2024年4月26日金曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」2章8〜15節 教会における男性と女性(その1)

 教会における男性と女性(その1)

「テモテへの第一の手紙」2章8〜15節

 

「男は、怒ったり争ったりしないで、

どんな場所でも、きよい手をあげて祈ってほしい。」

(「テモテへの第一の手紙」2章8節、口語訳)

 

聖書の教えや記述の中でどの部分が書かれた当時の文化や習慣に束縛され、

どの部分があらゆる時代に有効なのかという難問があります。

上掲の節はこの難問にかかわる典型的な箇所です。

 

現代の(男性)キリスト信仰者も手を挙げて祈るべきなのでしょうか。

あるいはパウロによる祈りの奨励でさえ現代ではもはや有効なものではなく

当時の世界にのみ限定されるやりかたなのでしょうか。

 

「また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、

髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。」

(「テモテへの第一の手紙」2章9節、口語訳)

 

聖書の一部の内容はそれが書かれた当時の習慣や文化に由来するものであり、

そのまま現代に適用するべきものではないのは明らかです。

この例としては女性が髪を編むことを挙げることができます。

当時の娼婦は道具を使って編み上げた髪型にしていることが一般的でした。

上掲の節でパウロは女性が過度に着飾ることの弊害についてだけではなく、

女性キリスト信仰者が服装によってあたかも自分が娼婦であるかのような誤解を

他の人々に与えるべきではないということも述べているものと思われます。

 

2章8節に戻ると、

男性がきよい手を挙げることはたしかに当時特有の所作ですが、

祈ること、怒らないこと、争わないことは

私たち現代人も従わなければならない聖書の指示です。

 

2章9節について、女性が道具を使ってある種の髪型にすることは

たしかに当時特有のやりかたではありますが、

慎ましい身なりや適度な慎み深さ自体は、

2章10節の奨励が信仰について証しているのと同じように、

現代のキリスト信仰者にも当てはまる有効な指示です。

 

ユダヤ人は立って祈りました

(「マルコによる福音書」11章25節、

「ルカによる福音書」18章11、13節)。


その時にはしばしば手を上に挙げて祈りました。

しかし聖書は他の祈りの姿勢についても述べています。

例えばひざまずいたり身を地面に投げ出したりする所作です

(「ルカによる福音書」22章41節、

「使徒言行録」20章36節、

「エゼキエル書」2章1〜2節)。

 

神様の御前に参じる前に、仲たがいをしている隣り人と和解するよう、

イエス様は奨励なさいました

(「マタイによる福音書」5章23〜24節、

「マルコによる福音書」11章25節)。

 

2章8節に基づいて言えることは、

祈りを妨げるものが三つあるということです。

それらは罪と怒りと疑いです。

これらに悩まされているかぎり

私たちは神様の御意思にしたがって祈ることができません。

 

2章8節の「きよい手」は

祈るのにふさわしい態度である「きよい心」を表しているとも言えます。

 

2章9節の冒頭でパウロは

女性たちにも祈ることを奨励していると理解することもできます。

「コリントの信徒への第一の手紙」11章5節でパウロは

教会の集まり(礼拝)で女性が預言することや祈ることについて

明瞭に述べています。

 

「女性はどのように自身を着飾るべきなのか」という問題について

キリスト教会では歴史を通じて議論が続けられてきました。

ある人々は2章9〜10節に基づいて

化粧や装飾品の使用といった着飾ること一切を否定しようとしました。

しかしここで思い起こすべきことがあります。

「ヨハネの黙示録」で新しいエルサレムが

晴れ着をまとった存在として描写されているということです。

 

「また、聖なる都、新しいエルサレムが、

夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、

神のもとを出て、天から下って来るのを見た。」

(「ヨハネの黙示録」21章2節、口語訳)

 

「テモテへの第一の手紙」2章9節にあるように、

キリスト信仰者である女性の身支度を整える真のやりかたとは、

外面的なものではなく(「ペテロの第一の手紙」3章3〜4節)、

神様の御意思にしたがって生きることです。


このことはもちろん男性にもあてはまります。


とはいえ、外面的な身支度を整えることを完全に無視してよい

という意味でもありません。

この節が強調しているのは、

外面的な事柄を重要視しすぎないよう注意するべきであるということです。