2019年10月3日木曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 神様によって包み込まれた者として 「詩篇」32篇3〜5節(その2)

 神様によって包み込まれた者として 「詩篇」32篇3〜5節(その2)
  
「すべての罪の負債が、
しかも個人の罪のみではなく全世界のすべての罪が、
キリストの血の代償によってすっかり帳消しにされている」
というメッセージは、
十字架の御許にとどまる者にとって、
人間の理解を超越するきわめて素晴らしいものです。
ところが、
この尊い罪の赦しを「自分のもの」として受け取ることにも、
人はいつの間にかすっかり慣れてしまって、
それが当たり前のことになってしまいます。

多くのキリスト信仰者には似たような経験があると思いますが、
おそらくはそのせいで、
信仰生活が長くなるにつれて神様の御言葉を真剣に聴く姿勢が弱まったり、
神様の御心への従順な態度が薄れたりすることが起きるのでしょう。

一旦そうなってしまうと、
罪の赦しの恵みの素晴らしさを心から感謝することができなくなり、
最後の裁きにおける神様の厳しさにも鈍感になってしまいます。
「キリスト信仰者」という肩書きはつけたまま、
いつしかキリストへの信仰をひっそりと捨ててしまうのです。

もしも人が不信仰な生活をやめて、自分の罪深さを恥じ、
キリストの十字架の御許に戻り、
キリストが成し遂げられた「贖いの御業」と
そのゆえに確保された「罪の赦し」とを、
信仰を通して「自分のもの」として受け入れるということが起きるならば、
これはひとえに神様の恵みであり、聖霊様のなされた御業です。
こうした出来事は「悔い改め」や「方向転換」などと呼ばれるものです。

恵みを「自分のもの」として受け取ることは
生きているかぎりはいつでも可能です。
しかし、
こと「信仰」に関しては次のような逆説的な現象が起こります。
すなわち、キリスト信仰者は自分が実は
「キリスト信仰者」の名に値しない者であることがわからないかぎり、
信仰の本質を把握しているとは言えない、ということです。

このように見てくると、
この「詩篇」32篇の言葉は、
キリストの御許にはじめて赴こうとしている人々だけではなくて、
すでに信仰生活を日常的に送ってきたキリスト信仰者一般にも
あてはまることがわかります。

このことからも、
現代の多くのキリスト教会を蝕んでいる「ある病」がいかに危険なものか、
推察できるのではないでしょうか。
その病とは、
礼拝の説教などで「律法についての教え」がすっかり消え失せている、
ということです。
もしも神様の御言葉が、
神様の視点から見たときに何が正しく何が間違っているか
を明確に教える「律法」として働きかけ、
罪深い存在である私たち人間を必要とあらば容赦なく叱責することがなければ、
いったい誰が神様の御言葉を罪の赦しの「福音」として受け入れて、
キリストの御許に行こうとするでしょうか。

2019年9月20日金曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 神様によって包み込まれた者として 「詩篇」32篇3〜5節(その1)

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について

神様によって包み込まれた者として 「詩篇」32篇3〜5節(その1)

どのようにして罪が人に重くのしかかり苦しみを与えるものであるか、
この「詩篇」の詩人は聴き手の心を揺さぶるようにして語っていきます。
それにもかかわらず、
人は神様の御前に出てひれ伏そうとはせず、
神様との出会いを避けようとします。
そうこうするうちに神様の御前に出るのがだんだん難しくなり、
しまいには不可能になってしまうのです。

それからどうなるでしょうか。

人は神様から逃げ回っている間は心に平和がなく、
絶えず心が動揺し嘆き悲しみにつきまとわれます。
神様の御手がその人の上に重くのしかかり、
逃げ場はどこにもありません。

最終的に、この逃避行は
「自らの罪の告白」と「神様による無条件で完全な罪の赦し」に行き着きます。
ちょうどこのように悔い改めた人間について、
詩篇朗唱者は「さいわいである」と宣言しているのです。

「神様のもの」である人は皆だれでも、
これが何について語っているのかわかるはずです。

キリストの御許をはじめて訪れる人にも、
また間違った道からキリストの御許に戻る人にも
この詩篇の内容は密接に関係しています。

神様の御許であるゴルゴタの十字架の下に
喜んで自発的に赴く人間は誰もいません。

むしろ人は自らの意に反して十字架へと追い込まれていくのです。
そして、そのようにさせるのは他ならぬ神様です。

いったいどのようにしてそうなるのでしょうか。

キリストの十字架の御許に行くように要求する神様の御言葉が
その人の心に触れることによってです。
とはいえ、
御言葉はいつでもたくさんの人々の心を揺り動かすとは限りません。
しかし一方では、
長い不信仰な放浪の果てに神様に無条件降伏し、
自らの行いの正当化を放棄する人たちも出てきます。

