2023年4月28日金曜日

「ハバクク書」ガイドブック 「ハバクク書」2章5〜20節  バビロニアを嘲る歌(その1)

 バビロニアを嘲る歌 

「ハバクク書」2章5〜20節(その1) 

「また、酒は欺くものだ。

高ぶる者は定まりがない。

彼の欲は陰府のように広い。

彼は死のようであって、飽くことなく、

万国をおのれに集め、

万民をおのれのものとしてつどわせる」。

これらは皆ことわざをもって彼をあざけり、

あざけりのなぞをもって彼をあざ笑わないだろうか。

すなわち言う、

「わざわいなるかな、

おのれに属さないものを増し加える者よ。

いつまでこのようであろうか。

質物でおのれを重くする者よ」。

あなたの負債者は、にわかに興らないであろうか。

あなたを激しくゆすぶる者は目ざめないであろうか。

その時あなたは彼らにかすめられる。

あなたは多くの国民をかすめたゆえ、

そのもろもろの民の残れる者は皆あなたをかすめる。

これは人の血を流し、

国と町と、その中に住むすべての者に

暴虐を行ったからである。

わざわいなるかな、

災の手を免れるために高い所に巣を構えようと、

おのが家のために不義の利を取る者よ。

あなたは事をはかって自分の家に恥を招き、

多くの民を滅ぼして、自分の生命を失った。

石は石がきから叫び、

梁は建物からこれに答えるからである。

わざわいなるかな、

血をもって町を建て、

悪をもって町を築く者よ。

見よ、もろもろの民は火のために労し、

もろもろの国びとはむなしい事のために疲れる。

これは万軍の主から出る言葉ではないか。

海が水でおおわれているように、

地は主の栄光の知識で満たされるからである。

わざわいなるかな、

その隣り人に怒りの杯を飲ませて、これを酔わせ、

彼らの隠し所を見ようとする者よ。

あなたは誉の代りに恥に飽き、

あなたもまた飲んでよろめけ。

主の右の手の杯は、あなたに巡り来る。

恥はあなたの誉に代る。

あなたがレバノンになした暴虐は、あなたを倒し、

獣のような滅亡は、あなたを恐れさせる。

これは人の血を流し、

国と町と、町の中に住むすべての者に、

暴虐を行ったからである。

刻める像、鋳像および偽りを教える者は、

その作者がこれを刻んだとてなんの益があろうか。

その作者が物言わぬ偶像を造って、

その造ったものに頼んでみても、

なんの益があろうか。

わざわいなるかな、

木に向かって、さめよと言い、

物言わぬ石に向かって、起きよと言う者よ。

これは黙示を与え得ようか。

見よ、これは金銀をきせたもので、

その中には命の息は少しもない。

しかし、主はその聖なる宮にいます、

全地はそのみ前に沈黙せよ。」

(「ハバクク書」2章5〜20節、口語訳)

 

この箇所は導入部とバビロニアに対する五つの災いの託宣を含んでいます。

ついにバビロニアの悪行に裁きが下されるのです。

1)貪欲(6節)

2)周辺諸民族からの搾取に基づく建築事業の推進(9節)

3)悪行(12節)

4)暴虐(15節)

5)偶像礼拝(19節)

(19節で「わざわいなるかな」という表現が

18〜20節の中心部に置かれていることにも注目しましょう。)

 

2章5節は口語訳では「また、酒は欺くものだ。」で始まりますが、

クムラン洞窟から見つかった「ハバクク書」版に従って

「富」と訳される場合もあります。

たしかに後者のほうが文脈的には自然に見える表現ではあります。

しかし、多くの国語の翻訳において旧約聖書の底本になっている

Biblia Hebraica Stuttgartensiaでは「酒」のほうを本文に採用しています

 

かつてあるフィンランド人神学者は

「この世の信仰告白は短いたった一語からなる。

それは「飽くことなく」(2章5節)という言葉だ」

と指摘したことがあります。

これについては「箴言」30章15〜16節や

「エゼキエル書」16章28〜29節などが参考になります。

 

