2025年11月20日木曜日

「テモテへの第二の手紙」ガイドブック 「テモテへの第二の手紙」2章20〜21節 さまざまな使命

さまざまな使命

「テモテへの第二の手紙」2章20〜21節

「大きな家には、

金や銀の器ばかりではなく、

木や土の器もあり、

そして、あるものは尊いことに用いられ、

あるものは卑しいことに用いられる。

もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら、

彼は尊いきよめられた器となって、

主人に役立つものとなり、

すべての良いわざに間に合うようになる。」

(「テモテへの第二の手紙」2章20〜21節、口語訳)

 

神様は

ダマスコへと向かうサウロ(後にパウロと改名)を立ち止まらせて、

異邦人たちに福音を宣べ伝えるために選ばれた「器」として召命なさいました

(「使徒言行録」9章15節)。


この「器」は上掲の箇所での「器」と同じ単語

(ギリシア語では「スケウオス」)であり

「武器」という意味も持っています。


むしろ、ここでは後者の意味のほうが妥当なのかもしれません。

 

もちろんパウロは本来の「器」という意味でもこの単語を用いています。

神様は同じ粘土からさまざまな「器」を作る権能を持っておられるのです

(「ローマの信徒への手紙」9章21節)。

 

「卑しい器」も「尊いきよめられた器」になることができる

と上掲の箇所が述べていることに注目しましょう。


粘土は結局のところ粘土のままであり、

力と輝きは神様からくるものです

(「コリントの信徒への第二の手紙」4章7節)。


パウロは

キリスト信仰者を迫害する者から異邦人の使徒へと変えられました。

すべては神様の恵みによるものであった

とパウロは述懐しています。

 

「しかし、神の恵みによって、

わたしは今日あるを得ているのである。

そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、

むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。

しかしそれは、

わたし自身ではなく、

わたしと共にあった神の恵みである。」

(「コリントの信徒への第一の手紙」15章10節、口語訳)。

2025年10月24日金曜日

「テモテへの第二の手紙」ガイドブック 「テモテへの第二の手紙」2章14〜19節  真理の御言葉の教師(その2)

 真理の御言葉の教師(その2)

「テモテへの第二の手紙」2章14〜19節

 


「俗悪なむだ話を避けなさい。

それによって人々は、ますます不信心に落ちていき、

彼らの言葉は、がんのように腐れひろがるであろう。

その中にはヒメナオとピレトとがいる。」

(「テモテへの第二の手紙」2章16〜17節、口語訳)

 

異端の教師たちは「がん」のような存在です。

彼らの活動を抑止しないかぎり、

腐敗がどんどん蔓延していき、

最終的には命取りになります。

 

ヒメナオについてはすでに「テモテへの第一の手紙」1章20節にも

名前が挙げられています。

ヒメナオもピレトも他のことについては何も知られていないたちです。

 

「彼らは真理からはずれ、

復活はすでに済んでしまったと言い、

そして、ある人々の信仰をくつがえしている。」

(「テモテへの第二の手紙」2章18節、口語訳)

 

異端とは、

真理から外れてさまよい、的外れな生きかたをすることです

(「テモテへの第一の手紙」6章21節)。


異端に陥った者たちは

彼らに追従する人々のことも異端に巻き込んでいきます。


例えば、

グノーシス主義者ヴァレンティノスは

異端に陥っていたにもかかわらず、

ローマ教会の主教に選出される寸前まで行きました。


140年代にマルキオンは教会の大多数を異端に追い込みました。


300年代にアリウス派は

正しい教えを絶滅させかけるほどの脅威となりました。


遺憾ながら、

教会史では教会が異端に惑わされかけた事例がたくさんあります。

 

上節にあるように、異端の教師たちは「復活」を否定しました。


おそらく彼らはキリストの復活そのものを否定したのではなく、

キリスト信仰者の復活はすでに受洗時に起きたのだから

他の種類の復活はもう起きないというように教えたのでしょう。


このような教えは

パウロの洗礼(ギリシア語で「バプテスマ」)の教えに対する

誤解によるものだと思われます。

例えば、パウロは次のように書いています

(「ローマの信徒への手紙」6章3〜4節にも同様の教えがあります)。

 

「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、

同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、

彼と共によみがえらされたのである。」

(「コロサイの信徒への手紙」2章12節、口語訳)。

 

