2025年4月28日月曜日

「テモテへの第二の手紙」ガイドブック 告別の手紙(その2)

「テモテへの第二の手紙」ガイドブック

告別の手紙(その2)

 

この手紙の書かれた当時のパウロの状況を考えてみましょう。

例えばスウェーデンの神学者Bo Giertzによる説明を踏まえると

おおよそ次のようにまとめるとことができるでしょう。

 

パウロはテモテをエフェソに残してマケドニヤに旅し、

そこで「テモテへの第一の手紙」を書いた。


その後で彼はクレタを訪れ、そこにテトスを残した

(ただしパウロはエフェソを訪問する以前に

クレタをすでに訪れていた可能性もある)。


クレタから彼はふたたびエフェソに赴き、そこでテモテと再会した

(「テモテへの第一の手紙」3章14節を参照のこと)。


そこから彼はミレトに行き、

病気になったトロピモはそこに留まることになった

(4章20節)。


ミレトからの旅はトロアスを通ってニコポリへと続けられたものと思われる

(「テトスへの手紙」3章12節)。


パウロはさらにイタリヤへと向かった。


ただし、パウロはローマに着いてから捕らえられたのか、

それともすでにクレタで捕まってそこからローマに連行されたのかは

はっきりしない。

 

ローマでパウロは死刑の判決を受けました

(4章6〜7節)。

後にローマの教会長となる教会教父クレメンスは

パウロの死刑が剣によって執行されたと記しています。

これはローマ市民に対する死刑執行法によるものでした

(「使徒言行録」22章25〜29節には

パウロがローマ市民であったことが記されています)。

 

教父ヒエロニュムスはローマ皇帝ネロの在任14年目すなわち西暦68年に

ペテロもパウロも死刑に処されたと記しています。

そしてネロは同年6月8日に皇帝の座を追われ、翌日に自殺しています。

 

「テモテへの第二の手紙」は使徒パウロの死の少し前に書かれています。

彼の裁判はすでに済んでいたことがこの手紙からわかるからです

(4章16節)。

おそらくパウロは死刑の執行を待つばかりの身となっていたのでしょう

(4章6〜7節)。

 

この手紙の末尾の「恵みが、あなたがたと共にあるように。」は

パウロが書き記し現存している最後の言葉の一つであると思われます。

2025年4月24日木曜日

「テモテへの第二の手紙」ガイドブック ガイドブックの内容 告別の手紙(その1)

「テモテへの第二の手紙」ガイドブック


フィンランド語版執筆者 パシ・フヤネン

(フィンランド・ルーテル福音協会、牧師)

 

日本語版翻訳・編集者 高木賢

(フィンランド・ルーテル福音協会、神学修士)

 

聖書の引用は原則として口語訳によっています。

 

例えば「2章3節」のように章節のみが記されている場合には

「テモテへの第二の手紙」における該当箇所を指しています。

ただし「「使徒言行録」2章3節および3章5節」などと記されている場合には

後者も「使徒言行録」からの引用です。

 

本文中に出てくる使徒教父文書「コリントの信徒への第一のクレメンスの手紙」

からの引用箇所は

Die Apostolischen Väter: Griechish-deutsche Parallelausgabe. 

J.C.B.Mohr (Paul Siebeck) Tübingen 1992に基づく私訳です。

 

日本語版は内容や表現に関して一部フィンランド語版と相違しています。

 

 

「テモテへの第二の手紙」ガイドブックの内容

 

「テモテへの第二の手紙」1章 救いの基盤となるもの

 

「テモテへの第二の手紙」2章 「神様のもの」として生活すること

 

「テモテへの第二の手紙」3章 終わりの時における信仰生活

 

「テモテへの第二の手紙」4章 忍耐の勧め

 

 

 

「テモテへの第二の手紙」について

 

牧会書簡および「テモテへの手紙」の概要については

「テモテへの第一の手紙」ガイドブックの冒頭で説明しました。

https://kentakaki.blogspot.com/2023/10/blog-post.html

https://kentakaki.blogspot.com/2023/10/blog-post_13.html

https://kentakaki.blogspot.com/2023/10/blog-post_31.html


 

告別の手紙(その1)

 

「テモテへの第二の手紙」は「パウロの遺書」と呼んでも差し支えありません。

死刑の執行を間近に控えたパウロの記した最後の手紙だったからです

(4章6〜8節)。

 

