2022年3月2日水曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック  従順さは神様に対する正しい礼拝である 「ヤコブの手紙」1章19〜27節

 従順さは神様に対する正しい礼拝である

「ヤコブの手紙」1章19〜27節

 

ヤコブは御言葉をただ聞くばかりではなく実行する大切さを強調しています。

これは次に引用する箇所からもわかるように

イエス様やパウロとも共通する教えです。

 

「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、

ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。

その日には、多くの者が、わたしにむかって

『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。

また、あなたの名によって悪霊を追い出し、

あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』

と言うであろう。

そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、

『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。」

(「マタイによる福音書」7章21〜23節、口語訳)

 

「なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、

律法を行う者が、義とされるからである。」

(「ローマの信徒への手紙」2章13節、口語訳)

 

一般的にも言えることですが、ヤコブが関心を寄せているのは

「真の信仰からはどのようなことがもたらされるのか」という問題です。

それに対してパウロは

「何が信仰の基礎をなしているのか」という問題を重点的に扱っています。

 

私たちの行いは私たち自身の言葉やメッセージを裏付けるものであるか、

あるいは打ち消してしまうものであるかのどちらかであると言えるでしょう。

もしも私たちが自分で教えていることとはちがうことを行うならば、

私たちの教えは意味も信頼も失ってしまいます。

イエス様はファリサイ派の人々について民に教えて次のように言っておられます。

 

「だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい。

しかし、彼らのすることには、ならうな。彼らは言うだけで、実行しないから。」

(「マタイによる福音書」23章3節、口語訳)

 

次にヤコブは「完全な自由の律法」について教えます。

 

「これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、

聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。

こういう人は、その行いによって祝福される。」

(「ヤコブの手紙」1章25節、口語訳)

 

この節に出てくる「完全な自由の律法」という考え方は、

人間によって自発的に採用された一連の追加規則が

「自由の律法」と呼ばれていたエッセネ派あるいはクムラン教団の

共同体規則と関連しているものかもしれません。

ヤコブによれば、

キリスト信仰者は律法を実行することによって救われはしないが、

報酬をまったく相手から期待することなく

自発的に隣り人に仕えることはできるのです。

 

「おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、

ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。」

(「ヤコブの手紙」1章23節、口語訳)

 

上節にあるように、神様の御言葉はいわば「鏡」のようなものです。

この鏡は「私たちがいかなる存在であるか」ということと

「私たちはどのような者であるべきか」ということを私たちに教示してくれます。

 

寡婦と孤児を助けることは

最初期の教会における中心的な奉仕の働き(ディアコニア)でした

(「使徒言行録」6章1〜3節)。

これが本当に聖書の教えに対して従順な活動であることは

最後の裁き(「マタイによる福音書」25章26〜43節)についての

イエス様の御言葉の中に最もわかりやすく示されていると思います。

 

次の一節は「ヤコブの手紙」のこの箇所の教えの要約となっています。

 

「そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、

ただ聞くだけの者となってはいけない。」

(「ヤコブの手紙」1章22節、口語訳)