異端の教えがいかに猛威を振るおうとも

神様の築かれた土台は決して揺るがないことを次の節は教えています。

 

「しかし、神のゆるがない土台はすえられていて、

それに次の句が証印として、しるされている。

「主は自分の者たちを知る」。

また「主の名を呼ぶ者は、すべて不義から離れよ」。」

(「テモテへの第二の手紙」2章19節、口語訳)

 

たとえエフェソのキリスト教徒の大多数が

正しい信仰を捨てたとしても(1章15節)、

絶望的な状況になったわけではありません。


神様は教会の主、真の主人、建築者であられるため、

人間が神様の御業を完全に無効にすることは決してできないからです。

 

「それゆえ、主なる神はこう言われる、

「見よ、わたしはシオンに

一つの石をすえて基とした。

これは試みを経た石、

堅くすえた尊い隅の石である。

『信ずる者はあわてることはない』。」

(「イザヤ書」28章16節、口語訳)。

 

主は「主のもの」たち(「信ずる者」)のことをよくご存知です

(「民数記」16章5節、

「マタイによる福音書」7章23節、

「コリントの信徒への第一の手紙」8章3節および14章38節)。

 

「主のもの」たちは不義から離れなければなりません

(「イザヤ書」52章11節)。

彼らは神様に由来するものを大切にしようとしますが、

神様の敵対者に由来するものに束縛されることは望みません。

 

2025年10月21日火曜日

「テモテへの第二の手紙」ガイドブック 「テモテへの第二の手紙」2章14〜19節 真理の御言葉の教師(その1)

 真理の御言葉の教師(その1)

「テモテへの第二の手紙」2章14〜19節

 

「あなたは、これらのことを彼らに思い出させて、

なんの益もなく、

聞いている人々を破滅におとしいれるだけである

言葉の争いをしないように、

神のみまえでおごそかに命じなさい。」

(「テモテへの第二の手紙」2章14節、口語訳)

 

言葉の争いは信仰に関わる懸案事項の解決には何の役にも立ちません。

言い争っているうちに

双方とも自分の意見をいっそう激しく主張するようになる傾向があるからです。


さまざまな異端をたくさん研究したある牧師は

「モルモン教などの信者たちと出会った時にはすぐ言い争いを始めたりせずに、

むしろその出会いを彼らにキリストを証する好機と考えるべきである」

と言ったことがあります。


これは重要な視点です。


キリスト教信仰とはキリストについて宣べ伝えることであり、

宗教に関わる諸問題について対話したり口論したりすることではありません

(「テトスへの手紙」3章10節も参考になります)。

 

上節の「破滅」はギリシア語で「カタストロフェー」といい、

現代でよく使われる「カタストロフィー」の元になっている言葉です。

救いをもたらす正しい信仰から迷い出てしまうことは

真のカタストロフィーだと言えましょう。

 

「あなたは真理の言葉を正しく教え、

恥じるところのない錬達した働き人になって、

神に自分をささげるように努めはげみなさい。」

(「テモテへの第二の手紙」2章15節、口語訳)

 

上節の「正しく教える」はギリシア語で「オルトトメオー」といい

「正しく切り分ける」という意味を持っています。

パウロも使用したとされる

ギリシア語旧約聖書七十人訳(セプトゥアギンタ)でこの単語は

例えば「(神様の)道を正しく教える」という意味で用いられています

(「箴言」3章6節および11章5節)。

 

「テモテへの第二の手紙」が書かれてから

約30年後に執筆された「ヨハネの黙示録」では、

エフェソの教会は自ら経験した忍耐と労苦について、

復活されたキリストからお褒めの言葉をいただきました

(「ヨハネの黙示録」2章2節)。

ということは、テモテは真理の言葉を

エフェソの信徒たちに正しく教えることができたのでしょう。

2025年10月3日金曜日

「テモテへの第二の手紙」ガイドブック 「テモテへの第二の手紙」2章8〜13節 神様の忠実さ(その2)

神様の忠実さ(その2)

「テモテへの第二の手紙」2章8〜13節

 

 

「次の言葉は確実である。

「もしわたしたちが、彼と共に死んだなら、

また彼と共に生きるであろう。」」

(「テモテへの第二の手紙」2章11節、口語訳)

 

