2023年4月20日木曜日

「ハバクク書」ガイドブック 「ハバクク書」2章1〜4節 義人はその信仰によって生きる

 主の御意思はいつか必ず実現する

「ハバクク書」2〜3章

 

義人はその信仰によって生きる「ハバクク書」2章1〜4節

 

「わたしはわたしの見張所に立ち、

物見やぐらに身を置き、

望み見て、彼がわたしになんと語られるかを見、

またわたしの訴えについて

わたし自らなんと答えたらよかろうかを見よう。

主はわたしに答えて言われた、

「この幻を書き、

これを板の上に明らかにしるし、

走りながらも、これを読みうるようにせよ。

この幻はなお定められたときを待ち、

終りをさして急いでいる。それは偽りではない。

もしおそければ待っておれ。

それは必ず臨む。滞りはしない。

見よ、その魂の正しくない者は衰える。

しかし義人はその信仰によって生きる。」

(「ハバクク書」2章1〜4節、口語訳)

 

1章12〜17節で自らの嘆きをあらわにした後で、

ハバククは神様からの返答を待ち始めます(2章1節)。

「詩篇」5篇3節や次に引用する「ミカ書」にも、

同じように神様を信頼しつつ返答を待つ姿勢が描かれています。

 

「しかし、わたしは主を仰ぎ見、わが救の神を待つ。

わが神はわたしの願いを聞かれる。」

(「ミカ書」7章7節、口語訳)

 

旧約の預言者たちは神様によって任命された

「見守る者」(「エゼキエル書」33章7節)や

「見張びと」(「イザヤ書」21章8節)でした。

主の預言者である彼らには、迫りくる数々の危険について

イスラエルの民に警告する使命が与えられていました。

預言者ハバククはイスラエルにではなくバビロニアに対して

主からの裁きが下ることを待ち望んでいます。

 

神様は預言者ハバククに幻を通して答えてくださいました。

それによると、

バビロニアはいずれ必ず裁きを受けることになります。

ただしそれは今すぐのことではなく、

神様がお選びになった時に実現します(2章3節)。


神様の御計画通りに物事が進んでいくことは、

新約聖書の「ヨハネによる福音書」16章4節や

「ガラテアの信徒への手紙」4章4節などにも書かれています。


事実、バビロニアが自らの悪行に対する罰を受けたのは

それから約60年も経ってからでした。

紀元前539年にペルシアがバビロニアを滅亡させることになります。

バビロニアが覇権を誇った期間は約70年間という短いものでした。

 

ハバククは啓示された予言を板の上に書き記すように

主から指示されました(2章2節)。

この板は木製かあるいは当時のメソポタミアでたくさん用いられていた

粘土製であったと思われます。

粘土板には火で焼かれるとかえって板の強度が増すという利点があります。

ハバククの生きていた時代の文書が私たちの現代にまで保存されてきたことには、

この板がかつて火事にさらされたであろうことが関係しています。


預言の言葉は時の経過とともに失われてよいものではなかったのはたしかです。

予言が成就するまでにはかなりの時が経過することがわかっていたからです

(2章3節)。

これと関連する聖書の箇所としては

「イザヤ書」30章8節、「出エジプト記」24章12節、

「申命記」4章13節、「列王記上」8章9節などがあります。

 

ハバククの見た幻すなわち予言は

走りながらでもそれを読み取ることができるくらい

きわめて明瞭に書き記されるべきものでした(2章2節)。

御言葉の伝道者は走りながらでも

そのメッセージをはっきりと宣べ伝えることができなければならないのです。

 

何かと忙しい現代人の中には

待つこと(2章3節)が苦手な人は大勢いるのではないでしょうか。

しかし人間が神様のタイム・スケジュールを早めることはできません。

むしろ私たちは「定められた時を待つ」という態度を習得して、

神様からの約束を信頼し続ける忍耐を自らに乞い願うべきなのです。

これについては次の「ローマの信徒への手紙」の箇所も参考になります。

 

「なぜなら、世界を相続させるとの約束が、

アブラハムとその子孫とに対してなされたのは、

律法によるのではなく、信仰の義によるからである。

もし、律法に立つ人々が相続人であるとすれば、

信仰はむなしくなり、約束もまた無効になってしまう。

いったい、律法は怒りを招くものであって、

律法のないところには違反なるものはない。

このようなわけで、すべては信仰によるのである。

それは恵みによるのであって、すべての子孫に、すなわち、

律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、

この約束が保証されるのである。

アブラハムは、神の前で、わたしたちすべての者の父であって、

「わたしは、あなたを立てて多くの国民の父とした」

と書いてあるとおりである。

彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を

信じたのである。

彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。

そのために、

「あなたの子孫はこうなるであろう」と言われているとおり、

多くの国民の父となったのである。

すなわち、

およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり、

また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、

なお彼の信仰は弱らなかった。

彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、

かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、

神はその約束されたことを、また成就することができると確信した。

だから、彼は義と認められたのである。」

(「ローマの信徒への手紙」4章13〜22節、口語訳)

 

「見よ、その魂の正しくない者は衰える。

しかし義人はその信仰によって生きる。」

(「ハバクク書」2章4節、口語訳)

 

「ハバクク書」のこの箇所は新約聖書で三回も引用されています

(「ローマの信徒への手紙」1章17節、

「ガラテアの信徒への手紙」3章11節、

「ヘブライの信徒への手紙」10章38節)。

そしてこの短い一節は

1517年に始まったルター派の宗教改革の標語になりました。

 

「神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。

これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。」

(「ローマの信徒への手紙」1章17節、口語訳)

 

宗教改革者マルティン・ルターはこの御言葉から

「信仰による義」を発見したのです。

 

「ハバクク書」2章4節で「信仰」と訳されている言葉は

「信頼」とも訳せます。

どちらの言葉も内容的にはほとんど違いがありません。

次に引用する「ヘブライの信徒への手紙」にあるように、

神様からいただいた約束への信頼は信仰にほかなりませんし、

神様からいただいた約束に対する信頼は信仰なしには成り立ちません。

 

「「もうしばらくすれば、

きたるべきかたがお見えになる。

遅くなることはない。

わが義人は、信仰によって生きる。

もし信仰を捨てるなら、

わたしのたましいはこれを喜ばない」。

しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、

信仰に立って、いのちを得る者である。」

(「ヘブライの信徒への手紙」10章37〜39節、口語訳)。