パウロは人生で何度か囚人になったことがありますが、

今回の投獄生活は以前よりも過酷でした

(以前のケースについては

「使徒言行録」28章30〜31節に記されています)。

パウロが鎖に繋がれていることや(2章9節)、

ローマに着いた友人たちが熱心に捜しまわった末に

ようやくパウロを尋ね出すことができたことからも

その厳しさが推察できます(1章17節)。

 

パウロは孤独でした。


友人や同僚の中には

パウロを見捨てた者たちもいましたし

(1章15節、4章10、16節)、

福音伝道のために他の場所に出かけていた者たちもいました(4章10節)。

ただ医者のルカだけがパウロのもとに留まっていました(4章11節)。


パウロはテモテと会いたがり(1章4節)、

テモテがパウロのもとを訪れてくれるように、

またその際にはトロアスに以前パウロが残してきた上着や書物

(とくに羊皮紙のもの)を携えてきてくれるように頼んでいます

(4章9、13、21節)。

 

とはいえ、

孤独感だけがパウロにこの手紙を書かせた唯一の動機だったのではありません。

この手紙でパウロは23人もの名前を挙げています。

死が近づく中で使徒パウロは

キリスト教会とキリスト信仰者ひとりひとりのことに心を配っていたのです。

 

この手紙でもパウロはテモテに対して

異端の教えに気をつけるように忠告を与えています(2章23節)。

2025年3月24日月曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」6章20〜21節 あなたにゆだねられていることを守りなさい

 あなたにゆだねられていることを守りなさい

(「テモテへの第一の手紙」6章20〜21節)

 

「テモテよ。あなたにゆだねられていることを守りなさい。

そして、俗悪なむだ話と、偽りの「知識」による反対論とを避けなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」6章20節、口語訳)

 

キリスト教信仰は神様が私たちに示された啓示に依拠していることを

パウロはここで強調しています。

テモテは神様から啓示されたことをしっかり守らなければならないのです。

復活されたキリストは「ヨハネの黙示録」で

テアテラの教会と

フィラデルフィア(口語訳では「ヒラデルヒヤ」)の教会に対しても

同じように命じておられます。

 

「知識」はギリシア語で「グノーシス」といい、

「グノーシス主義」という異端の名称の由来となっています。

 

「ある人々はそれに熱中して、信仰からそれてしまったのである。

恵みが、あなたがたと共にあるように。」

(「テモテへの第一の手紙」6章21節、口語訳)

 

異端の教師たちがまさしく教会の内側から出現してきたことに注目しましょう。

かつてパウロが第三次伝道旅行の際に

エフェソの教会の指導者たちへの別離の挨拶で

予言していた通りのことが起きたのです

(「テモテへの第一の手紙」1章6節も参考になります)。

 

「どうか、あなたがた自身に気をつけ、

また、すべての群れに気をくばっていただきたい。

聖霊は、神が御子の血であがない取られた神の教会を牧させるために、

あなたがたをその群れの監督者にお立てになったのである。

わたしが去った後、

狂暴なおおかみが、あなたがたの中にはいり込んできて、

容赦なく群れを荒すようになることを、わたしは知っている。」

(「使徒言行録」20章28〜29節、口語訳)

 

「テモテへの第一の手紙」は

「恵みが、あなたがたと共にあるように」という一文で閉じられますが、

この手紙の受け取り手は「あなたがた」というように複数形になっています。

古典古代の手紙の中には

個人宛のものであるのに終わりの挨拶は複数形の宛名になっているものが

他にも知られています。

この手紙を書いたとき、パウロはテモテだけではなく

エフェソの教会全体のことも念頭においていたのでしょう。

そしてパウロからの挨拶を教会全体に対して伝えるために

この手紙は教会の礼拝でも朗読されたものと思われます。

 

(これで「テモテへの第一の手紙」ガイドブックを終わります)

2025年3月20日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」6章17〜19節  富の危険

 富の危険

「テモテへの第一の手紙」6章17〜19節

 

「この世で富んでいる者たちに、命じなさい。

高慢にならず、たよりにならない富に望みをおかず、

むしろ、わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に、

のぞみをおくように、」

(「テモテへの第一の手紙」6章17節、口語訳)

 

初期の教会のキリスト信仰者たちの大多数は貧しかったのですが、

この節は経済的に余裕のある教会員たちもいたことを明かしています。

富裕者たちもキリスト教を信じるようになったからです

(「ヤコブの手紙」1章9〜11節、2章1〜4節、5章1〜6節。

「ローマの信徒への手紙」12章16節)。

 