「次の言葉は確実である」(ギリシア語で「ピストス・ホ・ロゴス」)は

牧会書簡で何度も用いられている表現です

(「テモテへの第一の手紙」1章15節および3章1節および4章9節、

「テトスへの手紙」3章8節)。

 

「テモテへの第二の手紙」2章11〜13節には、

現代の私たちには知られていない文書からの引用があります。

これは初期の教会の礼拝あるいは洗礼式の式文から

採られたものなのかもしれません。

 

「キリスト・イエスとともに死ぬこと」は

人が洗礼を受ける時に起きる出来事です

(「ローマの信徒への手紙」6章3、8節)。

 

「「もし耐え忍ぶなら、彼と共に支配者となるであろう。

もし彼を否むなら、彼もわたしたちを否むであろう。

たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である。

彼は自分を偽ることが、できないのである」。」

(「テモテへの第二の手紙」2章12〜13節、口語訳)

 

洗礼において受洗者は

「キリスト信仰者として生きていく」という召命を受けます。

 

イエス様は使徒たちが来るべき神様の御国で

イスラエルの十二部族を御自身と共に支配するようになる

と約束なさいました

(「マタイによる福音書」19章28節。

また「ヨハネの黙示録」20章6節も参考になります)。

 

キリストは御自分を否んだ者たちを最後の裁きで否むことになる、

という聖書の記述(「マタイによる福音書」10章33節)は

大勢のキリスト信仰者を怯えさせました。


しかしここで思い出すべきことがあります。


ペテロは公の場で三度も「自分はイエスを知らない」

と言ってしまったにもかかわらず

(「マタイによる福音書」26章69〜75節)、

後になってから、

使徒のグループにふたたび参加させてもらえたということです

(「ヨハネによる福音書」21章15〜19節。

また「マルコによる福音書」16章7節も参考になります)。


人に最終的な裁きをもたらすのは、

キリストが全人類の罪を帳消しにした救い主であられることを

否定することであり、

キリストの証人としてうまくいかなかった個々の出来事ではありません。

 

上掲の箇所の終わりの

「たとい、わたしたちは不真実であっても、彼は常に真実である」

という言葉は、キリストの忠実さを強調しています。


これこそが救いの基になっているものです。


救いは私たち人間の忠実さや不忠実さにではなく、

キリストが成し遂げられたことにのみ依存しているのです。

 

「彼(すなわち神様)は自分を偽ることが、できないのである」

という点で、

神様が御心により

御自分の全能性に自ら制限を設けておられることに注目しましょう。


御自身の本質のゆえに神様は悪を行うことができません。

全能者なる神様はどのようなこともできるにもかかわらず、

その本質のゆえに、よいことばかり行われるのです。

神様の特質のひとつに忠実さがあります。

 

「神は人のように偽ることはなく、

また人の子のように悔いることもない。

言ったことで、行わないことがあろうか、

語ったことで、しとげないことがあろうか。」

「民数記」23章19節、口語訳)

 

人間たちの不忠実さでさえ、

神様が約束なさったことを別の何かに変えることはできないのです

「ローマの信徒への手紙」3章3〜4節および9章6〜8節)。

 

2025年9月26日金曜日

「テモテへの第二の手紙」ガイドブック 「テモテへの第二の手紙」2章8〜13節 神様の忠実さ(その1)

 神様の忠実さ(その1)

「テモテへの第二の手紙」2章8〜13節

 

「ダビデの子孫として生れ、

死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、

いつも思っていなさい。

これがわたしの福音である。」

(「テモテへの第二の手紙」2章8節、口語訳)

 

旧約聖書にその到来が約束されていたメシアはダビデの子孫でした

(「マタイによる福音書」22章42節、

「ローマの信徒への手紙」1章3節)。

 

死人のうちからキリストがよみがえられたことは、

パウロにとって決して譲歩できないキリスト教信仰の核心でした

(「コリントの信徒への第一の手紙」15章12〜19節)。

 

パウロの宣教した福音は

彼自身の発案によるものではなく

神様からの賜物でした

(「テモテへの第一の手紙」1章11節、

「ローマの信徒への手紙」2章16節)。

 

「この福音のために、

わたしは悪者のように苦しめられ、

ついに鎖につながれるに至った。

しかし、神の言はつながれてはいない。」

(「テモテへの第二の手紙」2章9節、口語訳)

