2009年5月14日木曜日

マルコによる福音書 第11回目の終わりのメッセージ

終わりのメッセージ

イエス様は涙を流されました。(ヨハネによる福音書11章35節)

イエス様のこの涙は何を語っているでしょうか。その涙は燦然と輝く都を告発しているのです。その涙は「都の住民が一番危険な罪をおかしている」と告発しています。その罪は、誰にもその責任を負えないほどのものです。その罪は、この世においても永遠においても滅びをまねくようなものです。どのような罪でしょうか。それは聖霊様のお仕事に逆らうことです。あのすさまじい恐怖がエルサレムの上におきたのは、この都が神様に対して「罪を悔い改めるべき時」を受け入れようとはしなかったからです。「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、お前のところに遣わされた人たちを石で打ち殺すものよ、ちょうど雌鳥が翼の下にそのひなを集めるように、私はお前の子供たちを幾たび集めようとしたことでしょうか。それなのに、お前は(私に)聞き従おうとはしなかったのです。」(マタイによる福音書23章37節)
これからわかるのは、エルサレムは今聞いたことがらについて自分自身で責任を負わなければならない、ということです。エルサレムは今耳にしたことを無視したため、非常に厳しい状況に落ち込んでしまいました。「私を捨てて、私の御言葉を受け入れない者には、その人を裁くものがあります。私が語ったその御言葉が、その人を終わりの日に裁くでしょう。」(ヨハネによる福音書12章48節)
あなたは「異邦人」[1]ではありません。あなたはが本来のエルサレムがそうであったような「幸福な立場」にあります。あなたはイエス様の御声を聞いたし、イエス様の死へと洗礼を受けています。あなたは学校や家にいて、お母さんやお父さんなどにだっこしてもらえたり、堅信式でイエス様の御前に立ったことがあるかもしれません。ところが、イエス様が近づいてきてあなたを見ようとするときには、どうなりますか。あなたのせいでイエス様の目から涙がこぼれるのでしょうか。イエス様は悲しまれるのでしょうか。あなたのこれからの生き方はイエス様の御前でどのように見えるのでしょうか。イエス様はあなたのあまりのひどさに驚かれることになるのでしょうか。
「私のとうとい血によってあがないだされた人、私の死へと洗礼を受けた人、恵みの御言葉に包まれて成長した人、私がさまざまなやり方で自分のもとへと招いた人、この人が滅びようとしている、」と。
この人は、「本来は神様の御前で悔い改めるべきであった時」を受け入れようとはしなかったのです。おそらくあなたのそうした「神様を求める時」はまだ過ぎ去ってはいないでしょう。それとも、それは今日終わるのでしょうか。もしも今日あなたが主の御声を聞くのなら、心をかたくなにはしないでください。主イエス様の熱い涙のしずくがあなたの良心に降り注ぐにまかせなさい。
この涙を見て、活きた信仰の持ち主や説教者は恥じ入ることでしょう。人間に対する無限の愛について、どれほどイエス様の涙が語っていることでしょうか。周りにいる不信仰な親戚や友人や自分の子供に対して、私たちはいかに気にもかけずにやりすごしてきたことでしょうか。パウロにはイエス様の心がありました。それは、彼には自分の親戚や兄弟姉妹のゆえに心の中に絶えざる痛みと大きな嘆きがあったことからわかります。パウロは、「できることなら、兄弟姉妹のために自分がのろわれてキリストからひきはなされる」ことさえも願っていました。パウロの目には、イエス様と同じく、自分の所属する民(ユダヤ民族)のゆえに、涙がたまっていました。
主イエス様、あなたの涙が私たちに語りかけ、私たちの心を熱く潤し、隣人を無視して眠りつづける態度から私たちを目覚めさせてくださいますように。

K.V.タンミネン (「よい守りの中で))
[1] 「異邦人」とは「ユダヤ人ではない人」のことをさしますが、ここでは「クリスチャンではない人」という意味で使われています。