2009年5月18日月曜日

マルコによる福音書について 12章1~12節

実はどこに?

マルコによる福音書12章


イエス様がエルサレムに上ってこられたことにともない、私たちマルコによる福音書の読者はこの福音書の「頂点」へとますます近づいてきました。今回扱う12章はイエス様が公にエルサレムで教えられる時期に当たっています。こうした世にも稀な状況の中で緊張が高まっていきます。神様の民はどう行動しますか?群集が「ホサナ」と叫んだときのように、エルサレムの民は「イエス様こそキリストだ」と心から告白して受け入れるでしょうか?イエス様には民やその指導者たちに何か言わなければならないメッセージがあるのでしょうか?


ぶどう園とその借用人たちの犯罪 12章1~12節

イエス様は「ぶどう園とその借用人たちのたとえ」を話されました。イエス様の反対者たちはその話に心をかき乱されて、イエス様に対してものすごく怒りました。「マルコによる福音書」は当時の社会的、法的な現実を、震撼するほどの正確さで、ありのままに描き出しています。しかし、旧約聖書をよく知っている人々にとって、イエス様がたんにぶどう園をつくる仕事の大変さについて話しておられたのではないのは、あきらかでした。イザヤ書5章は、預言者の友人がぶどう園をつくり、念入りに世話をするさまについて語っています。彼はぶどう園をよくするために最善を尽くしたにもかかわらず、そこには野ぶどうしかなりませんでした。それで、預言者の友人は園の周囲にあった垣根をこわして、それが踏みつけられるままに放置することに決めました。「イスラエルの部族は万軍の主のぶどう園であり、ユダの男たちは主が喜んで植えられた苗木です。主は公平を待ち望んでおられたのに、見なさい、あるのは不正です。主は正義を待ち望んでおられたのに、見なさい、あるのは叫びです。」(イザヤ書5章7節)。イエス様のぶどう園のたとえはこのイザヤ書のイメージと重なるものです。この場合も、ぶどう園を植林し所有しているのは、神様です。ぶどう園の借用人たちは、神様の民の代表者たちです。召使たちは、預言者たちです。神様はイスラエルに「御自分の民」という特別な地位を与えて、彼らに御心を告げられました。他のすべての民は異邦人であり、活きておられる神様からは何もいただけない立場にありました。主は特別な賜物であるこの民が御自分の意思と公正に則して忠実に歩むことを待ち望まれました。ところがこうはならず、民は神様をないがしろにして好き勝手に生きました。こうした民の悪い振る舞いに対して警告を発した預言者たちは、その代償として迫害を受け、中には殺される者もいました。とうとう最後に神様は、民が神様をしることができるようになるために、御自分の民の只中に御自分の愛する独り子を遣わされました。ところが、それは以前よりもひどい結果を招きました。神様の独り子が人々によって捕らえられ、殺されてしまったのです。こうして、神様の御言葉が予告していたことが実現しました。すなわち、家を造る者たちの捨てた石が「隅のかしら石」となったのです(詩篇118篇22~23節)。イエス様の話は聖書の内容を理解している聞き手にとって非常に明瞭でした。ユダヤ人のやり方で、ヴェールで包みながらも誤解の余地のない形で、イエス様は民全体に、御自分が誰であり、御自分の上にこれからどのようなことが起こるのか、語っておられます。この話は人々の怒りをまきおこし、それもあいまって、イエス様の予言はそのとおり実現しました。神様の御子は本当に皆に捨てられ、十字架に打ち付けられてしまったのです。