 

パウロは福音のゆえに多くの労苦を強いられました

(「コリントの信徒への第二の手紙」11章22〜29節)。


「悪者」はギリシア語で「カクウルゴス」といい

「悪事を行なった者」という意味を持ち、

イエス様と一緒に十字架につけられた二人の男たちの呼び名でもありました

(「ルカによる福音書」23章32節)。

 

「それだから、わたしは選ばれた人たちのために、

いっさいのことを耐え忍ぶのである。

それは、彼らもキリスト・イエスによる救を受け、

また、それと共に永遠の栄光を受けるためである。」

(「テモテへの第二の手紙」2章10節、口語訳)

 

神様はパウロをまさしく福音のゆえに苦しみを受けるために召命した

とさえ言っておられます

(「使徒言行録」9章10〜19節)。

囚人となった時にもパウロは福音を宣べ伝えることができました。

例えば、

フィリピ(「使徒言行録」16章25〜34節)、

エルサレム(「使徒言行録」23章1〜6節)、

カイザリヤ(「使徒言行録」24章10〜23節、26章1〜29節)

そしてローマ(「使徒言行録」28章30〜31節)においてです。

2025年9月1日月曜日

「テモテへの第二の手紙」ガイドブック 「テモテへの第二の手紙」2章1〜7節 福音のために労苦しなさい(その2)

福音のために労苦しなさい(その2)

「テモテへの第二の手紙」2章1〜7節

 

「キリスト・イエスの良い兵卒として、わたしと苦しみを共にしてほしい。」

(「テモテへの第二の手紙」2章3節、口語訳)

 

福音宣教者は労苦に耐え忍ばなければなりません。

この世的な多くの事柄について労苦するのは人として当然である

というのが一般な認識だと思います。

それにひきかえ、神様の御国のために労苦することの意義は

一般にはほとんど認められていないと思えることがしばしばあります。

 

パウロは労苦について三つの具体例を挙げています。

1)兵士(2章4節)

2)競技者(2章5節)

3)農夫(2章6節)

 

1)

「兵役に服している者は、日常生活の事に煩わされてはいない。

ただ、兵を募った司令官を喜ばせようと努める。」

(「テモテへの第二の手紙」2章4節、口語訳)

 

戦争で兵士は最優先課題を集中的に遂行しなければならないため、

日常の瑣事に煩わされていてはいけません

(「コリントの信徒への第一の手紙」9章7節、

「申命記」20章5〜7節、

「コリントの信徒への第二の手紙」6章7節および10章3〜5節、

「エフェソの信徒への手紙」6章11〜17節も参考になります)。

 

2)

「また、競技をするにしても、

規定に従って競技をしなければ、栄冠は得られない。」

(「テモテへの第二の手紙」2章5節、口語訳)

 

他の手紙でもパウロはキリスト信仰者を競技者にたとえています。

例えば「フィリピの信徒への手紙」3章13〜14節や

次の「コリントの信徒への第一の手紙」の箇所です。

 

「あなたがたは知らないのか。

競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。

あなたがたも、賞を得るように走りなさい。

しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。

彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、

わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。

そこで、わたしは目標のはっきりしないような走り方をせず、

空を打つような拳闘はしない。

すなわち、自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。

そうしないと、

ほかの人に宣べ伝えておきながら、自分は失格者になるかも知れない。」

(「コリントの信徒への第一の手紙」9章24〜27節、口語訳)

 

古代のオリンピック競技では優勝者に月桂冠が授与されました。

それに対して、

信仰を人生の終わりまで守り通したキリスト信仰者には

公平な審判者である主から「義の冠」が授けられるのです(4章8節)。

 

3)

「労苦をする農夫が、だれよりも先に、生産物の分配にあずかるべきである。」

(「テモテへの第二の手紙」2章6節、口語訳)

 

この節は当時の広大な農地の耕作について述べています。

農地の大半は農夫たちに貸し出されていました。

そして、土地の借り手である農夫が

誰よりも先に生産物の分配にあずかるべきであるとされました

(「コリントの信徒への第一の手紙」9章7節)。

 

怠惰な者によってなされた土地の耕作は実を結びません

(「箴言」10章5節、20章4節、24章30〜34節、27章18節)。

 

