避けるべきことと追い求めるべきこと(その2)
「テモテへの第一の手紙」6章11〜16節
「わたしたちの主イエス・キリストの出現まで、
その戒めを汚すことがなく、また、
それを非難のないように守りなさい。」
(「テモテへの第一の手紙」6章14節、口語訳)
「イエス・キリストの出現」とはイエス様の再臨のことです
(「テモテへの第二の手紙」4章1、8節)。
「出現」(ギリシア語で「エピファネイア」)は
一般的にキリスト教会では
イエス様が人としてこの世にお生まれになった最初のクリスマスの出来事
を指しています。
「エピファネイア」は
教会暦での顕現主日(1月6日)のギリシア語の名称です。
「時がくれば、
祝福に満ちた、
ただひとりの力あるかた、
もろもろの王の王、
もろもろの主の主が、
キリストを出現させて下さるであろう。」
(「テモテへの第一の手紙」6章15節、口語訳)
「祝福に満ちた」とはギリシア語で「マカリオス」といい
「救いのさいわいに満ちた」とも訳せるものです。
神様は「もろもろの王の王、もろもろの主の主」です
(「申命記」10章17節、
「ダニエル書」2章47節、
「ヨハネの黙示録」17章14節、19章16節。
「詩篇」136篇2〜3節も参考になります)。
「時がくれば」という表現には
特定の時間の指定がなされていないことに注目しましょう。
キリストの再臨の正確な時について御存じなのは神様だけなのです
(「使徒言行録」1章6〜7節)。
これと対照的なのが、
イエス様の生誕について述べている
次の「ガラテアの信徒への手紙」の箇所です。
「しかし、時の満ちるに及んで、
神は御子を女から生れさせ、
律法の下に生れさせて、
おつかわしになった。」
(「ガラテアの信徒への手紙」4章4節、口語訳)
「神はただひとり不死を保ち、
近づきがたい光の中に住み、
人間の中でだれも見た者がなく、
見ることもできないかたである。
ほまれと永遠の支配とが、神にあるように、アァメン。」
(「テモテへの第一の手紙」6章16節、口語訳)
神様を見ることはできません(「出エジプト記」33章20節)。
しかしイエス様が神様を啓示してくださったので、
私たちは神様について
私たちの救いに必要な程度までは
知ることができるようになりました
(「ヨハネによる福音書」1章18節)。
6章15〜16節の神様への讃歌が7行の文で構成されていることは
偶然ではないでしょう。
7はユダヤ人にとって完全な数です。
この讃美は当時の礼拝式文からの引用であると思われます。
旧約聖書の神様と新約聖書の神様は同じ神様であることを
この箇所が強調していることに注目しましょう。
それとは異なり、グノーシス主義は
旧約聖書の神が至高の神ではなく半神的な存在にすぎないと教えました。