2014年5月7日水曜日

「ローマの信徒への手紙」ガイドブック 3章9〜20節 人は皆、罪深い存在です(その2)


人は皆、罪深い存在です 3920節(その2)


19節と20節にいたってようやく、パウロは、
なぜ彼がこのように長々と人々の罪深さと悪さについて語ってきたか、
その理由を明らかにします。
別に彼は、溜飲を下げるために、
人々のことをあれこれ批判してきたわけではありません。
彼が意図していたのは、
人間全員の口を塞ぎ、彼らを神様の御前で罪人とすることでした。

ファリサイ派の人と徴税人について
イエス様が語られたことが実現します。
律法は、ファリサイ派の人の口を封じませんでした。
それで、その人は自分の罪深さを少しも理解せず、
迷妄の中に留まりました。
一方、律法によって、徴税人の口は封じられ、
その人は聖なる神様の御前に連れて行かれました 
(「ルカによる福音書」18章)。

これは、神様の聖なる律法の最も重要な役割です。
私たち人間は、
自分が善い人間であり、
神様に対しても十分認めていただけるくらいには善い存在だ、
と思い込んでいます。
律法の説教を通して、
神様はこの勘違いを私たちから取り除いてくださるのです。

神様が私たちに対して何を要求なさっているか、
について聖書が語る時、
私たちは良心が動揺するのを覚えます。
自分たちが実は神様の御旨を破っていること、
また、神様の怒りの下で生きていることが、
少しずつわかってきます。

もしも神様が
私たち自身の罪に対する正当な裁きを私たちに下されるならば、
私たちの前に待ち受けているのは、
神様からの罰と怒りと地獄しかないことに、
私たちは気がつきます。

このように、律法は、私たちに罪の自覚を与えます。
それは、
「何が罪か」ということだけではなく、
「罪とはそもそも何か」ということも教えてくれます。


しかし、
神様が私たちに気づかせたいのは、
罪の自覚だけではありません。