御言葉の種を蒔く作業においては、

神様のみが作物を成長させてくださるということを

私たちは覚えておかなければなりません。

 

「わたしは植え、アポロは水をそそいだ。

しかし成長させて下さるのは、神である。

だから、植える者も水をそそぐ者も、ともに取るに足りない。

大事なのは、成長させて下さる神のみである。」

(「コリントの信徒への第一の手紙」3章6〜7節、口語訳)

 

もちろん、普通の農業においても

最終的にはほかならぬ神様が作物を成長させてくださっていることを

忘れてはいけません。

 

パウロは御言葉の種を蒔くことや、

キリスト教信仰を宣教する者としてふさわしい生きかたをすることに

熱心でした

(「コリントの信徒への第二の手紙」6章3〜10節、

「フィリピの信徒への手紙」2章16節)。


その一方で、パウロは

福音伝道が彼自身によるものではなく

神様御自身によるものであることを

明確に認識していました。

 

御言葉の種を蒔く作業においても

「人は自分のまいたものを、刈り取ることになる」

ことに注意すべきです(「ガラテアの信徒への手紙」6章7節より)。

 

今まで述べてきた三つの例を通して

パウロは福音の宣教で大切になる次の三つの心構えを説こうとしています。

 

1)重要事項に集中するべきである

2)規則を遵守して(すなわち神様の御意思に沿って)活動するべきである

3)労苦に耐えるために心を整えるべきである

 

「わたしの言うことを、よく考えてみなさい。

主は、それを十分に理解する力をあなたに賜わるであろう。」

(「テモテへの第二の手紙」2章7節、口語訳)

 

最後に、パウロは御言葉を伝える仕事が

この世の基準だけでは測ることができないものであることを

テモテに諭しています。


人間的な視点からすると、福音の宣教は愚かなことです

(「コリントの信徒への第一の手紙」1章18〜25節、2章6〜10節)。


しかし、御言葉を宣教する仕事は

人間の視点によってではなく、

神様の視点によって評価されるべきものなのです。

 

2025年8月25日月曜日

「テモテへの第二の手紙」ガイドブック 「テモテへの第二の手紙」2章1〜7節 福音のために労苦しなさい(その1)

 「神様のもの」としての生きかた

「テモテへの第二の手紙」2章

 

福音のために労苦しなさい(その1)

「テモテへの第二の手紙」2章1〜7節

 

「そこで、わたしの子よ。

あなたはキリスト・イエスにある恵みによって、

強くなりなさい。」

(「テモテへの第二の手紙」2章1節、口語訳)

 

この箇所から、パウロはさまざまな奨励について順次述べていきます。

しかしそれに先立って、パウロはテモテに

それらの奨励が神様の恵みによってのみ実現できるものであることを

再確認するように促しています。


神様の助けと恵みがないかぎり、

私たちは神様の要求なさることを何一つ満たすことができないからです。

 

「そして、あなたが多くの証人の前でわたしから聞いたことを、

さらにほかの者たちにも教えることのできるような忠実な人々に、

ゆだねなさい。」

(「テモテへの第二の手紙」2章2節、口語訳)

 

パウロは福音宣教が四つの段階から構成されていることを指摘します。


第一に、パウロは福音を神様からいただきました。


第二に、パウロは福音をテモテに宣べ伝えました。


第三に、テモテはこれから信頼できる人々に

福音を委ねていかなければなりません。


第四に、それを受けて彼らはさらに他の人々に福音を教えていくのです。

 

上節は原文に基づくと二通りの解釈ができます。


第一の解釈は、

テモテが福音を多くの証人を通じてパウロから聴いたというものです。


第二の解釈は、

多くの証人が傍で聞いている時に

パウロがテモテに福音を語ったというものです。


後者のケースでは、

テモテが同行していたパウロの伝道旅行のことか、

あるいはテモテが教会の責任者(牧師)に任命された時のことを

示唆しているものと考えられます。


テモテが牧師としての按手を受ける際に

パウロはテモテがこれから宣べ伝えていかなければならない

キリスト教信仰の福音を公に語ったのかもしれません

(「テモテへの第一の手紙」1章18節、4章14節、

「テモテへの第二の手紙」1章6、14節)。

2025年8月14日木曜日

「テモテへの第二の手紙」ガイドブック 「テモテへの第二の手紙」1章15〜18節 忠実な友と不忠実な友

 忠実な友と不忠実な友

「テモテへの第二の手紙」1章15〜18節

 