人間には、富のおかげで

自分が神様から離れても自立できると思い込んで

傲慢になってしまう危険があります

(「申命記」8章14節、「エゼキエル書」28章5節)。


しかし富は一晩で消え失せることもありうるような儚いものにすぎません

(「箴言」23章5節、「マタイによる福音書」6章19〜21節)。


人間は朽ちる物などにではなく

活ける神様にこそ信頼を寄せるべきなのです

(「エレミヤ書」9章23〜24節)。

 

神様は高慢な者には敵対し、へりくだる者には恵みを賜ります

(「箴言」3章34節)。

神様が高慢な者に敵対なさるのは、

高慢さには「自分は神に依存せずに独立して生きている」

という考えかたが結びついているからです

(「ローマの信徒への手紙」11章20節)。

 

富はそれ自体としてみれば悪いものではありません。

問題なのは富に対する私たち人間の態度なのです。


もしも富を他の人たちを助けるために用いたいと思うのなら、

私たちは惜しみなく豊かに分け与えてくださる神様の御意思に

従っていることになります

(「ローマの信徒への手紙」10章12節。

「エフェソの信徒への手紙」1章7〜8節、

「フィリピの信徒への手紙」4章19節、

「ヘブライの信徒への手紙」13章15〜16節も参考になります)。

 

人は自分が神様からいただいた賜物や持ち物の管理者にすぎないことを

わきまえるべきです

(「ルカによる福音書」16章10〜11節も参考になります)。


私たちは何かを携えたままこの世を離れることはできません

(「テモテへの第一の手紙」6章7節)。

 

絶えることなく持続する希望は、

物にではなく神様のみに基づくものでしかありえません

(6章17節、「テモテへの第二の手紙」1章9〜10節)。

 

「また、良い行いをし、良いわざに富み、惜しみなく施し、

人に分け与えることを喜び、こうして、真のいのちを得るために、

未来に備えてよい土台を自分のために築き上げるように、命じなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」6章18〜19節、口語訳)

 

人は自分の持ち物を分け与えることによって

神様の御国に宝を積むことになります

(「マタイによる福音書」6章19〜24節、

「ルカによる福音書」12章16〜21節)。

しかし、もしも私たちの宝がこの世的なものであるなら、

私たちの心も神様にではなくこの世に執着していることになります

(「ルカによる福音書」12章33〜34節)。

 

「真のいのち」とは永遠のいのちのことです(6章12節)。

 

神様が与えてくださるこの世での賜物とのかかわりにおいては、

キリスト信仰者を脅かす次の四つの危険が存在します。

 

a. 金銭へのまちがった信頼をおく物質主義(6章17節)

b. 神様からの賜物を受け入れることを拒否する禁欲主義(4章3節)

c. 金銭欲(6章10節)

d. 利己主義(6章5節)

 

これらと正反対のものとしてパウロは

賜物に対する次の四つの正しい態度を提示しています。

 

a. 単純な生きかた(6章8節)

b. 神様からの賜物に感謝する心(4章4節)

c. 神様からいただくもので満足する心(6章8節)

d. 気前の良さ(6章18節)

 

2025年3月12日水曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」6章11〜16節 避けるべきことと追い求めるべきこと(その2)

避けるべきことと追い求めるべきこと(その2)

 

「テモテへの第一の手紙」6章11〜16節


 

「わたしたちの主イエス・キリストの出現まで、

その戒めを汚すことがなく、また、

それを非難のないように守りなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」6章14節、口語訳)

 

「イエス・キリストの出現」とはイエス様の再臨のことです

(「テモテへの第二の手紙」4章1、8節)。

「出現」(ギリシア語で「エピファネイア」)は

一般的にキリスト教会では

イエス様が人としてこの世にお生まれになった最初のクリスマスの出来事

を指しています。

「エピファネイア」は

教会暦での顕現主日(1月6日)のギリシア語の名称です。

 

「時がくれば、

祝福に満ちた、

ただひとりの力あるかた、

もろもろの王の王、

もろもろの主の主が、

キリストを出現させて下さるであろう。」

(「テモテへの第一の手紙」6章15節、口語訳)

 

「祝福に満ちた」とはギリシア語で「マカリオス」といい

「救いのさいわいに満ちた」とも訳せるものです。

 

神様は「もろもろの王の王、もろもろの主の主」です

(「申命記」10章17節、

「ダニエル書」2章47節、

「ヨハネの黙示録」17章14節、19章16節。

「詩篇」136篇2〜3節も参考になります)。

 