いわゆる先進国では

「経済的な成長はこれからもずっと続いていくはずである」

という不確かな希望に信頼することが

一般の人々の間での暗黙の了解になっているように見えます。

しかし世界全体を見渡してみると、

実際にはこのような考えかたが

ただの思い込みにすぎないものであるのは明らかです。

 

エルサレムがまだ陥落していなかった預言者ハバククの時代に

バビロニアがちょうど勢力を拡大しつつあったことを

ここで思い起こしましょう。

しかし、そのバビロニアの覇権も約70年ほど続いたにすぎません。

この世の栄華は儚いものです。

2023年4月20日木曜日

「ハバクク書」ガイドブック 「ハバクク書」2章1〜4節 義人はその信仰によって生きる

 主の御意思はいつか必ず実現する

「ハバクク書」2〜3章

 

義人はその信仰によって生きる「ハバクク書」2章1〜4節

 

「わたしはわたしの見張所に立ち、

物見やぐらに身を置き、

望み見て、彼がわたしになんと語られるかを見、

またわたしの訴えについて

わたし自らなんと答えたらよかろうかを見よう。

主はわたしに答えて言われた、

「この幻を書き、

これを板の上に明らかにしるし、

走りながらも、これを読みうるようにせよ。

この幻はなお定められたときを待ち、

終りをさして急いでいる。それは偽りではない。

もしおそければ待っておれ。

それは必ず臨む。滞りはしない。

見よ、その魂の正しくない者は衰える。

しかし義人はその信仰によって生きる。」

(「ハバクク書」2章1〜4節、口語訳)

 

1章12〜17節で自らの嘆きをあらわにした後で、

ハバククは神様からの返答を待ち始めます(2章1節)。

「詩篇」5篇3節や次に引用する「ミカ書」にも、

同じように神様を信頼しつつ返答を待つ姿勢が描かれています。

 

「しかし、わたしは主を仰ぎ見、わが救の神を待つ。

わが神はわたしの願いを聞かれる。」

(「ミカ書」7章7節、口語訳)

 

旧約の預言者たちは神様によって任命された

「見守る者」(「エゼキエル書」33章7節)や

「見張びと」(「イザヤ書」21章8節)でした。

主の預言者である彼らには、迫りくる数々の危険について

イスラエルの民に警告する使命が与えられていました。

預言者ハバククはイスラエルにではなくバビロニアに対して

主からの裁きが下ることを待ち望んでいます。

 

神様は預言者ハバククに幻を通して答えてくださいました。

それによると、

バビロニアはいずれ必ず裁きを受けることになります。

ただしそれは今すぐのことではなく、

神様がお選びになった時に実現します(2章3節)。


神様の御計画通りに物事が進んでいくことは、

新約聖書の「ヨハネによる福音書」16章4節や

「ガラテアの信徒への手紙」4章4節などにも書かれています。


事実、バビロニアが自らの悪行に対する罰を受けたのは

それから約60年も経ってからでした。

紀元前539年にペルシアがバビロニアを滅亡させることになります。

バビロニアが覇権を誇った期間は約70年間という短いものでした。

 

ハバククは啓示された予言を板の上に書き記すように

主から指示されました(2章2節)。

この板は木製かあるいは当時のメソポタミアでたくさん用いられていた

粘土製であったと思われます。

粘土板には火で焼かれるとかえって板の強度が増すという利点があります。

ハバククの生きていた時代の文書が私たちの現代にまで保存されてきたことには、

この板がかつて火事にさらされたであろうことが関係しています。


預言の言葉は時の経過とともに失われてよいものではなかったのはたしかです。

予言が成就するまでにはかなりの時が経過することがわかっていたからです

(2章3節)。

これと関連する聖書の箇所としては

「イザヤ書」30章8節、「出エジプト記」24章12節、

「申命記」4章13節、「列王記上」8章9節などがあります。

 

ハバククの見た幻すなわち予言は

走りながらでもそれを読み取ることができるくらい

きわめて明瞭に書き記されるべきものでした(2章2節)。

御言葉の伝道者は走りながらでも

そのメッセージをはっきりと宣べ伝えることができなければならないのです。

 