「あなたの知っているように、

アジヤにいる者たちは、皆わたしから離れて行った。

その中には、フゲロとヘルモゲネもいる。

どうか、主が、オネシポロの家にあわれみをたれて下さるように。

彼はたびたび、わたしを慰めてくれ、またわたしの鎖を恥とも思わないで、

ローマに着いた時には、熱心にわたしを捜しまわった末、

尋ね出してくれたのである。

どうか、主がかの日に、あわれみを彼に賜わるように。

――彼がエペソで、どれほどわたしに仕えてくれたかは、

だれよりもあなたがよく知っている。」

(「テモテへの第二の手紙」1章15〜18節、口語訳)

 

エフェソはアジヤ州の州都でした。

この箇所でパウロは自分の教会ではなく

手紙の受け取り手たちの教会の状況について述べています。

 

パウロは「皆わたしから離れて行った」と書いていますが、

これは誇張でしょう。

エフェソには少なくともオネシポロの家族がいましたし

(1章16節、4章19節)、

テモテはパウロに対して忠実を貫いたからです。

 

エフェソとローマの間で

パウロの近況についての情報が共有されていたことに注目しましょう。

現代よりもはるかに時間がかかったものの、

ローマ帝国は当時の社会としては

高度に発達した情報化社会だったとも言えます。

 

フゲロとヘルモゲネ(1章15節)について私たちは何も知りません。

パウロがここで彼らの名前を挙げたのは、

少なくとも彼らは忠実でいてくれるだろう

というパウロの期待のあらわれなのかもしれません。

 

アジヤに住んでいる者は、ユダヤ人もギリシヤ人も皆、

パウロの宣教した主の福音を聞く機会がありました

(「使徒言行録」19章10節)。

にもかかわらず、

エフェソの信徒たちは使徒パウロを裏切り、失望させました。


パウロは第三次伝道旅行の際に

キリスト信仰から離反する者たちが出てくることを予見していました

(「使徒言行録」20章28〜29節)。

残念ながら、その通りになってしまいました。

 

オネシポロ(1章16節)はエフェソの商人だったようです。

彼はローマに旅行した時に

パウロの投獄されている牢屋を捜し当てました。

 

パウロが最初にローマで投獄された時

(「使徒言行録」28章30〜31節)とは異なり、

今回のパウロの投獄は鎖に繋がれる過酷なものでした

(2章9節。「エフェソの信徒への手紙」6章20節も参考になります)。

 

この手紙が書かれた時点で

オネシポロがすでに死んでいたかどうかは不明です。


ローマ・カトリック教会は

死者たちのために祈ることの聖書的な根拠として

例えば上掲の1章18節

(「どうか、主がかの日に、あわれみを彼に賜わるように。

――彼がエペソで、どれほどわたしに仕えてくれたかは、

だれよりもあなたがよく知っている。」)

を挙げています。


オネシポロがすでに死んでいたと解釈する場合には、

パウロはこの節で死者のために祈ったことになります。


死者のために祈ってよいかどうかという質問を受けた

宗教改革者マルティン・ルターは

「一度か二度なら祈ってもかまわないが、

その後は主に死者をお委ねしなさい!」

と答えています。

 

オネシポロがパウロに仕えた(1章18節)のは

パウロの第三次伝道旅行の時か、あるいは

パウロが出獄後にエフェソを訪問した時のことであったと思われます

(「テモテへの第一の手紙」1章3節)。

 

この世における福音伝道は

極めて困難な状況に追い込まれることがあります

(「ルカによる福音書」18章8節が参考になります)。


しかし神様は福音がこの世から完全に消滅することを決して容認なさいません。


キリストに従うようになった人々も含めて全人類を惑わすために、

サタンはあらゆる手段を講じます

(「コリントの信徒への第二の手紙」11章14節、

「ペテロの第一の手紙」5章8節)。

ですから、

私たちは神様の敵対者(サタン)の力を軽視せずに戦うために

神様からの支えを祈り願うべきなのです。

 

「そして、あなたにゆだねられている尊いものを、

わたしたちの内に宿っている聖霊によって守りなさい。」

(「テモテへの第二の手紙」1章14節、口語訳)