救いの歴史の連鎖を構成するものとして(その2)
「テモテへの第二の手紙」1章6〜14節
「というのは、
神がわたしたちに下さったのは、
臆する霊ではなく、
力と愛と慎みとの霊なのである。」
(「テモテへの第二の手紙」1章7節、口語訳)
テモテは内向的な性格だったようです。
パウロはコリントの信徒たちにテモテを軽んじないように忠告しています
(「コリントの信徒への第一の手紙」16章10〜11節。
また「テモテへの第一の手紙」4章12節も参考になります)。
「だから、あなたは、
わたしたちの主のあかしをすることや、
わたしが主の囚人であることを、
決して恥ずかしく思ってはならない。
むしろ、神の力にささえられて、
福音のために、わたしと苦しみを共にしてほしい。」
(「テモテへの第二の手紙」1章8節、口語訳)
パウロは
自分がテモテからも見捨てられるのではないか
と危惧していたふしがあります
(1章15節。
また「ヨハネによる福音書」6章67節も参考になります)。
異端教師たちが高い人気を誇る一方で、
あくまでも正しい教えにこだわるパウロは
教会員たちからも疎まれる存在だったのかもしれません。
教会の長い歴史の中では、
大部分の教会が偽の信仰に陥り
ごく一部の少数派だけが正しい信仰に留まる
という異常事態が発生したことがあります。
300年代のアリウス派の異端や、
とりわけ宗教改革以前のローマ・カトリック教会などが
その典型的な事例です。
上掲の節にもあるように、
パウロは福音を恥じませんでした
(「ローマの信徒への手紙」1章16節、
「コリントの信徒への第一の手紙」2章1〜10節)。
テモテも福音のゆえに苦しみを受けたことが上節からは伝わってきます。
「ヘブライの信徒への手紙」13章23節は
テモテも囚人となった経験があることを示唆しています。
パウロは囚人となることを
キリストの証人の甘受すべき試練のうちのひとつとみなしていました
(「エフェソの信徒への手紙」3章1節、4章1節、
「フィレモンへの手紙」1節、9節)。
しかしこの苦難も
神様からのお助け(「神の力」)によってのみ
耐え忍ぶことができるものです。