2022年6月2日木曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 少しのパン種でも粉全体をふくらませる

 少しのパン種でも粉全体をふくらませる

 

「また船を見るがよい。

船体が非常に大きく、また激しい風に吹きまくられても、

ごく小さなかじ一つで、操縦者の思いのままに運転される。

それと同じく、舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する。

見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか。」

(「ヤコブの手紙」3章4〜5節、口語訳)

 

上掲の節には船の航路を決める「ごく小さなかじ」や

大火事を引き起こす「ごく小さな火」が出てきます。


これらのイメージは古典古代のギリシア語文献ではよく知られたものであり、

そこでは人間の魂や精神の力が自然の力よりも優れていることを

表現するために使用されています。


それに対して「ヤコブの手紙」はこれらのイメージによって、

ごく小さいことが大きな害を招く場合があることを示そうとしています。


私たち人間を外側から汚そうとする「悪」があります。

しかし、私たち人間に内在している「悪」もあるのです。

このことを言葉の使用による罪は私たちに思い起こさせます

(「マタイによる福音書」15章10〜29節も参考になります)。

イエス様は「おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである。」

と言っておられます(「マタイによる福音書」12章34節より、口語訳)。

 

人がキリスト信仰者として生きていくことは、

たんにその人の生活の一部に限定されるものではなく

全人生にかかわるものです。

そのことをヤコブは読者に伝えようとしています。

 

言葉の使用に関するヤコブの教えは、

人が日常の中で話していることが

その人のキリスト信仰者としての本当の質を表している

という考えに通じるものです。

 

「神は彼らを祝福して言われた、

「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。

また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。

(・・・)主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、

これを耕させ、これを守らせられた。」

(「創世記」1章28節、2章15節、口語訳)

 

旧約聖書冒頭の天地創造の記述で強調されているように、

神様によって人間は被造物世界を指導し支配する地位に任命されています。

人間と他の生物たちとの間には本質的な相違があります。

それをわかりやすく示しているのは、

人間が言葉で話すことができるという点です。

 

「しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう。

だから、もしあなたの内なる光が暗ければ、その暗さは、どんなであろう。」

(「マタイによる福音書」6章23節、口語訳)

 

上掲の箇所で言われているように、

神様からいただいた素晴らしい賜物を神様の御意思に反する目的で使用するとき、

人間は深い闇に覆われてしまいます。

この闇は神様に敵対する者に由来しています。

言葉を話せるという賜物についても同じことが言えます。

 

「舌は火である。

不義の世界である。

舌は、わたしたちの器官の一つとしてそなえられたものであるが、

全身を汚し、生存の車輪を燃やし、自らは地獄の火で焼かれる。」

(「ヤコブの手紙」3章6節、口語訳)

 

上掲の箇所に出てくる「地獄」とはギリシア語原文では「ゲエンナ」といい、

旧約聖書では「ケデロンの谷」を指しています。

この谷ではユダのシデキヤ王の時代に

人間の子どもたちが偶像への生贄として焼かれたのです

(「エレミヤ書」32章35節)。

 

上掲の箇所にある「生存の車輪」という言葉

(ギリシア語では「ホス・トゥロコス・テース・ゲネセオース」)で

ヤコブは何を言いたいのでしょうか。


例えばヒンドゥー教ではこのような表現には

「魂の輪廻転生」といった意味が付与されています。


それに対して、ヤコブの神学においてこの言葉は

「人間の全人生における歩み」を比喩的に表している

と理解することができるでしょう。

 

「わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、

また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。」

(「ヤコブの手紙」3章9節、口語訳)

 

この箇所の最後でいくつかの自然からとった具体例によって

ヤコブが示しているのは、

同じひとりの人間が祝福の言葉と呪いの言葉とを同じ口から発するのは

決して正常な状態ではないということです。

 

「わたしの兄弟たちよ。

いちじくの木がオリブの実を結び、

ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができようか。

塩水も、甘い水を出すことはできない。」

(「ヤコブの手紙」3章12節、口語訳)

 

「創世記」1章11〜12節にもあるように、

それぞれの木はその種に特有な実を結びます。

また、汚水の入った大きな容器の中身は、

たとえそこに一リットルのきれいな水を加えても飲めるものにはなりません。

その一方で、

一リットルの汚水をきれいな水のたくさん入った容器に加えると、

容器内の水は飲めないものになってしまいます。


例えば、

私たちが互いに異なる二通りの態度を相手に応じて使い分けていることを

他の人々が気づいた場合に、

彼らはいったいどちらが本来の私たちの姿を表しているのか判断できずに

困惑することになるのではないでしょうか。

残念なことに、上の汚水の例と同じく人間の場合にも、

ごく少量の悪い部分が他のたくさんの良い部分も汚染してしまうのです。


またその逆のケースとして、

ある人にたとえ少しばかり良い部分があったとしても、

それによって他の大量の悪い部分を打ち消すことはできません。