何かと忙しい現代人の中には

待つこと(2章3節)が苦手な人は大勢いるのではないでしょうか。

しかし人間が神様のタイム・スケジュールを早めることはできません。

むしろ私たちは「定められた時を待つ」という態度を習得して、

神様からの約束を信頼し続ける忍耐を自らに乞い願うべきなのです。

これについては次の「ローマの信徒への手紙」の箇所も参考になります。

 

「なぜなら、世界を相続させるとの約束が、

アブラハムとその子孫とに対してなされたのは、

律法によるのではなく、信仰の義によるからである。

もし、律法に立つ人々が相続人であるとすれば、

信仰はむなしくなり、約束もまた無効になってしまう。

いったい、律法は怒りを招くものであって、

律法のないところには違反なるものはない。

このようなわけで、すべては信仰によるのである。

それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、

律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、

この約束が保証されるのである。

アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、

「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」

と書いてあるとおりである。

彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を

信じたのである。

彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。

そのために、

「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、

多くの国民の父となったのである。

すなわち、

およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、

また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、

なお彼の信仰は弱らなかった。

彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、

かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、

神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。

だから、彼は義と認められたのである。」

(「ローマの信徒への手紙」4章13〜22節、口語訳)

 

「見よ、その魂の正しくない者は衰える。

しかし義人はその信仰によって生きる。」

(「ハバクク書」2章4節、口語訳)

 

「ハバクク書」のこの箇所は新約聖書で三回も引用されています

(「ローマの信徒への手紙」1章17節、

「ガラテアの信徒への手紙」3章11節、

「ヘブライの信徒への手紙」10章38節)。

そしてこの短い一節は

1517年に始まったルター派の宗教改革の標語になりました。

 

「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。

これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。」

(「ローマの信徒への手紙」1章17節、口語訳)

 

宗教改革者マルティン・ルターはこの御言葉から

「信仰による義」を発見したのです。

 

「ハバクク書」2章4節で「信仰」と訳されている言葉は

「信頼」とも訳せます。

どちらの言葉も内容的にはほとんど違いがありません。

次に引用する「ヘブライの信徒への手紙」にあるように、

神様からいただいた約束への信頼は信仰にほかなりませんし、

神様からいただいた約束に対する信頼は信仰なしには成り立ちません。

 

「「もうしばらくすれば、

きたるべきかたがお見えになる。

遅くなることはない。

わが義人は、信仰によって生きる。

もし信仰を捨てるなら、

わたしのたましいはこれを喜ばない」。

しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、

信仰に立って、いのちを得る者である。」

(「ヘブライの信徒への手紙」10章37〜39節、口語訳)。

2023年3月29日水曜日

「ハバクク書」ガイドブック 「ハバクク書」1章12〜17節 なぜ神様を蔑ろにする悪辣な者たちがこの世で成功を収めるのか?

 なぜ神様を蔑ろにする悪辣な者たちがこの世で成功を収めるのか? 

「ハバクク書」1章12〜17節

 

「わが神、主、わが聖者よ。

あなたは永遠からいますかたではありませんか。

わたしたちは死んではならない。

主よ、あなたは彼らをさばきのために備えられた。

岩よ、あなたは彼らを懲しめのために立てられた。

あなたは目が清く、悪を見られない者、

また不義を見られない者であるのに、

何ゆえ不真実な者に目をとめていられるのですか。

悪しき者が自分よりも正しい者を、のみ食らうのに、

何ゆえ黙っていられるのですか。

あなたは人を海の魚のようにし、

治める者のない這う虫のようにされる。

彼はつり針でこれをことごとくつり上げ、

網でこれを捕え、

引き網でこれを集め、

こうして彼は喜び楽しむ。

それゆえ、彼はその網に犠牲をささげ、

その引き網に香をたく。

これによって彼はぜいたくに暮し、

その食物も豊かになるからである。

それで、彼はいつまでもその網の獲物を取り入れて、

無情にも諸国民を殺すのであろうか。」

(「ハバクク書」1章12〜17節、口語訳)

 

なぜ真の神様を侮るカルデヤのようなものがユダを懲らしめる許可を得たのか

とハバククは神様に問います。

神様は見ておられないのか、それともこういうことは気にも留めないのか、と。

 

