用する2章19節です。

 

「あなたは、神はただひとりであると信じているのか。

それは結構である。

悪霊どもでさえ、信じておののいている。」

(「ヤコブの手紙」2章19節、口語訳)

 

この節でヤコブは、

哲学的な意味で「真である」と認めること(これが死んだ信仰です)

によっては人は救われることがない、と主張しています。

人を救うことのできる信仰は活ける信仰だけです。

それでは、

どのようにして私たちは活ける信仰を判別できるのでしょうか。


それは信仰にひき続いてあらわれてくる行いによってなのです。

行いの伴わない信仰は救いません。

それは偽りの信仰だからです。

人を救う信仰は行いも内包しているものです。

とはいえ、

行いは人が救われる根拠なのではありません。

信仰こそが人が救われる根拠なのであり、

よい行いはそのような信仰の結果として生じてくるものです。

 

もっとも

信仰と行いを区別することは必ずしも容易ではありません。

例えば「マルコによる福音書」3章1〜6節には

イエス様が手の萎えた人を癒された出来事が記されています。

そこには

信仰がたんなる論理的な判断ではなく

真に活動的な生きかたであることが示されています。

そのような生きかたはずっと狭苦しい型に押し込められたままでは終わりません。

 

「キリスト・イエスにあっては、

割礼があってもなくても、問題ではない。

尊いのは、愛によって働く信仰だけである。」

(「ガラテアの信徒への手紙」5章6節、口語訳)

 

パウロは生前の頃も自分の神学に対して様々な誤解を受けていましたし、

それを意図的に歪曲する者さえいました。

例えば「コリントの信徒への第一の手紙」6章9節や

上述の「ガラテアの信徒への手紙」5章6節などはそれに関連する箇所です。

ともあれ、

そのようなパウロの神学に対する誤解や曲解を修正しようとしたヤコブは

あえてパウロとは逆の極論を主張するような書きかたをしています。

その結果、

ヤコブの神学はパウロの神学と同様に誤解を生みやすいものになりました。

激しい論戦が繰り広げられているところでは

ともするとこのようなことが起きやすいものです。

 

キリスト教会の歴史を振り返ってみると、

ルター派の倫理は主としてパウロの神学に基づいて形成されてきたのに対して

(カルヴァンなどの)改革派の倫理はヤコブの神学のほうをより重視してきた

とも言えるかもしれません。

例えば社会科学の古典であるマックス・ウェーバーの

「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は

改革派の職業倫理が西欧の資本主義の発展と密接な関わりがあった

と主張しています。