救いの歴史の連鎖を構成するものとして
「テモテへの第二の手紙」1章6〜14節(その3)
「神はわたしたちを救い、
聖なる招きをもって召して下さったのであるが、
それは、わたしたちのわざによるのではなく、
神ご自身の計画に基き、
また、永遠の昔にキリスト・イエスにあって
わたしたちに賜わっていた恵み、
そして今や、
わたしたちの救主キリスト・イエスの出現によって
明らかにされた恵みによるのである。
キリストは死を滅ぼし、
福音によっていのちと不死とを明らかに示されたのである。」
(「テモテへの第二の手紙」1章9〜10節、口語訳)
神様の御国への聖なる招きと救いについて述べている上掲の箇所は
当時の教会の洗礼式の式文の一部であったと考えられています。
救いはひとえに神様の恵みによるものであり、
私たち人間の行いにはまったく関係がありません(1章9節)。
ただ神様の恵みのゆえに
私たちは神様の子どもとして救いにあずかるように招かれているのです
(「ローマの信徒への手紙」3章28節、
「エフェソの信徒への手紙」2章8〜9節、
「テトスへの手紙」3章5節)。
これと同じことは
神様がこの世の始まる前にすでに
人間のための救いの歴史について決めておられたことにもうかがえます。
人類を救われる神様の御計画は
人が誰ひとり何ひとつ行わないうちに
すでに決められていたのです
(「エフェソの信徒への手紙」1章4節、
「ペテロの第一の手紙」1章20節)。
神様による選びは人間の理性では把握できません。
しかしそれは聖書に忠実な教えなのです。
宗教改革者マルティン・ルターは
当時の高名な人文主義者エラスムスの著書「自由意志論」を反駁するために
「奴隷的意志」という著書によってこの難問と取り組みました。
神様からすれば、
最初の人間たちが罪に堕落したこと(「創世記」3章1〜19節)は
予想外の出来事ではありませんでした。
神様はあらかじめそのような事態を想定しておられたからです。
全人類が罪へ堕落したために猛威を振るうようになった破滅の力は
ゴルゴタの十字架において無力化されました。
十字架にかけられたキリストが
すべての人のすべての罪のために身代わりに死んでくださったからです
(「ヨハネの第一の手紙」2章2節)。
イエス様は私たちを圧倒的な罪の力から解放して
(「テモテへの第二の手紙」1章10節、
「テトスへの手紙」1章4節、2章13節、3章6節)、
暗闇から光へと救い出してくださいました
(「テモテへの第一の手紙」1章1節、2章3節、4章10節、
「テトスへの手紙」1章3節、2章10節、3章4節)。