2022年3月16日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 真の愛は打算的ではない 「ヤコブの手紙」2章1〜9節(その2)

 あなたの生き方が何に基づいているかはあなたの行いにあらわれている

「ヤコブの手紙」2章

 

真の愛は打算的ではない

「ヤコブの手紙」2章1〜9節(その2)

 

キリスト教会の歴史を振り返ると、

ここでヤコブが断罪しているような出来事が実際にあったことがわかります。

例えば、かつてフィンランドの教会には

富裕者のための特別席が設けられていました。

 

残念なことに、これと似たような事例は

私たちの身近な生活の中からも実に容易に見つけることができます。

例えば、ある日曜日の朝、

教会の入り口に有名な芸能人と浮浪者とがやってきたとしましょう。

教会員たちが彼ら二人に対してまったく平等な態度で接する

とは考えにくいところがあります。

「有名人がキリスト教の礼拝に通って信仰を公けに証することは

私たちの教会を宣伝できるまたとないチャンスでもある」などと考えて

自分の差別的な態度を正当化しようとする人も出てくるのではないでしょうか。

しかし、このような態度はその有名人に対しても不適切なものです。

特定の個人の名声のおかげで教会が享受できるかもしれない

何らかの利益に幻惑されて、

その有名人も神様によって贖われたかけがいのない一人の人間である

という最も大切なことがここでは忘れられているからです。

 

ここでヤコブはふたたび

実行が非常に難しく不可能と言ってよい課題を私たちに突きつけています。

すなわち、人間はすべての隣り人を平等に愛することができないという事実です。

 

「私の周りには隣り人が非常にたくさんいるし、

彼らの必要としている助けも多すぎる。

彼らに対して私はいったい何をするべきなのか」

と自問する人もいるかもしれません。

ここで覚えておくべき大切なことは、

神様は誰に対しても過剰な重荷を押し付けたりはなさらないということであり、

私たちは誰一人、すべての人間に対して

「その人の隣り人」となる使命を課されてはいないということです。

 

私はいったい「誰の隣り人」なのでしょうか。

次に挙げる三つの指針は

私たちがこの問題について健全な判断をするために有益であると思います。

 

1)この世における「あなたの使命」が何なのか、

また神様があなたに何を望んでおられるか、自問してください。

 

2)この世における「他の人たちの使命」も尊重してください。

神様は街頭で伝道することや異教徒に福音を宣べ伝えることを

全員に望んでおられるわけではありません。

 

3)福音伝道には様々な活動があります。

大切なのは、それらが互いに支え合えるようなやりかたを見つけることです。

神様の御国のために働くことは個人事業ではなく、

一つの目標の実現だけを目指す改革運動でもありません。

むしろ、それはキリスト信仰者全員による共同作業なのです。

 

私たちの祈りは

「主よ、ここに私はおります。どうか私の兄弟姉妹を派遣してください」

ではなく

「主よ、ここに私はおります。どうか私を派遣してください」

というものであるべきです

(「マタイによる福音書」9章36〜38節)。

 

「あなたがたに対して唱えられた尊い御名を汚すのは、実に彼らではないか。」

(「ヤコブの手紙」2章7節、口語訳)

 

「尊い御名」とはイエス・キリストという御名前のことです。

そしてこの尊い御名が唱えられる特別な「時」としては、

主の御名によって人が洗礼を受ける時を挙げることができます。