「時がくれば」という表現には

特定の時間の指定がなされていないことに注目しましょう。

キリストの再臨の正確な時について御存じなのは神様だけなのです

(「使徒言行録」1章6〜7節)。

 

これと対照的なのが、

イエス様の生誕について述べている

次の「ガラテアの信徒への手紙」の箇所です。

 

「しかし、時の満ちるに及んで、

神は御子を女から生れさせ、

律法の下に生れさせて、

おつかわしになった。」

(「ガラテアの信徒への手紙」4章4節、口語訳)

 

「神はただひとり不死を保ち、

近づきがたい光の中に住み、

人間の中でだれも見た者がなく、

見ることもできないかたである。

ほまれと永遠の支配とが、神にあるように、アァメン。」

(「テモテへの第一の手紙」6章16節、口語訳)

 

神様を見ることはできません(「出エジプト記」33章20節)。

しかしイエス様が神様を啓示してくださったので、

私たちは神様について

私たちの救いに必要な程度までは

知ることができるようになりました

(「ヨハネによる福音書」1章18節)。

 

6章15〜16節の神様への讃歌が7行の文で構成されていることは

偶然ではないでしょう。

7はユダヤ人にとって完全な数です。

この讃美は当時の礼拝式文からの引用であると思われます。

 

旧約聖書の神様と新約聖書の神様は同じ神様であることを

この箇所が強調していることに注目しましょう。

それとは異なり、グノーシス主義は

旧約聖書の神が至高の神ではなく半神的な存在にすぎないと教えました。

2025年3月3日月曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」6章11〜16節 避けるべきことと追い求めるべきこと(その1)

避けるべきことと追い求めるべきこと(その1

「テモテへの第一の手紙」6章11〜16節

 

「しかし、神の人よ。あなたはこれらの事を避けなさい。

そして、義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを追い求めなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」6章11節、口語訳)

 

信仰生活では避けなければならない事柄もあるし、

追い求めなければならない事柄もあります。

悪い事柄を捨て去るだけでは十分ではありません。

悪い事柄が人間の生活をふたたび左右するようにならないために

良い事柄によってそれを満たすべきなのです

(「マタイによる福音書」12章43〜45節も参考になります)。

 

神の人」とはここではテモテのことを指しています

(6章20節と比べてください)。

神の人」は例えば旧約聖書の次の人物たちについて用いられた尊称です。

 

モーセ

(「申命記」33章1節、

「ヨシュア記」14章6節、

「歴代志上」23章14〜15節、

「詩篇」90篇1節)。


サムエル

(「サムエル記上」9章6節)


ダビデ

(「ネヘミヤ記」12章24、36節)


預言者

シマヤ(「列王記上」12章22節)


エリヤ

(「列王記上」17章18節、

「列王記下」1章9節)


エリシャ

(「列王記下」4章7節)


レカブびとハナン

(「エレミヤ書」35章4節)


名前のわからない三人の預言者たち

(「サムエル記上」2章27節、

「列王記上」13章1〜3節、

「歴代志下」25章7節)

 

新約聖書で「神の人」という表現がみられるのは

上掲の節以外では「テモテへの第二の手紙」3章17節だけです。

そこではこの言葉はキリスト信仰者一般を指しています。

 

「信仰の戦いをりっぱに戦いぬいて、永遠のいのちを獲得しなさい。

あなたは、そのために召され、

多くの証人の前で、りっぱなあかしをしたのである。」

(「テモテへの第一の手紙」6章12節、口語訳)

 

私たち人間がこの世で完全には実現できないような事柄を要求してくる

「キリスト教」のような教えがしばしば見られます。

非の打ちどころのない生き方、完璧な信仰生活などがその例です。

しかし、むしろ私たちは

それ自体としては望ましいそれらの事柄を

この世では十分実現できないことをきちんと自覚しつつ、

いくらかでも実現していくために

主からの招きを受けていると考えるべきなのです。

 

いくら熱心に競争したとしても

ゴールに辿り着けないのであれば意味がありません

(「コリントの信徒への第一の手紙」9章24〜27節、

「ヘブライの信徒への手紙」12章1節。

「ルカによる福音書」13章24節、

「ヘブライの信徒への手紙」10章32節も参考になります)。

 