この後者のように、
人は自らの罪の告白をするために神様の御前でひれ伏すべきなのです。

2019年9月13日金曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 罪は取り除かれました! 32篇1〜2節(その2)

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について

罪は取り除かれました! 32篇1〜2節(その2)

「義」や「救い」をめぐるテーマについて
教会などで神学的な議論がなされることはよく見受けられますが、
それらの言葉にどのような意味を持たせているかは人によって様々です。

キリスト教徒同士での対話においては、
信仰とキリスト信仰者にふさわしい生活への努力との相互関係が
特に難しい議題となります。
この文脈で「義」という言葉が異なる意味で理解されている例を
次にあげてみましょう。

1)「義」を得るためには、
人間は最善を尽くして神様の御意思に従わなければならない。
信仰者は心の底から悔い改めなければならない。
それによって自分の心から罪を根こそぎ取り去って、
人間の心の中に罪の隠れ場所が全くなくなるようにしなければならない。

2)「義」を得るためには、
神様が人間の心の中にキリストへの信仰と恵みとを
流し込んでくださらなければならない。
この恵みに頼りながら、
人は自分を罪から解放するために戦わなければならない。

3)「義」はキリストの御業に基づく賜物として得られるものである。
キリスト信仰者にふさわしい生活を送る努力について言えば、
キリストを救い主として信じている者にとっては、
そのことを意識して考え始める前にすでにそれは始まっている。

実は、この三番目の選択肢こそがルター派による「義」の理解です。
しかし、このテーマには後ほど立ち戻ることにして、
「詩篇」32篇のはじめの2節に関するルターの的確な説明を次に引用します。

「この箇所はあたかも次のように言っているかのようです。
罪過のまったくない者は一人もいません。
神様の御前では誰もが義に欠けた状態にあります。
このことは、
行いの道を通して義を探し求め、
罪過から解放されるために努力する人々にもあてはまります。
なぜなら、
人間は自分の力では罪過から離れることができないからです。
それゆえ、
罪のない人や自分自身を罪過から解放する人が
さいわいなのではありません。
神様が恵みにおいて罪から解放してくださった人たちだけが
さいわいなのです。」

2019年9月9日月曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 罪は取り除かれました! 32篇1〜2節(その1)

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について

罪は取り除かれました! 32篇1〜2節(その1)

「詩篇」32篇は驚きにみちた喜びの声ではじまります。
これは全詩篇に対する最上の導入部であるとさえ言えるでしょう。

「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。」
(1節、口語訳)

「さいわい」(ヘブライ語で「アシュレー」)という言葉には、
たんに幸福な状態や、周囲からの祝福や羨望の対象になることよりも
はるかに深い意味があります。
「さいわいである」という宣言は聖書に特有な表現です。
ですから、その意味について拙速な判断を下さないようにしましょう。

例えば、イエス様の山上の説教(「マタイによる福音書」5〜7章)は
これと同じ表現で始まっています。

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。

悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。

柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。

義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。

あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。

心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。

平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。

義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。

わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、
あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、
あなたがたは、さいわいである。

喜び、よろこべ、
天においてあなたがたの受ける報いは大きい。
あなたがたより前の預言者たちも、
同じように迫害されたのである。」
(「マタイによる福音書」5章3〜12節、口語訳)

「詩篇」32篇の詩人は、
罪の赦しを受けた人間のことを「さいわいである」と宣言しています。
この宣言についてパウロは
「ローマの信徒への手紙」4章において取り上げています。
それによれば、旧約時代の「神様のもの」であった人々、
たとえばアブラハムやダヴィデは神様の御前で義と認められました。
しかしそれは、彼らがモーセの律法や神様のその他の戒めに厳格に従って
生活したからではありません。
彼らを守ったのは「罪の赦し」だったのです。
それゆえ、
旧約時代の「神様のもの」であった人々と
同じ信仰をもちたいと願う人は誰であれ、ユダヤ人も含めて、
イエス様の血における罪の赦しの守りの中に入らなければなりません。
旧約も新約もまったく同一の真理を証している書物だからです。
まさにここにルター派の信仰の心の声を聴き取ることができます。

2019年9月4日水曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 「詩篇」32篇


「詩篇」32篇

32:1 ダビデのマスキールの歌
そのとががゆるされ、
その罪がおおい消される者はさいわいである。

32:2 主によって不義を負わされず、
その霊に偽りのない人はさいわいである。

32:3 わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、
ひねもす苦しみうめいたので、
わたしの骨はふるび衰えた。

32:4 あなたのみ手が昼も夜も、
わたしの上に重かったからである。
わたしの力は、夏のひでりによってかれるように、
かれ果てた。〔セラ

32:5 わたしは自分の罪をあなたに知らせ、
自分の不義を隠さなかった。
わたしは言った、
「わたしのとがを主に告白しよう」と。
その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。〔セラ

