2022年9月12日月曜日

「ヤコブの手紙」ガイドブック 「ヤコブの手紙」5章7〜11節 忍耐はいつかかならず報われる(その1)

 忍耐はいつかかならず報われる(その1)

「ヤコブの手紙」5章7〜11節

 

「イエスの再臨について新約聖書がほとんど述べていないのは

それが重要ではないからだ」という主張もときおり耳にします。

「イエス様の再臨」とは、

この世の終わるときにイエス様がこの世に戻ってこられて

生きている人と死んでいる人とを裁かれる未来の出来事のことです。

しかし丁寧に読んでみると、

新約聖書はイエス様の再臨(および最後の裁き)について

実に約300もの箇所で触れているとも言われます。

新約聖書には全部で260の章があるので、

平均して1章につき約1回の割合で

イエス様の再臨(および最後の裁き)に言及されていることになります。

ヤコブばかりではなくパウロもまた

イエス様の再臨についてアテナイのアレイオパギアの賢者たちに対して

次のように語っています。

 

「神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、

今はどこにおる人でも、みな悔い改めなければならないことを命じておられる。

神は、義をもってこの世界をさばくためその日を定め、

お選びになったかたによってそれをなし遂げようとされている。

すなわち、このかたを死人の中からよみがえらせ、

その確証をすべての人に示されたのである」。」

(「使徒言行録」17章30〜31節、口語訳)

 

このようにイエス様の再臨と最後の裁きとは

最初期のキリスト教の宣教において中心的なテーマであったことがわかります。

 

ユダヤ人たちは「主の日」の到来を待ち望んでいました。

その日はユダヤ人たちにとっては喜びの日となり、

異邦人たち(すなわち非ユダヤ人たち)にとっては

苦しみと裁きの日となるはずでした。

キリスト教信仰においても主の再臨への待望は、

上に述べた裁きと喜びという二つの対照的な出来事への期待が含まれています。

 

ヤコブはイエス様ができるかぎりすみやかに

この世に再臨してくださるのを待望していました。

しかしそうはなりませんでした。

ヤコブはまちがっていたのでしょうか。

使徒ペテロはイエス様の再臨を待ち続けることに関する同様の質問に

手紙で次のように答えています。

 

「愛する者たちよ。

この一事を忘れてはならない。

主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。

ある人々がおそいと思っているように、

主は約束の実行をおそくしておられるのではない。

ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、

あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」

(「ペテロの第二の手紙」3章8〜9節、口語訳)

 

イエス様の再臨はいまだ起きていません。

神様がそうなさっているのにはちゃんとした理由があります。

すべては恵みに基づくことなのです。

また、神様と人間とにはそれぞれまったく異なる時間の感覚がある

ということも覚えておかなければなりません。

 

どうしてイエス様の再臨の時がなかなか訪れないのか、

私たちは理性によってあれこれ考えあぐねるべきではありません。

むしろ、自然がいつものように種を成長させてくれることを期待しながら

種を蒔いていく者のような姿勢で活動していけばよいのです。

それと同じようにして、キリスト信仰者は神様の約束なさったことを信頼し、

それがいつかは必ず実現することを期待し続けなければなりません。

農夫は種が実を結ぶのを早めることはできません。

同様に、キリスト信仰者は

神様の立てられたスケジュールに従わなければなりません。

種が実を結ぶようにいつ再臨が訪れるのか、キリスト信仰者は知りません。

それをご存知なのは神様おひとりだけです。

 

「その日、その時は、だれも知らない。

天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」

(「マタイによる福音書」24章36節、口語訳)

 

このことと併せて、次に引用する「ルカによる福音書」12章の

イエス様の警告にも耳を傾けましょう。

 

「するとペテロが言った、

「主よ、この譬を話しておられるのはわたしたちのためなのですか。

それとも、みんなの者のためなのですか」。

そこで主が言われた、

「主人が、召使たちの上に立てて、

時に応じて定めの食事をそなえさせる忠実な思慮深い家令は、

いったいだれであろう。

主人が帰ってきたとき、

そのようにつとめているのを見られる僕は、さいわいである。

よく言っておくが、主人はその僕を立てて自分の全財産を管理させるであろう。

しかし、もしその僕が、主人の帰りがおそいと心の中で思い、

男女の召使たちを打ちたたき、

そして食べたり、飲んだりして酔いはじめるならば、

その僕の主人は思いがけない日、気がつかない時に帰って来るであろう。

そして、彼を厳罰に処して、不忠実なものたちと同じ目にあわせるであろう。

主人のこころを知っていながら、

それに従って用意もせず勤めもしなかった僕は、多くむち打たれるであろう。

しかし、知らずに打たれるようなことをした者は、打たれ方が少ないだろう。

多く与えられた者からは多く求められ、

多く任せられた者からは更に多く要求されるのである。」

(「ルカによる福音書」12章41〜48節、口語訳)