2009年1月12日月曜日

マルコによる福音書について 7章24~30節

奇跡を生む信仰 7章24~30節

この箇所はフェニキア生まれの(つまりユダヤ人ではない)女の信仰について語っていますが、この出来事を調べる前に、しばしば忘れられていることがらをここで思い起こす必要があります。それは、「神様は御自分の律法をユダヤ人たちに対してのみお与えになったこと」と、「ユダヤ人たちのみが神の民を構成していたということ」です。ユダヤ人たちは「異邦人」たち[1]とは付き合わず、彼らと一緒に食べることも、彼らと婚姻関係をもつこともしませんでした。ユダヤ人たちはまた、異邦人たちが崇拝しているのと同じ神々を崇拝するようなことはせず、全般的に見れば、異邦人たちと関わりをもとうとはしませんでした。特に宗教に関しては、異邦人たちは神様が「御自分の民」(ユダヤ人)にお与えになったあらゆること(特権)からまったく締め出されていました。ユダヤ人だったイエス様もこの地上で生きておられた間は、死刑の判決を受けられた席以外の場では、ほとんどまったく異邦人たちとはお会いにはなりませんでした。このように、この箇所の出来事に登場するフェニキアの女がユダヤ人たちから見てどのような立場にあったかは、当時の人々にはいわずと知れたことでしたが、現代の私たちはそれを意識して思い起こす必要があるのです。この哀れな女はイエス様に対して助けを求めて叫びますが、イエス様はそ知らぬふりをなさいました。これはまさしくユダヤ人たちのやり方でした。イエス様がこの女の助けを求める叫びに対してたとえによってお答えになる、というのもユダヤ人に典型的なやり方です。「ユダヤ人たちは神様の子どもたちだが、他の民族は犬に過ぎないのだから、子どもたちにあげるためにとってあるパンを犬に与えるのはよくない」というのがそのたとえです。自分の娘が悪霊によってひどく苦しめられているという緊急事態の中で、フェニキアの女はイエス様の御言葉に傷ついたり、尊大になってイエス様の御許から立ち去ったりもしませんでした。女は、テーブルから落ちてくる子どもたちの食べ残しを待ち構えている「子犬」の立場に自分をおくのをいとわないことをイエス様に話しました。そして、この彼女の信仰がイエス様の態度を変えました。主は彼女に助けを与えて立ち去らせなさいました。現代の読者たちはこうしたイエス様の振る舞いに面食らいます。このイエス様の態度の背景にはイエス様の使命があったのです。その使命とは、イエス様は神様の御心を成就するために御自分の民(ユダヤ民族)の只中へと来られたということでした。「まず子どもたちに十分食べさせなさい」とイエス様は言われています。この段階では「異邦人たちの時代」はまだ来てはおらず、異邦人たちの出番は神様の御計画の中では後になってからだったのです。フェニキアの女はあきらめずに、粘り強くイエス様に懇願しました。こうして彼女はあらゆる時代のあらゆるクリスチャンにとって、「粘り強い信仰の模範」となってきました。それと同時にフェニキアの女は、「神様はすべての民族をキリストにおいて招いておられる」ということを、多くの異邦人を含んでいたと思われるマルコによる福音書の読者たちに対しても示したのでした。
[1] ユダヤ人以外の民族のこと。