この箇所の冒頭(1章12節)からは、

カルケミシュの戦い(紀元前605年)の起きた後になって

ハバククがこのような記述をしているという推測も成り立ちます。

カルデヤがすでにユダに懲罰を下した状況について

ハバククは知っているからです。

 

神様がユダの罪を罰するためにカルデヤを遣わしたことを

預言者ハバククは理解しました(1章12節)。

同様の事例としては、

アッシリア(「イザヤ書」7章18〜20節、10章5〜6節)や

ペルシアのキュロス王(「イザヤ書」44章28節〜45章1節)

イスラエルの民を懲罰する「神様の鞭」として用いられました。

 

そうではあっても

神様の選ばれた民であるイスラエルが

敵によって完全に滅ぼし尽くされないことにはならないように

ハバククは神様に懇願します。

 

神様はこの世の始まる前から存在しておられます

(「あなたは永遠からいますかたではありませんか」1章12節)。

このことは「申命記」33章27節(「とこしえにいます神」)や

「詩篇」55篇20節(口語訳の19節「昔からみくらに座しておられる神」)、

また次に引用する箇所にも書かれています。

 

「山がまだ生れず、

あなたがまだ地と世界とを造られなかったとき、

とこしえからとこしえまで、

あなたは神でいらせられる。」

(「詩篇」90篇2節、口語訳)

 

神様は万物の造り主であられ、またこの世を支配し導くお方でもあられます。

 

ハバククは神様が

御本質(「あなたは目が清く、悪を見られない者、また不義を見られない者」)

に基づいて働きかけてくださるよう強く願っています。

それは神様が公正を実現してくださるようにという嘆願でもあります。

 

上掲の箇所(1章15節)は

カルデヤびとたちが周辺諸民族からの略奪や捕獲を繰り返してきたことを

比喩的に描いています。

「つり針」は聖書の他の箇所では

神様による裁きを表す比喩として用いられています。

 

「主なる神はご自分の聖なることによって誓われた、

見よ、あなたがたの上にこのような時が来る。

その時、人々はあなたがたをつり針にかけ、

あなたがたの残りの者を

魚つり針にかけて引いて行く。」

(「アモス書」4章2節、口語訳)。

 

同じ意味の比喩としては

「網」(「詩篇」141篇10節

(「わたしがのがれると同時に、

悪しき者をおのれの網に陥らせてください。」)、

「イザヤ書」51章20節、「ミカ書」7章2節)や

「わな」(「コヘレトの言葉」(口語訳では「伝道の書」)7章26節)

などを挙げることができます。

 

「主なる神はこう言われる、

わたしは多くの民の集団をもって、

わたしの網をあなたに投げかけ、

あなたを網で引きあげる。」

(「エゼキエル書」32章3節、口語訳)

 

漁師の作業は主の民が捕囚の身になることを表す比喩であり、

彼らが母国からはるか遠く引き離されて見知らぬ地に投げ込まれる

という意味です。

バビロニアは周辺諸民族の強制移住を大規模に断行しました

(「列王記下」24章12〜16節、25章11〜12、18〜20節)。

バビロニア以前の覇者アッシリアも同様の捕囚政策を強行しています

(「列王記下」17章5〜6、24節)。

 

上掲の箇所(1章16節)には、

バビロニア人たちが自分の強大な軍隊を自画自賛し、

あたかもそれが己の神であるかのように崇拝する有様が描かれています。

2023年3月23日木曜日

「ハバクク書」ガイドブック 「ハバクク書」1章5〜11節  神様からの驚くべき答え

 神様からの驚くべき答え 「ハバクク書」1章5〜11節

 