キリスト教信仰は永遠の命への招きであると言えます

(「使徒言行録」13章46〜48節)。

他の箇所でもパウロは

神様が人々を御国に招いておられるということを強調しています。

救いは神様の御業であり人間の行いではありません

(「ローマの信徒への手紙」8章30節、

「コリントの信徒への第一の手紙」1章9〜10節、

「ガラテアの信徒への手紙」1章6節、

「テサロニケの信徒への第一の手紙」2章12節)。

 

上掲の節にある「あかし」とは、

人が洗礼を受ける時に告白したキリスト教の信条を指しているか

(「ローマの信徒への手紙」10章9〜10節)、

あるいは(このほうがより真実に近いと思われますが)、

テモテが福音宣教者の職務に任命されて按手を受けた時に

自ら口頭で告白した信条を指している

(「テモテへの第一の手紙」4章14節、

「テモテへの第二の手紙」1章6節)

とも考えることができます。

 

「わたしはすべてのものを生かして下さる神のみまえと、

またポンテオ・ピラトの面前でりっぱなあかしをなさった

キリスト・イエスのみまえで、あなたに命じる。」

(「テモテへの第一の手紙」6章13節、口語訳)

 

「ポンテオ・ピラトの面前で」は使徒信条のものと同じです。

イエス様はポンテオ・ピラトの面前で

御自分がメシアであることをあかしなさいました

(「ヨハネによる福音書」18章33〜37節、19章10〜11節)。

 

2025年2月17日月曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」6章3〜10節 偽りの富と正しい富(その2)

 偽りの富と正しい富(その2)

「テモテへの第一の手紙」6章3〜10節

 

「しかし、信心があって足ることを知るのは、大きな利得である。」

(「テモテへの第一の手紙」6章6節、口語訳)

 

信仰は富の源です。

しかしそれはこの世的な富ではなくて天国的な富の源です。

 

「わたしたちは、何ひとつ持たないでこの世にきた。

また、何ひとつ持たないでこの世を去って行く。」

(「テモテへの第一の手紙」6章7節、口語訳)

 

人は何も持たずにこの世に生まれ、

同じく何も持たずにこの世から去っていきます

(「ヨブ記」1章21節)。

死んだ人がこの世にどれだけのものを残したのか考えてみましょう。

その答えは富者も貧者も等しく「全部」です。

この世から去る時には誰も何も携えて行くことはできません

(「詩篇」39篇7節、49篇18節、

「伝道の書」5章14節も参考になります)。

 

「金銭を愛することは、すべての悪の根である。

ある人々は欲ばって金銭を求めたため、信仰から迷い出て、

多くの苦痛をもって自分自身を刺しとおした。」

(「テモテへの第一の手紙」6章10節、口語訳)

 

ここで問題視されているのは金銭自体ではなく

金銭欲であることに注意するのが大切です。

金銭は現代社会では必要不可欠な交換手段なので、

金銭との関係をまったくなくすることはできません。

ある神学者が言ったように「この世的な信仰告白」は

「もっと多く!」という標語にまとめることができます。

金銭は麻薬に似たところがあります。

しだいに今までよりも多くの量が欲しくてしかたがなくなり、

しかもそれでも満足できなくなってしまうのです。

金銭の後を追いかけ回すのは塩水を飲み続けることに似ています。

飲めば飲むほど喉の渇きを覚えるようになるのです。

 

聖書には金銭欲で身を滅ぼした人々の例が数多く記されています。

アカンは自身の金銭欲のせいで

イスラエルの民全体に深刻な問題を引き起こしました

(「ヨシュア記」7章)。

イスカリオテのユダは銀貨三十枚の代価として

イエス様を敵に売り渡しました

(「マタイによる福音書」26章14〜16節)。

アナニヤとその妻サッピラは自らの強欲のせいで

神様から死刑の裁きを受けることになりました

(「使徒言行録」5章1〜11節)。

 

上掲の節のはじめの部分

(「金銭を愛することは、すべての悪の根である」)は

翻訳上の問題を含んでいます。

「すべての罪は金銭欲から生じている」とも解釈できそうですが、

パウロ自身はそのようには考えていなかったからです

(「ガラテアの信徒への手紙」5章17〜21節と比べてください)。

むしろ「金銭欲は諸悪の根源である」と訳した方が

パウロの本来の考えに近いでしょう。

 

人はいともたやすく創造主の代わりに被造物を崇拝するようになりやすい

ということを上節は私たちに思い起こさせます。

 

今まで扱ってきた「テモテへの第一の手紙」6章3〜10節は、

神様の御国では金銭の使用について透明化されるべきである

ということを教えています。

隠し口座などがあってはならないのです。