結び目の強度は一番弱い箇所で決まる
「ヤコブの手紙」2章10〜13節(その2)
そもそも本当の意味で自由な人間など存在するのでしょうか。
人が自由であるために満たすべき基本的な条件があります。
それは自分がいったい誰でありどのような存在であるかを
正確に把握しているということです。
しかし、自分が何者かを知らない人は
真の意味で自己を実現することができません。
結局のところ、己の何たるかを知らない人は
金銭や権力やその他諸々の事柄によって支配されるようになってしまいます。
では、人間とはいったいどのような存在なのでしょうか。
人間は「神様の似姿」であると聖書は答えています。
「神は自分のかたちに人を創造された。
すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」
(「創世記」1章27節、口語訳)
人間が「神様のかたち」であるように、
律法を含めた神様のすべての啓示も
神様についてのかたちの表れであると言えます。
元々は人間と神様の啓示とは互いに調和していて矛盾がありませんでした。
それゆえ本来ならば律法は「自由の律法」でもありえるものなのです。
最初の人間たちが罪に堕落する以前、人間と神様の啓示は調和していました。
ところが彼らが罪に堕落してしまった結果、
人間のうちにある「神様のかたち」が損なわれ、
彼らの子孫である全人類は神様の御心に反抗するようになりました。
それとともに律法は人間生活における憎らしい敵になってしまったのです。
しかし元からそうだったのではありません。
神様が私たちのうちで御業を行われているとき、
律法の善い面が私たちに明らかにされるので
律法に従うのも嫌ではなくなります。
私たちが律法を神様からの素晴らしい賜物とみなすようになるからです。