「諸国民のうちを望み見て、

驚け、そして怪しめ。

わたしはあなたがたの日に一つの事をする。

人がこの事を知らせても、

あなたがたはとうてい信じまい。

見よ、わたしはカルデヤびとを興す。

これはたけく、激しい国民であって、

地を縦横に行きめぐり、

自分たちのものでないすみかを奪う。

これはきびしく、恐ろしく、

そのさばきと威厳とは彼ら自身から出る。

その馬はひょうよりも速く、

夜のおおかみよりも荒い。

その騎兵は威勢よく進む。

すなわち、その騎兵は遠い所から来る。

彼らは物を食おうと急ぐわしのように飛ぶ。

彼らはみな暴虐のために来る。

彼らを恐れる恐れが彼らの前を行く。

彼らはとりこを砂のように集める。

彼らは王たちを侮り、つかさたちをあざける。

彼らはすべての城をあざ笑い、

土を積み上げてこれを奪う。

こうして、彼らは風のようになぎ倒して行き過ぎる。

彼らは罪深い者で、おのれの力を神となす。」

(「ハバクク書」1章5〜11節、口語訳)

 

暴力的な悪がいたるところで横行していることを嘆くハバククに対する

神様からの返答は実に意外なものでした。

暴力的な悪行はこれからも続いていくどころか、

いっそうひどくなっていくというのです。

 

「カルデヤびと」の残虐さと悪辣さは

当時の人々の間では「格言」になるほど知れ渡っていました。

「カルデヤ」は一般的には「バビロニア」という名で知られている国です。

カルデヤ王国すなわちバビロニア王国(正確には新バビロニア王国)は

アッシリア帝国滅亡後の中近東世界に君臨した新たな覇者です。

 

使徒パウロはピシデヤのアンテオケで安息日に会堂に入って宣教したときに

「ハバクク書」1章5節を引用しています。

 

「『見よ、侮る者たちよ。驚け、そして滅び去れ。

わたしは、あなたがたの時代に一つの事をする。

それは、人がどんなに説明して聞かせても、

あなたがたのとうてい信じないような事なのである』」。

(「使徒言行録」13章41節、口語訳)

 

パウロは「ハバクク書」のこの節をイエス様の復活に結びつけています

(「使徒言行録」13章30、37節)。

まさしくイエス・キリストの復活は神様による驚くべき偉大な御業でした。

興味深いことに「ハバクク書」と「使徒言行録」の箇所の間にはどちらにも、

神様の御心を蔑ろにする者は神様による裁きの罰を自らの上に招くことになる

という意味が込められているという共通点があります。

 

ここで「ハバクク書」に戻ると、

強大な権力を握った者にしばしば起こることがやはりカルデヤにも起こりました。

カルデヤはおごり高ぶったのです(「ハバクク書」1章7節)。

カルデヤはその強大な権力を己の「偶像」(偽物の神)にしてしまいました

「ハバクク書」1章11節)。

権力はその行使者をいともたやすく堕落させてしまいます。

そもそも権力とは

ある種の高尚な目的を実現するための手段にすぎないもののはずです。

にもかかわらず、

いつまでも権力の座にしがみつくことが

権力者の最大の目的や関心事になってしまう場合が

あまりにもしばしばみられます。

 

上掲の箇所(「ハバクク書」1章8節)では

当時の中近東世界における「電撃戦」が描写されています。

カルデヤ軍は連戦連勝の快進撃を続け、

それに対抗できる国はひとつもありませんでした。

カルデヤは夥しい数の捕虜を遠方の捕囚地に強制移住させました

(「ハバクク書」1章9節)。

ユダ王国および首都エルサレムもこの「バビロン捕囚」の対象となりました。

紀元前586年のネブカドネザル二世の軍によるエルサレム制圧後、

イスラエルの民はメソポタミアへと強制移住させられたのです

(「歴代誌下」36章11〜21節)。

 

なお、この攻撃では都市の外壁を破壊する際に土塁が築かれました

(「ハバクク書」1章10節、「ナホム書」2章6節)。

これと同様の戦術は

後年のユダヤ戦争でローマ軍が巨大な土塁を築いて防壁を突破し

ユダヤ人たちのマサダ要塞を陥落させた時にも用いられています(西暦72年)。

 

カルデヤ人は活ける真の神様を侮蔑する悪辣な民でした

「ハバクク書」1章11節)。

彼らは己の戦闘力を偶像のように頼りにしていました。

その様子は「ハバクク書」1章15〜17節に記されています。

また「ゼパニヤ書」2章15節には

カルデヤと同じように自らの権勢に酔いしれた

アッシリア帝国の惨めな末路が述べられています。

2023年3月14日火曜日

「ハバクク書」ガイドブック 「ハバクク書」1章2〜4節 社会に横行する悪行を嘆く預言者

 社会に横行する悪行を嘆く預言者 「ハバクク書」1章2〜4節

 

