2025年1月23日木曜日

「テモテへの第一の手紙」ガイドブック 「テモテへの第一の手紙」6章1〜2節 奴隷と主人

職務を忠実に果たすことへの奨励

「テモテへの第一の手紙」6章

 

奴隷と主人

「テモテへの第一の手紙」6章1〜2節

 

「くびきの下にある奴隷はすべて、

自分の主人を、真に尊敬すべき者として仰ぐべきである。

それは、神の御名と教とが、そしりを受けないためである。

信者である主人を持っている者たちは、

その主人が兄弟であるというので軽視してはならない。

むしろ、ますます励んで仕えるべきである。

その益を受ける主人は、信者であり愛されている人だからである。

あなたは、これらの事を教えかつ勧めなさい。」

(「テモテへの第一の手紙」6章1〜2節、口語訳)

 

自分の主人がキリスト信仰者である奴隷たちは

主人も自分も共通の信仰をもっているという理由で

自分を特別扱いしてくれるよう主人に要求するような誘惑に駆られました。

しかしパウロは彼らがむしろ以前よりも熱心に自分の主人たちに仕えるように

と奨励しています。

またキリスト信仰者である奴隷たちは

キリスト信仰者ではない主人たちをも敬わなければなりません。

こうすることによって

奴隷たちは神様についてと自らの信仰について

よい証をすることになるからです。

現代と同じように当時も、教会に属さない人々は

キリスト信仰者たちの生きかたを観察することを通じて

神様について様々なことを理解したつもりになる傾向があります

(「ローマの信徒への手紙」2章24節、

「イザヤ書」52章5節も参考になります)。

 

「くびき」は聖書では下に押しつける重い何かを一般的にあらわしています

(「歴代志下」10章4節、

「イザヤ書」9章3節(口語訳では4節)、47章6節)。

イエス様は御自分に従う者たちに対して

負いやすいくびきと軽い荷を与えることを約束してくださいました

(「マタイによる福音書」11章29〜30節)。

 

上掲の箇所の最後の部分はいろいろな解釈ができます。

例えば

「彼らの益を受ける主人は信仰者であり神様に愛されているからである」とか

「自分が神様に愛されていることを知っているキリスト信仰者である主人は

自分の奴隷に対しても多くの良いことを行うからである」とか

「神様に愛されている信仰者とは

他の人々に良いことを行おうと努める者だけだからである」などという解釈です。

要するにパウロはこの箇所で奴隷の主人たちにも指示を与えている

と考えることもできるのです

(「エフェソの信徒への手紙」6章5〜9節、

「コロサイの信徒への手紙」3章22節〜4章1節も参考になります)。

 

「パウロや最初の頃のキリスト信仰者たちが

奴隷制の廃止を断固とした態度で要求するどころか、

むしろこの制度の存続を容認しているようにさえ見えるのはどうしてなのか」

という問いかけが今までなされてきました

(「コリントの信徒への第一の手紙」7章17〜24節も参考になります)。

 

ローマ帝国にはおよそ五千万人の奴隷がいたと推定されています。

ローマ社会の全体が奴隷制によって支えられ成り立っていたのです。

首都ローマのおよそ百五十万人の住民のうちの七割は奴隷が占めていました。

ですから

奴隷制を突然廃止したならば

ローマ社会全体に非常な混乱が生じたことでしょう。

 

実は奴隷解放は奴隷自身にも

常に良い結果をもたらすものとはかぎりませんでした。

主人たちは年老いた奴隷たちを解放しましたが、

それは彼らを扶養する義務を免れるためでもありました。

解放された奴隷たちはしばしば無一文のまま放り出されたのです。

 

キリスト教の信仰が社会を大きく変えた結果、

奴隷制はその思想的な基盤を失い廃止されていくようになりました。

この点で「ガラテアの信徒への手紙」3章26節に加えて

次の箇所が参考になります。

 

「そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、

割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。

キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。」

(「コロサイの信徒への手紙」3章11節、口語訳)