32:6 このゆえに、すべて神を敬う者はあなたに祈る。
大水の押し寄せる悩みの時にも
その身に及ぶことはない。

32:7 あなたはわたしの隠れ場であって、
わたしを守って悩みを免れさせ、
救をもってわたしを囲まれる。〔セラ

32:8 わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、
わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。

32:9 あなたはさとりのない馬のようであってはならない。
また騾馬のようであってはならない。
彼らはくつわ、たづなをもっておさえられなければ、
あなたに従わないであろう。

32:10 悪しき者は悲しみが多い。
しかし主に信頼する者はいつくしみで囲まれる。

32:11 正しき者よ、主によって喜び楽しめ、
すべて心の直き者よ、喜びの声を高くあげよ。

(口語訳)

この「詩篇」は「七つのざんげの詩篇」のひとつに数えられています。
しかし「ざんげの詩篇」の本来のスタイルを踏襲してはいません。

マルティン・ルターは適切な解説を残しています。

「これは「教えの詩篇」であり、
罪とは何か、
人が罪から解放されるためにはどうするべきか、
神様の御前で人が義とされるためにはどうすべきなのか」
ということを教えているのです。」(ルター)

このように「詩篇」は
新約聖書の「義認の教え」にとってもきわめて重要な書なのです。

2019年8月26日月曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 神様は祈りを聴いてくださいます 詩篇6篇9〜11節

 神様は祈りを聴いてくださいます 詩篇6篇9〜11節

この「詩篇」の終わりには
「善なるお方である神様がきっと助けてくださる」
という驚くほど安らかな信頼感が表明されています。

詩篇朗唱者は困難の只中にあって
ただひたすら苦しみ続けているだけではありません。
彼は「神様のもの」となっており、
また神様に信頼する人間でもあります。

人が罪と痛みのゆえに非常に苦しめられる様子と、
心安らかに神様の恵みに信頼を寄せる姿勢とが
同一の「詩篇」の中に収められていることになります。

実はこれは多くの「詩篇」に共通する特質でもあります。
マルティン・ルターはこの特質について
「ここでは真の教師が信仰の基本について教えてくださっている」
という言葉で表現しました。

苦しみと罪、そして喜びと助けとは、
キリスト信仰者の生活の中でも常に並行して現れる現象なのです。

2019年8月12日月曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 苦しみの洪水の中で 詩篇6篇1〜8節(その2)

苦しみの洪水の中で 詩篇6篇1〜8節(その2)


「詩篇」を理解するために
私たちはどのような学び方をするべきなのでしょうか。

一つの学び方は、
テキストに書かれている内容をまず可能な限り字面通りかつ具体的に理解し、
その後で他の解釈を当てはめる可能性を探ってみる、というやり方です。

「敵」と「苦しみ」はここでは単純にそれ自体を表しています。
敵と苦しみからの解放は、死からの救いと平和な生活を意味しています。

もしも肉体的な痛みと苦しみが
「詩篇」で非常に具体的な事象を意味しているのなら、
「罪」もまた具体的な事象を指していることになります。

「罪とは概念的なものにすぎない無害なものである」といったイメージは
現代の私たちの間ではごく普通に見受けられるものですが、
旧約聖書における「罪」についての理解はそれとはまったく異なります。

それによれば、
罪は決してたんに概念的な無害なものではなく、
きわめて日常的な事象です。

罪はその結果としてこの世的な苦しみをもたらし、
それと共に、
罪を犯した人間自身をもその苦しみの中に引きずり込んでいきます。

さらに、人間と神様との関係において
罪はよりいっそう具体的な様相を呈するようになります。
すなわち、人間の罪(の重荷)はその人を神様から引き離してしまうのです。
このことについて「イザヤ書」を次のように言っています。

「見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。
その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。
ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。
またあなたがたの罪が主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。
あなたがたの手は血で汚れ、
あなたがたの指は不義で汚れ、
あなたがたのくちびるは偽りを語り、
あなたがたの舌は悪をささやく。」
(「イザヤ書」59章1〜3節、口語訳)

人は聖なる神様と顔を向かい合わせるとき、自らの罪を思い起こして
「主よ、どうか怒りによって私のことを病気や敵の手に渡さないでください」
と祈ることでしょう。

してみると、
「個人の嘆きの詩篇」のうちの大多数は
本来の意味での「ざんげの詩篇」であるとも言えるでしょう。

このように考えてみると、
「詩篇」を内容的に分類した場合に
「ざんげの詩篇」と見なせる「詩篇」の数は
この聖書講座で扱う七つよりもはるかに多いことになります。