主よ、わたしが呼んでいるのに、

いつまであなたは聞きいれて下さらないのか。

わたしはあなたに「暴虐がある」と訴えたが、

あなたは助けて下さらないのか。

あなたは何ゆえ、わたしによこしまを見せ、

何ゆえ、わたしに災を見せられるのか。

略奪と暴虐がわたしの前にあり、

また論争があり、闘争も起っている。

それゆえ、律法はゆるみ、公義は行われず、

悪人は義人を囲み、公義は曲げて行われている。」

(「ハバクク書」1章2〜4節、口語訳)

 

この箇所でハバククは

当時のユダ王国で横行した悪事の数々について述べています。

それに対して後に出てくる1章12〜17節では

バビロニア人たちの悪名高い残酷さや悪辣さを描写しています。

また1章5〜6節ではバビロニアがユダを

その悪行のゆえに罰するために攻撃してくることが語られています。

 

上掲の箇所旧約聖書の「哀歌」と同じ形式で書かれています。

例えば「詩篇」3、13、22篇もこれと似た状況を描写しています。

 

「聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌

主よ、いつまでなのですか。

とこしえにわたしをお忘れになるのですか。

いつまで、み顔をわたしに隠されるのですか。

いつまで、わたしは魂に痛みを負い、ひねもす心に

悲しみをいだかなければならないのですか。

いつまで敵はわたしの上にあがめられるのですか。

わが神、主よ、みそなわして、わたしに答え、

わたしの目を明らかにしてください。

さもないと、わたしは死の眠りに陥り、

わたしの敵は「わたしは敵に勝った」と言い、

わたしのあだは、わたしの動かされることによって喜ぶでしょう。

しかしわたしはあなたのいつくしみに信頼し、

わたしの心はあなたの救を喜びます。

主は豊かにわたしをあしらわれたゆえ、

わたしは主にむかって歌います。」

(「詩篇」13篇、口語訳)

 

「いつまで」は「哀歌」でもよく使われている言葉ですが、

「ハバクク書」1章2節の他にも

上掲の「詩篇」13篇2〜3節や「イザヤ書」6章11節などに出てきます。

もうひとつの典型的な言葉は「何ゆえ」です。

これは「ハバクク書」1章3節の他にも例えば「詩篇」22篇2節、

「エレミヤ書」20章18節、「哀歌」5章20節に登場します。

 

ユダ王国では数々の悪事が行われているにもかかわらず、

それを神様はあえて容認しておられる、とハバククは感じていました。

何ゆえに神様はそれらの悪行を妨げなかったのでしょうか

(「ハバクク書」1章2節)。

神様は御自分の民を助け支えることを約束なさっていたはずではありませんか。

旧約聖書にはこのテーマに関連する箇所がたくさんあります。

例えば「申命記」20章4節、「詩篇」18篇41節、33篇16〜19節、

「イザヤ書」59章1〜2節、「エレミヤ書」42章7〜11節などです。

同じような疑問に苦しめられた旧約聖書の代表的な人物としては

ヨブ(「ヨブ記」6章28〜30節)や

「詩篇」の詩人アサフ(「詩篇」73篇)を挙げることができます。

 

「今、どうぞわたしを見られよ、

わたしはあなたがたの顔に向かって偽らない。

どうぞ、思いなおせ、まちがってはならない。

さらに思いなおせ、

わたしの義は、なおわたしのうちにある。

わたしの舌に不義があるか。

わたしの口は災を

わきまえることができぬであろうか。」

(「ヨブ記」6章28〜30節、口語訳)

 

神様を平気で貶めている悪辣な連中は

何ゆえに神様から妨げられることなく悪を行い続けているのでしょうか。

悲惨な現実は少なくとも人間の目にはそのようなものとして映ったのです。

ユダ王国はエホヤキムの治世(在位期間は紀元前609〜597年)に

すっかり汚職に塗れ、法廷さえも賄賂によって左右されていました

「ハバクク書」1章3〜4節)。