救いの歴史の連鎖を構成するものとして(その1)
「テモテへの第二の手紙」1章6〜14節
「こういうわけで、あなたに注意したい。
わたしの按手によって内にいただいた神の賜物を、
再び燃えたたせなさい。」
(「テモテへの第二の手紙」1章6節、口語訳)
福音を説教する教会の責任者(牧師)になる按手を
パウロから受けた時に
テモテがどのような「神の賜物」を授けられたのか私たちは知りません
(「テモテへの第一の手紙」4章14節)。
もしかしたらこの賜物は「牧師職」それ自体を指していたのかもしれません。
パウロは教会職を「恵みの賜物」とみなしていたからです
(「ローマの信徒への手紙」12章6〜8節、
「コリントの信徒への第一の手紙」12章4〜5節)。
ローマ・カトリック教会は上節などを根拠にして
牧師職が聖礼典(サクラメント)であるという教義的立場をとっています
(「エフェソの信徒への手紙」4章7、11節も参照してください)。
それに対して宗教改革者マルティン・ルターは
聖礼典では神様の命じる御言葉に具体的な物質が結びついていなければならない
と教えました。
それゆえルターは牧師職ばかりか
改悛(牧師に罪を告白し牧師から罪の赦しの宣言を受けること)さえも
聖礼典としては認めようとしませんでした。
彼が明確に聖礼典として認めたのは
洗礼と聖餐の二つだけでした。
御言葉は
洗礼では水と
聖餐ではパンやぶどう酒と
分かちがたく結びついているからです。