2019年9月9日月曜日

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について 罪は取り除かれました! 32篇1〜2節(その1)

「詩篇」とりわけ「ざんげの詩篇」について

罪は取り除かれました! 32篇1〜2節(その1)

「詩篇」32篇は驚きにみちた喜びの声ではじまります。
これは全詩篇に対する最上の導入部であるとさえ言えるでしょう。

「そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。」
(1節、口語訳)

「さいわい」(ヘブライ語で「アシュレー」)という言葉には、
たんに幸福な状態や、周囲からの祝福や羨望の対象になることよりも
はるかに深い意味があります。
「さいわいである」という宣言は聖書に特有な表現です。
ですから、その意味について拙速な判断を下さないようにしましょう。

例えば、イエス様の山上の説教(「マタイによる福音書」5〜7章)は
これと同じ表現で始まっています。

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。

悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。

柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。

義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。

あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。

心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。

平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。

義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。

わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、
あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、
あなたがたは、さいわいである。

喜び、よろこべ、
天においてあなたがたの受ける報いは大きい。
あなたがたより前の預言者たちも、
同じように迫害されたのである。」
(「マタイによる福音書」5章3〜12節、口語訳)

「詩篇」32篇の詩人は、
罪の赦しを受けた人間のことを「さいわいである」と宣言しています。
この宣言についてパウロは
「ローマの信徒への手紙」4章において取り上げています。
それによれば、旧約時代の「神様のもの」であった人々、
たとえばアブラハムやダヴィデは神様の御前で義と認められました。
しかしそれは、彼らがモーセの律法や神様のその他の戒めに厳格に従って
生活したからではありません。
彼らを守ったのは「罪の赦し」だったのです。
それゆえ、
旧約時代の「神様のもの」であった人々と
同じ信仰をもちたいと願う人は誰であれ、ユダヤ人も含めて、
イエス様の血における罪の赦しの守りの中に入らなければなりません。
旧約も新約もまったく同一の真理を証している書物だからです。
まさにここにルター派の信仰の心の声を聴き取ることができます。