2019年9月13日金曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 罪は取り除かれました! 32篇1〜2節(その2)

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について

罪は取り除かれました! 32篇1〜2節(その2)

「義」や「救い」をめぐるテーマについて
教会などで神学的な議論がなされることはよく見受けられますが、
それらの言葉にどのような意味を持たせているかは人によって様々です。

キリスト教徒同士での対話においては、
信仰とキリスト信仰者にふさわしい生活への努力との相互関係が
特に難しい議題となります。
この文脈で「義」という言葉が異なる意味で理解されている例を
次にあげてみましょう。

1)「義」を得るためには、
人間は最善を尽くして神様の御意思に従わなければならない。
信仰者は心の底から悔い改めなければならない。
それによって自分の心から罪を根こそぎ取り去って、
人間の心の中に罪の隠れ場所が全くなくなるようにしなければならない。

2)「義」を得るためには、
神様が人間の心の中にキリストへの信仰と恵みとを
流し込んでくださらなければならない。
この恵みに頼りながら、
人は自分を罪から解放するために戦わなければならない。

3)「義」はキリストの御業に基づく賜物として得られるものである。
キリスト信仰者にふさわしい生活を送る努力について言えば、
キリストを救い主として信じている者にとっては、
そのことを意識して考え始める前にすでにそれは始まっている。

実は、この三番目の選択肢こそがルター派による「義」の理解です。
しかし、このテーマには後ほど立ち戻ることにして、
「詩篇」32篇のはじめの2節に関するルターの的確な説明を次に引用します。

「この箇所はあたかも次のように言っているかのようです。
罪過のまったくない者は一人もいません。
神様の御前では誰もが義に欠けた状態にあります。
このことは、
行いの道を通して義を探し求め、
罪過から解放されるために努力する人々にもあてはまります。
なぜなら、
人間は自分の力では罪過から離れることができないからです。
それゆえ、
罪のない人や自分自身を罪過から解放する人が
さいわいなのではありません。
神様が恵みにおいて罪から解放してくださった人たちだけが
さいわいなのです。」